第6話 リベンジ車検だにゃ
翌朝、東の空が白みかけるのと同時に、埼玉県内にある関東運輸局の車検場へ一番乗りで突っ込んできた影があった。
赤い不正改造シールを貼られたままの白いシルビアと、その運転席でブルーの瞳を不気味にランランと輝かせる藤野直人である。
「今日という日は、僕ニャンとシルビニャが国家権力に合法的な完全勝利を収める記念すべき日にゃ! 震えて待つがいいにゃ、検査官ども!」
直人は不敵な笑みを浮かべ、受付が始まるやいなや、堂々たる態度で車検の測定レーンへとシルビアを進入させた。
車体の各部を検査官たちが厳しくチェックするのを横目に、直人は待合室の片隅にある「ご自由にお読みください」と書かれた本棚へと向かった。
そこに置いてあったのは、背表紙がボロボロに擦り切れた、2017年発行の異様に古い『ベストカー』の雑誌だった。
「にゃあ……懐かしいにゃあ……」
直人はパイプ椅子に深く腰掛け、ボロボロのページをめくった。
当時はまだ高校生だった直人。
『次期型スープラ、ついに実車スクープ!』『消えゆく国産マニュアル車たちの未来』といった見出しを授業中に机の下で読み耽り、まだ見ぬスポーツカーへの妄想を爆発させていた、あの甘酸っぱい青春時代が脳裏に蘇る。
「あの頃の僕ニャンはピュアだったにゃ……。でも、今の僕ニャンはもっと凄いにゃ。今頃、検査ラインの奥でお巡りや検査官どもが、僕のシルビニャの完璧な合法カスタムの前に、悔し涙を流してのたうち回っているはずだにゃ!」
直人のその妄想は、1ミリの狂いもなく現実のものとなっていた。
測定レーンの奥では、青いジャンパーを着た3人のベテラン検査官たちが、直人のシルビアを取り囲み、額に青筋を立てて死闘を繰り広げていた。
「おい、なんだこのマフラーの出口は! 太すぎるだろ、絶対にアウトだ!」
「待て、型番を調べろ……『H〇S』の『Hi-Power 4〇9』だ! 保安基準適合のプレートが溶接されてる! 近接排気騒音を測定しろ!」
「ブォォォォン!! ……クソッ、95デシベル! 基準値内だ! 完全に合法だ!」
「じゃ、じゃあ触媒はどうだ!? ストレートパイプで爆音にしてるに決まってる!」
「それも『SA〇D』のメタルキャタライザーが装着されてます! 自動車排出ガス試験結果証明書も書類にバッチリ添付されてます! 排ガス検査、クリーンすぎて酸素吸ってるみたいに綺麗です!」
「馬鹿な……! なら車高だ! 地面を擦りそうな見た目をしてるぞ、絶対に9センチ以下だ、測れ!」
「『BL〇TZ』の『Z〇-R』が入ってます! 地上高を測定用ブロックで計測したところ……ちょうど9.5センチ! カンペキにクリアしてます………」
検査官たちは、手にした測定器を強く握りしめ、ガタガタと震えた。
「ど、どこを調べても……完全に合法だ……! 見た目はこんなに治安が悪いのに、中身は法律をミリ単位で守るお利口さんカーだなんて、そんなバカなことがあってたまるか! 何か見落としがあるはずだ、ネジ1本まで調べ尽くせぇぇぇ!!」
しかし、執念のDIYセッティングを前夜に終えた直人のシルビアに、付け入る隙はどこにもなかった。
結局、彼らは敗北を認め、悔し涙を滲ませながら、フロントガラスの「不正改造車」の赤いシールを、綺麗さっぱりと剥がすしかなかった。
「にゃっはははは! 見たかニャアアア! 僕ニャンとシルビニャの、完全な『合法』の証明だにゃ!!」
車検場を後にした直人は、フロントガラスの視界がクリアになったシルビアの運転席で、かつてないほどのドーパミンを放出させていた。
新調した『BL〇TZ』の足回りはカッチリと路面を捉え、120φの『Hi-Power 4〇9』マフラーからは、弾けるような保安基準適合の快音が響き渡る。
「最高に気持ちいいにゃ! このまま真っすぐアパートに帰るなんて勿体ないにゃ! ちょっとそこらの土手のバイパスで、新生シルビニャのコーナリング性能をテストしてあげるにゃ!」
直人は、埼玉南東部を流れる大きな川の土手沿いにある、見通しの良いワインディングロードへとシルビアを走らせた。
対向車もいない。絶好のロケーション。
「いくにゃ、シルビニャ! 『DSC』の減衰力をハードに設定! フロント荷重を乗せて、アクセルオンにゃ!!」
直人はクラッチを蹴り、強引にシルビアのリアタイヤをスライドさせようとした。
だが、その瞬間。
「にゃ……?」
前輪が、昨夜未明の雨でぬかるんでいた泥に一瞬だけ足元をすくわれた。
姿勢を乱したシルビアのリアが、直人の予想を遥かに超えるスピードで急激に外側へと流れる。
いわゆる、タコ踊り状態。
「うにゃああああ!? カウンターが間に合わないにゃあ!!」
ズザザザザザザザザッ!!
激しいスキール音と共に、白いシルビアは土手の上から斜面を滑り落ち、河川敷に生い茂る、直人の背丈ほどもある深すぎる雑草のジャングルの中へと、頭からダイブするように突っ込んでいった。
バキバキバキバキッ!!!
「お、おほぉっ!?」
激しい振動の後、シルビアは草むらの中で沈黙した。
あたりは、ハエと蚊が飛び交う静かな河川敷である。
直人はステアリングに顔をうずめたまま、恐る恐る自分の体を触った。
「い、痛くないにゃ……。シルビニャのボディも、草がクッションになって凹みはないにゃ。あー、驚いたにゃ。僕ニャンの超絶テクニックで、なんとか大惨事を回避したにゃ」
直人は、ギアをバックに入れ、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
ガサガサと草をかき分けながら、シルビアはバックで土手の舗装路へと無事に戻ることに成功した。
「ふぅ、やっぱり『BL〇TZ』の足回りは粘りがあって素晴らしいにゃ。さて、ちょっとボディの様子を確認――」
運転席のドアを開け、シルビアのフロントへと回った直人は、その場で石のように固まった。
「にゃ……?」
白いシルビアのフロントマスクが、信じられないほどスッキリとしていた。
ラジエーターの前に鎮座する、あの巨大でメカニカルな前置きインタークーラーが、遮るものなく「こんにちは」とばかりに全開で露出している。
そう、フロントバンパーが、影も形もなくなっていた。
直人は慌てて、シルビアが突っ込んでいた川沿いの草むらを覗き込んだ。
そのすぐ先を、滔々と流れる濁った川の真ん中あたりに目を向けると。
白い大きな物体が、川の水面に浮かんでいた。
プカ……プカ……。
それは、ヤフオクで落札した際に最初からついていた、あのボロい白いフロントバンパーだった。
バンパーは、川の流れに乗ってどんぶらこと数回浮き沈みしたかと思うと、まるでタイタニック号の最期のように、斜め45度に傾きながら、川の深淵へと静かに、そして完全に沈没していった。
直人は川に向かって手を伸ばしたまま、呆然と立ち尽くした。
「……あ」
しかし、直人はすぐに自分の頭をポンと叩いた。
「あ、でも不幸中の幸いにゃ。僕ニャン、フロントナンバープレートはダッシュボードの上に置いておく『ダッシュプレート派』だから、ナンバーは川に沈まなかったにゃ! 実質、ノーダメージにゃ!」
もちろん、そんなわけはなかった。
フロントバンパーが完全に消滅し、ギラギラと光る前置きインタークーラーやコア類、さらにはインナーフェンダーが丸剥き出しになったシルビアの姿は、どう見ても「事故を起こして逃走中の車両」か「走る凶器」にしか見えなかった。
「……待つにゃ。この、インタークーラーがむき出しの状態で走っていたら、車検を通したばかりなのに、今度は100メートル走るだけで白バイに捕獲されて、即座にまた『不正改造車』のキョンシーのお札を貼られちゃうにゃ……!」
せっかく勝ち取った合法の証明が、わずか30分で水の泡になる危機。
フロントバンパーを今すぐ調達しなければ、直人は一歩も公道に出ることができない。
しかし、彼の財布の中身は、昨日アプガレで使い切ったため、完全にゼロ。来月の給料日まで、まだ3週間もある。
川の向こうへと流されていった、今はなき白いバンパーの幻影を見つめながら、直人は誰もいない土手の真ん中で、虚しく「うにゃあああああ!!」と絶叫の産声を上げ続けるのであった。




