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【第百八十八話:仮】

正丸峠の旧道。

かつて多くの走り屋たちが夜な夜なタイヤを鳴らし、命の火花を散らしたその峠道は、今や深い霧と静寂に包まれていた。湿ったアスファルトは濡れた黒い蛇のように山肌をのたうち、ひび割れた隙間から名もなき雑草が不気味に生い茂っている。

その漆黒の闇の中、一台の白いシルビアが、息を潜めるように停車していた。

ヘッドライトは消され、月光だけがその煤けた白いボディを青白く浮かび上がらせている。


ボンネットの上に腰掛け、静かに夜空を見上げている男がいた。 藤野直人。

灰色の和服を模したジャージの襟元から覗く首筋には、白く、そして毛先がわずかに黒く染まった猫耳が、夜風に吹かれてパタパタと小刻みに揺れている。

彼の端整な横顔は、彫刻のように美しく、しかし同時に、極限まで磨り減った精神の「乾き」を体現しているようでもあった。直人は指先で、道端から毟り取った野生のハコベの茎を弄び、それをゆっくりと口に運んだ。

咀嚼する。苦く、青臭い泥の味が、乾ききった喉を通り抜けていく。

彼は飢えていた。生存のために必要な最低限の栄養すら削り落とし、自らの内燃機関を限界まで絞り込んでいる。その瞳は澄んだブルーでありながら、底のない虚無の沼のように静まり返っていた。


「……にゃ。夜の正丸は、今でも微かに、あの頃のスキール音と、ガソリンの匂いが染みついてるにゃん。エキマニの熱が冷えていく音だけが、この闇に響いてるにゃ」


直人は、冷めていくボンネットの鉄板に触れた。

S14の心臓部から発せられる熱が、夜気へと奪われていく。彼が手取り二十五万円という人間の薄汚い給与の全てを注ぎ込んで維持しているその鉄の塊は、今、静かにその金属音を「キン、キン」と闇に響かせていた。


「お久しぶりにゃ、千弦ちづる先輩」


背後の深い霧の中から、一切の気配もなく、一人の少女が歩み出てきた。 軍帽を深く被り、色褪せた将校マントを風にたなびかせた猫又、朔夜。

彼女の白い髪が月光に溶けるように輝き、その細い腕には、冷たい鉄と木目調のストックで作られたAK47ライフルが、重々しく抱えられていた。それは、人間を容易に肉塊へと変える、正真正銘の鉛と硝煙の武器だった。

彼女の瞳には、一切の光がない。まるで、生まれながらにして感情という螺子ねじをどこかに置き忘れてきたかのような、不気味なほどの静寂が、その小さな輪郭を包み込んでいた。


「……にゃ。朔夜か」


直人は、視線を月空から動かすことなく、静かに応じた。その声は、かつてこの山を震わせた神使の威厳を失い、ただの、世捨て人のような掠れた響きを帯びている。

「にゃ。お前も、あの便利な人間の家に居候して、すっかり野生の牙が抜けたにゃん。毎日、あのオタクの変な妄想を聞かされて、脳内のピストンが煤だらけになってるにゃ」

「牙なんて、元からにゃい。ぼくはただ、便利な人間に近づいて、生き長らえているだけの、計算的な猫又にゃ」

朔夜は、ライフルを地面に垂直に立て、直人が座るシルビアのフロントフェンダーに、静かに背中を預けた。

「でも、先輩。先輩こそ、すっかり『藤野直人』という偽名が板について、人間のフリをして、泥まみれの雑草を貪っているにゃ。……先輩こそ、かつて正丸の尾根を守っていたというのに、なぜ今そんな錆びかけた鉄の檻にお嫁たんとか言って魂を縛り付けているにゃ?」


直人は、口の中に残るハコベの苦味を吐き出すように、小さく鼻で笑った。

「にゃはは。千弦なんて古い名前は捨てたにゃ。今は直人だにゃ。……お前は、あの一九三六年のことを、覚えてるにゃ?」

「一九三六年……。この山に、アスファルトの傷跡が刻まれた年にゃ」

「そうだにゃ。あの時、山を切り裂くようにして、この道ができたにゃ。にゃ。あの頃の僕は、確かに山を侵すものを、すべて害悪として切り裂いていたにゃ。それが、神の使いとしての、僕の存在理由のすべてだと思っていたにゃ」


直人は、己の手の平を見つめた。 かつて、数百年もの間、寸分の狂いもなく妖刀『玻璃丸』を握り、正丸の闇を侵す悪鬼や怨霊を完全に断ち切ってきた、汚れなき剣士の手。

だが今の彼の指先は、頑固なオイルの黒ずみで汚れ、爪の隙間には鉄錆が詰まり、皮膚は固く荒れ果てていた。神使の清廉さは、そこには微塵も残っていない。


「でもにゃ、一九八〇年代の後半……。この峠に、夜な夜な現れるようになった『走り屋』たちの走りを、僕は見たんだにゃ」

直人の声が、微かに熱を帯びる。感情の高ぶりに応じるように、彼の声は徐々に、掠れた、しかし恐ろしく密度の高い、ボソボソとした早口の囁きへと変わっていった。

「……ボソボソ。彼らは、神の加護なんて一ミリも信じていにゃかったにゃ。ただ、自分の右足が踏み込むアクセルと、タイヤのグリップ、そしてエンジンの爆発的な圧縮圧力ブーストだけを信じて、命の限界を削るようにして、この狭い峠道を駆け抜けていたにゃ。……何百年もの間、死んだように静まり返っていたこの山の中で、彼らの放つガソリンの匂いと、スキール音、そして赤く燃え盛るエキゾーストマニホールドの熱量だけが……僕にとって、唯一の、本物の『命』に見えたんだにゃん」


直人のブルーの瞳が、月光を反射して、かつての玻璃丸が放っていたという、美しい「瑠璃紺の光」を一瞬だけ宿した。


「彼らは、事故を起こして、車がガードレールを突き破って大破しても……次の週には、また別の、ボロボロの鉄の塊に乗って、正丸に現れたにゃ。その時、彼らがステアリングを握り、ガソリンを燃やして、エンジンのピストンを限界まで回している瞬間の、あの『生の極限』の熱量……。あれはにゃ、数百年もの間、ただ神の使いとして、死んだ山の静寂を守り続けていた僕にとって、あまりにも、あまりにも眩しすぎる、本物の『命』の輝きに見えたんだにゃ」


「神の使いとしての永遠の命よりも、一瞬で燃え尽きる人間の狂気の方が、尊かったにゃ?」 朔夜が、抑揚のない声で、しかし確実に語尾に「にゃ」を載せて訊ねた。

「にゃ。尊かったにゃ。あまりにも眩しすぎたんだにゃん。彼らは、車がガードレールを突き破って大破しても、次の週には、また別のボロボロの車を持って、正丸に現れたにゃ。その、破滅的なまでの生への執着に、僕は心を奪われたにゃ。僕は刀を置き、彼らの助手席に乗ったにゃ。その瞬間、神使としての僕の糸は、ぷつりと切れたんだにゃ。玻璃丸は光を失ったにゃ」


直人は、シルビアのエンジンフードを愛おしそうに撫でた。

「神を裏切り、地に堕ちて、人間の社会で手取り二十五万を稼ぐようになっても……僕は、あの麓の中古車センターで、誰も見向きもしなかった、過走行で修復歴アリの、このS14前期と出会ったにゃ。この錆びかけたシリンダーブロックの奥に、かつて正丸の闇を照らした、玻璃丸と同じ、本物の『生の熱量』が息づいているのを、僕は確かに感じたんだにゃん。貢ぎ、ピストンが擦れる極限の摩擦音を聴くたびに、僕の魂のレブリミットは解放されるにゃ。これは僕だけの、神聖なる儀式にゃん……」


「先輩は、本当に哀しいバカにゃ」 朔夜は、軍帽の庇を微かに揺らし、虚空を見つめた。

「でも……ぼくには、そんな先輩が、少しだけ眩しく見えるにゃ。ぼくは二〇〇年以上生きて、多くの戦火をくぐり抜け、この銃を抱えて人間を利用してきたけれど……ぼくの内部には、何もにゃい。何に惹かれているのかも、何が悔しいのかも、わからないにゃ。ただ、生存の計算コストを合わせるためだけに、そこにいる人間に縋っているだけ……。先輩のような、自らを破滅させるほどの『火』は、ぼくのシステムには搭載されていないにゃ」


「にゃはは。お前は昔から、冷たい、計算高い後輩だったにゃ」 直人は、ボンネットからゆっくりと降り立ち、和服の袖を風に揺らした。

「だが、朔夜。お前も、あの便利な人間のそばにいる時……ほんの少しだけ、お前のその、白い尻尾が、微かに安心したように揺れているのを、僕は知っているにゃん。……それも、一種の、生のバグだにゃ」

「……気のせいにゃ。ぼくの尻尾は、ただの天候による静電気で動いているだけにゃ」 朔夜は、マントの裏にその二股に分かれた白い猫尻尾をギュッと隠し、視線をそらした。


二人の間に、再び、峠道の深い霧と、冷え切ったアスファルトの静寂が戻ってきた。


遠く、山の麓を走る国道から、深夜の大型トラックの地響きのようなエンジン音が、幽かに風に乗って届いてくる。

かつて神の領域であったこの山は、完全に人間の文明によって舗装され、排気ガスと鉄の臭いに満たされている。

だが、その暗闇の中で、シルビアの放つかすかな余熱だけが、二人の足元を、静かに、そして確かに温め続けていた。


「にゃ。夜が明ける前に、一回だけ、お嫁たんを走らせるにゃん。お前も、助手席に乗るにゃ、朔夜」 直人が、シルビアのドアを開け、乾いた金属音を響かせた。

「……断るにゃ。ぼくは、歩いて帰るにゃ。その車の助手席は、先輩だけの、神聖なコックピットにゃ」


朔夜はそう言うと、将校マントを翻し、深い霧の向こうへと、一切の足音を立てずに消え去っていった。 残された直人は、静かにシートに滑り込み、キーを回した。


ドゴォォォォォン。


不規則で、激しいアイドリング音が、正丸峠の闇を切り裂く。

直人は、ステアリングを握り、ブルーの瞳をカッと見開いた。その瞬間、彼の端整な顔からは、人間のフリをした「藤野直人」の仮面が完全に剥がれ落ち、かつて山を守っていた守護神使「千弦」の、あの凄絶な、狂気に満ちた生の眼光が、確かに闇の中に蘇っていた。


シルビアは、テールランプの赤い光を一瞬だけ霧の中に残し、滑るようにして、正丸の旧道へと消えていった。

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