カニカニ
死なないからハッピーエンドかな?
活け〆
昨日まで「そこ」にあったはずの因果も、記憶も、すべては狭霧の胃袋と因果の毒のなかに消えた。世界は最初からそうであったように、何事もなく回っている。
だが、一度覚えた「白猫の肉」の味は、数百年を退屈に生きてきた大妖狐の舌に、奇妙な執着を植え付けていた。
「昨夜のものは、いささか泥臭く、油膜の味が強すぎた。……なれば、あの純白のものはどうじゃろ。甘い香りを発し、主を求めていた、あの若い牝猫は」
狭霧は、まだ深い眠りのなかで悪夢にうなされている瑞羽を一瞥もせず、夜明け前の廊下を音もなく滑るように移動した。
20号室の鍵など、因果を融解させる彼女の指先にかかれば、存在しないも同然だった。
暗闇のなか、ベッドで丸くなって眠っていた萌花の首根っこを、狭霧の銀の尻尾が容赦なく、しかし「一瞬」で締め上げる。
「にゃ……っ!?」
悲鳴すら上げさせない。気絶の手前、恐怖で肉に余計な乳酸が回らぬよう、狭霧は萌葱色の瞳を怪しく光らせ、萌花の脳の感覚器官に直接「因果の麻痺」を流し込んだ。
ご主人様を恋い慕う心も、恐怖も、すべての神経伝達が瞬時に遮断され、純白の猫獣人は緊張を失ったただの「極上の食材」へと成り下がった。
解体
狭霧の部屋のブルーシートは、すでに新しいものへと敷き替えられていた。
畳の上には、この日のためにわざわざ新調された、鈍い銀光りを放つ見事な刺身包丁が置かれている。刃渡り三十センチ。職人が研ぎ上げた一品は、髪の毛一本すら自重で断つ。
萌花は、大きめの白ワイシャツを剥ぎ取られ、純白のニーハイソックスだけを履かされた状態で、まな板の上に仰向けに横たえられていた。
まだ心臓は微かに動いている。活け〆の基本は、心臓のポンプ機能が生きていながら、脳の機能が完全に停止している状態で行うことだ。
「ふふ、見事な白毛じゃ。まずは、血抜きからいこうか」
狭霧は刺身包丁の切っ先を、萌花の美しい鎖骨の間、大動脈が走る一点へと正確に突き立てた。
「……っ」
感覚のない萌花の身体が、反射でピクリと跳ねる。しかし、それだけだった。
傷口から、ドクドクと鮮やかな、温かい血が噴き出す。狭霧はその血をあらかじめ用意していた冷水の桶へと誘導し、一滴も肉に回らないよう徹底的に排出した。血が抜けるにつれ、萌花のストロベリーブロンドの髪は輝きを失い、その愛らしかった皮膚は、まるで高級な陶器、あるいは大理石のような透き通るような白へと変わっていく。
完全に血が抜けたのを確認すると、狭霧の手際はいっそう冷徹さを増した。
まずは、あの「ご主人様」の足元へねっとりと絡みついていた、純白の長い猫尻尾の付け根に刃を入れる。刺身包丁の鋭い刃は、皮膚を裂き、肉を滑り、尾骨の関節を吸い込まれるように外していった。
一本の、見事な白い毛皮に包まれた尾が、コト、とブルーシートに転がる。
続いて、頭部の切断。
ご主人様を呼ぶために「〜にゃん」と鳴いていた割れた唇、丸く輝いていた黄色い瞳。そのすべてが、首の第一頸椎の隙間に包丁の刃が吸い込まれることで、胴体から完全に切り離された。一度も肉を潰すことなく、ただ純粋な「面」として、美しい断面が露出する。
「素晴らしいな。余計な脂がなく、繊維が実によく締まっておる。やはり、若い牝の肉は質が違う」
狭霧の細い指先が、萌花の開かれた胸元から、内臓を一つずつ傷つけないように取り出していく。胃袋、腸、肝臓。すべてが完璧に処理され、まな板の上には、純白の「肉」と「骨」だけが残された。
ここからが、刺身包丁の本領発揮だった。
狭霧は、萌花の太ももの肉、あの白いニーハイソックスが食い込んでいた「絶対領域」の最上肉を、骨から大きなブロック(塊)として贅沢に切り出した。
捕食
器は、冷やされたガラスの皿。
狭霧は、薄桃色に透き通る萌花の肉塊に刃を当て、手元に引いた。
ス、と吸い込まれるように刃が通り、一切の角が潰れていない、完璧な「薄造り」が切り出されていく。一切の血を含まず、恐怖の乳酸すら溜まっていないその身は、まるで最高級の真鯛か、あるいは繊細なフグの肉のようだった。
皿の上に、大輪の牡丹の花のように美しく並べられた、純白の猫の刺身。
「では、いただくとするか」
狭霧は、返り血で汚れた自身の顔も気にせず、箸でその透明な肉片を一切れ、そっと 持ち上げた。
醤油も、薬味もいらない。素材そのものの 因果を味わうのが、大妖狐の喰らい方だ。
端正な唇の間に、萌花だった肉が滑り込む。
奥歯で、咀嚼する。
「――っ」
狭霧の萌葱色の瞳が、驚きにわずかに見開かれた。
昨夜の泥臭さなど微塵もない。口に含んだ瞬間に広がるのは、ほのかな、イチゴのような甘い肉香。そして、活け〆にしたからこそ保たれている、恐ろしいほどの弾力と、噛むたびに溢れ出す瑞々しい生命の旨味。
舌の上で、萌花がご主人様を想っていた純粋な記憶の断片が、甘美な脳内物質となって狭霧の味覚を優しく、しかし狂おしいほどに刺激する。
「美味い……。これは、美味いな……」
ゴクリ、と喉が鳴る。
一切れの肉が、狭霧の喉を通り、胃袋へと収まっていく。その瞬間、萌花という存在の「すべて」が、狭霧の肉体と一体化し、世界から静かに消滅していく実感が、たまらない悦楽となって背筋を駆け抜けた。
箸が止まらない。二切れ、三切れと、美しい手つきで透明な肉が狭霧の口へと運ばれていく。
咀嚼するたびに、ククク、と悦びに満ちた笑いが漏れる。
「ふふ、ご主人様、とやら。そなたの愛した牝猫は、今、妾の血肉となって生き長らえておるぞ。これほどの贅沢が、この世にあろうか」
夜明けの光が、部屋の窓から薄暗く差し込み始める。
皿の上の純白は、見る間に狭霧の胃袋の中へと消え去り、あとには、まだ血の匂いが残る刺身包丁と、完璧に平らげられた空の硝子皿だけが残されていた。
夜明けの光が、血に汚れたブルーシートを白々と照らし出す。狭霧が至高の「食事」を終え、その細い指先で唇に付着した薄桃色の肉汁を舐めとった、まさにその瞬間のことだった。
ガラ皿の傍らに放置されていた、あのストロベリーブロンドの髪を湛えた萌花の生首。そして、内臓と太ももの肉を完璧に削がれ、白骨と化しつつあった無惨な胴体の「残骸」が、不気味に 脈打ち 始めた。
「……ん?」
狭霧の萌葱色の瞳が、怪訝そうに細められる。
すでに心臓の最期の一動までを見届け、血抜きを完璧に行い、因果の毒でその魂の帰路すら断ったはずの肉塊。そこから、およそ生命のものとは思えない、ドス黒く澱んだ「怨念」の妖気が 噴き出し ていた。
シュルシュルと音を立てて、ブルーシートに転がっていた純白の長い猫尻尾が、まるで生き物のように蠢きだす。それは肉の繊維を無理やり再生させるように胴体へと引き寄せられ、元の位置へと癒着した――いや、それだけではない。その真横の肉が 裂け、骨が 軋み、もう一本の、全く同じ純白の尻尾が ぬうっ と 突き破る ように生えてきた。
一本の尾が二本に分かれる――それは、獣が長き時を経て、あるいは凄絶な死を経て、妖異へと転生する「猫又」の兆しであった。
「あ……あにゃ、ああぁあう、あぐ、あああああッ!!」
切断されていた生首の口が、あり得ない角度に開き、声帯のないはずの喉から、呪わしい金属質の絶叫が 響き渡る。
床に散らばっていた血の一滴一滴が、重力を無視して逆流するように骨へと絡みつき、狭霧が削ぎ落として 咀嚼し、完全に 胃袋 に収めたはずの太ももの肉が、虚空から引きずり出されるように「黒い肉の粘土」となって 再構成 されていく。
ご主人様への執着。食べられたという事実への、底知れぬ 怨嗟。
活け〆にされ、恐怖を感じる暇すら与えられなかったはずの萌花の魂は、狭霧の胃袋のなかで消化される寸前、その圧倒的な「狂気的な愛着」によって因果の鎖を食いちぎり、妖怪へと変貌を遂げていた。
バキバキと凄絶な音を立てて首と胴体が繋がり、萌花はゆっくりと、四つん這いの姿勢で起き上がった。
その姿は、先ほどまでの「可憐な食材」とは一線を画していた。
イチゴの香りが漂っていたストロベリーブロンドの髪は、怨気の炎に煽られて逆立ち、丸く輝いていた黄色い瞳は、瞳孔が針のように細く裂けた血のような「紅蓮」へと変色している。剥き出しの身体の後ろでは、二本の純白の尾が、まるで怒り狂う大蛇のように 激しく 床を 打ち据えて いた。
「……ご主人様、の……匂いが、するにゃん……」
萌花は、自分の肉を喰らったばかりの狭霧を じっと 睨み据えた。
その声は、少女の甘い鳴き声の中に、何百人もの死者が同時に 囁く ような、重苦しいエコーが混ざっている。
「萌花を、食べたにゃね……? 萌花の美味しいところ、全部、そのお腹の中に隠したにゃね……? ご主人様に捧げるはずだった、萌花の全部を……っ!」
「ふふ、まさか猫又として現世に這い戻るとはな。そなた、そこまでして主の元へ戻りたいか」
狭霧は、目の前で起きた怪異に対しても、一切の動揺を見せなかった。むしろ、新調したばかりの刺身包丁を再び ゆるり と 構え、残忍な笑みを深くする。
「良いぞ。一度喰うた肉じゃ、二度喰うても同じこと。今度はその二本の尻尾ごと、骨の髄まで すり潰して、極上の つみれ汁 にしてやろう」
「返せにゃ……萌花を、ご主人様に、返せにゃあぁぁあッ!!」
二本の尾が爆発的な推進力を生み出し、猫又となった萌花が、鋭い爪を剥き出しにして狭霧の顔面へと 飛びかかった。
迎え撃つ大妖狐の刺身包丁が、夜明けの部屋で、再び 凶悪な 銀の 軌跡 を 描き出す。
アパートの最深部で始まった、喰らう者と、喰らわれたのちに 蘇った 妖異による、血と肉の 第二幕が幕を開けた。




