第二話(仮):無料車検
深夜の外郭環状道路。
和光インターチェンジから高架へと滑り込んだ白いシルビアの車内で、藤野直人は、エアコンの吹き出し口から漂う強烈なオイルと鉄の臭いに鼻をヒクつかせ、満足そうに喉を鳴らしていた。
「にゃおーん……やっぱりFRターボの加速は、脳髄のピストンが直接シリンダーで叩かれるような快感だにゃぁぁ………」
直人のシルビアには、カーナビなどという軟弱なデバイスは搭載されていない。
インパネの真ん中は、ナビの代わりに、謎の追加メーターと剥き出しの配線がスパゲッティのように這い出て、のたうち回っている。
「カーナビなんか、自分でルートも決められない脳軟化症のガジェットにゃ。僕ニャンとシルビニャは、アスファルトのざらつきと、潮風の気配、そしてスイスポ時代から鍛え上げた黄金のナビゲーション本能だけでどこへでも行けるにゃ」
実際、首都高から湾岸線へと滑り込むルートは、彼の体細胞レベルに記憶されていた。
クラッチを踏みちぎり、極太砲弾マフラーから「ズババババ!」と夜空を切り裂く排気音を轟かせながら、直人は一気に大黒パーキングエリアへと滑り込んだ。
週末の大黒PAは、色とりどりの改造車やスーパーカー、そしてそれを一目見ようと集まったギャラリーで、まるでお祭りのような熱気に包まれていた。
そんな中、直人はパーキングエリアのど真ん中、一番ギャラリーの視線が集まる特等席に、堂々とシルビアをねじ込んだ。
だっさいハーフエアロを無理やり引っぺがしたせいで、フロントバンパーが半分欠落し、怪しくサビた純正配管が剥き出しになっているボロボロのシルビア。
だが、直人は運転席のドアを勢いよく開け、流し前髪をかき上げながら、ブルーの瞳をキラリと輝かせた。
「どうだにゃ、これが僕ニャンのシルビニャだにゃ! 周りを見てみるにゃ、純正+アルファだのツライチだの、個性のない量産型オワコンカーばかりだにゃ。この、ボロさと狂気、そして極太マフラーが放つホンモノのオーラに、みんなひれ伏すといいにゃ!」
腕組みをして、周囲の冷ややかな視線を「羨望の眼差し」と脳内変換して悦に浸る直人。
しかし、彼には重大な欠点があった。
車の挙動やヤフオクの入札締め切り時間に対しては1ミリ秒単位の執念を見せるのに、社会的な常識、例えば「大黒PAは夜10時に強制封鎖される」という基本ルールについては、すっぽりと記憶から抜け落ちるタイプなのだ。
夜10時ちょうど。
「ウーーーーー、ウーーーーー」
突如として、パーキングエリア全体に、鼓膜を不快に揺らすサイレンの音が鳴り響いた。
それと同時に、拡声器から無機質な声が流れる。
「ただいまの時間をもって、大黒パーキングエリアを閉鎖します。全車両、速やかに退出してください」
「ちっ、お役所仕事の役人どもめ。僕ニャンたちのナイトフィーバーが温まったばかりの時間だにゃ。まあいいにゃ、シルビニャ、帰るにゃ」
直人は面倒そうにシルビアに乗り込み、出口へと向かう一本道へと車を進めた。
だが、その先に待っていたのは、ただの閉鎖ではなかった。
赤いコーンが整然と並べられ、異様な数の警察車両と、青い「関東運輸局」のジャンパーを着た職員たちが、網を張った漁師のように手ぐすね引いて待ち構えていたのだ。
国土交通省による、特別街頭検査。
車好きたちが恐れを込めて皮肉る、あの「無料車検」の日であった。
脱出不可能な一本道。逃げ道はない。
直人のシルビアは、誰が見ても一瞬で「私は違法改造車です」とパトランプ並みの自己主張を放っている。
当然、陸運局の職員が、手にした誘導灯を直人の鼻先に向けた。
「はい、そこの白いシルビア、左の測定ラインに入ってー」
その瞬間、直人の脳内で、何かがぷつりと切れた。
「にゃんだとおおおお!? 無料車検だと!? 僕ニャン、車検は(ノーマル戻しで)通したばかりだにゃ! 誰が僕のシルビニャを測定していいと言ったにゃ!!」
直人は勢いよく車から飛び出すと、測定用の集音マイクを持った検査員に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
「お前! その汚い金属の棒をシルビニャのデリケートなお尻に近づけるにゃ! ぶっ○すぞ!? これは騒音じゃないにゃ! シルビニャの産声だにゃ! 産まれたばかりの赤ちゃんが泣き叫んでるのに、お前らは『うるさいから音量を下げろ、近所迷惑だ』って説教するのかニャアアーー!?」
「おい! 暴れるな! 警察官、こっち手伝って!」
数人の警察官が直人を取り囲む。
直人はツナギのポケットから、ホイール整備用の巨大なトルクレンチを素早く引き抜き、天高く掲げた。
「お前ら、近寄るにゃ! これは武器じゃないにゃ! シルビニャの骨盤を締め上げるための、神聖な魔法の杖だにゃ! これに触れる者は、シルビニャの呪いによって一生CVTのミニバンしか運転できない呪いにかかるにゃあああ!」
「危険物所持! 公務執行妨害で引っ張るぞ! 確保しろ!」
「うにゃあああああ! 触るにゃ! ヤニ臭い手で僕に触るにゃあああ!!」
直人はトルクレンチを振り回し、猫のように威嚇しながら大暴れしたが、多勢に無勢。
あっという間に屈強な警察官3人に羽交い締めにされ、冷たいコンクリートの地面に顔面を押し付けられた。
砂を噛みながら「シルビニャーーー!」と絶叫する直人の背中で、陸運局の職員が淡々とマフラーの近接排気騒音を測定し、地上高を定規で測る。
「はい、マフラー音量115デシベル。最低地上高5センチ。フロントガラスの透過率もアウト。整備命令出します」
ペタッ。
直人が涙目で睨みつける中、シルビアのフロントガラスの左上に、悪目立ちする「不正改造車」の黄文字が書かれた真っ赤なステッカー(整備命令標章)が、容赦なく貼り付けられた。
「うにゃああああ! シルビニャの美しい額に、こんなダサいお札を貼るなんて、キョンシーかニャ!? 中国の妖怪にでもする気かニャアアア!!」
直人の絶叫が大黒の夜空に虚しく響き渡る中、彼は「15日以内に適合させて陸運局に持ってこい」と書かれた警告書を握りしめ、トボトボとアパートへ帰る羽目になった。
翌日の昼。
某S出版社の、レッドゾーン編集部。
締め切り前の殺伐とした空気と、煙草の煙、そしてオイルの臭いが混ざり合う編集部の一角で、直人は昨夜の大暴れのせいで全身筋肉痛になり、不機嫌そうに自分のデスクに突っ伏していた。
そこへ、ドサッと背後から肩を叩かれた。
振り返ると、長年チューニングカー業界の闇と光を見続けてきた豪快な名物編集長、粕谷が立っていた。
「おい、藤野。ちょっと来い」
粕谷に呼ばれ、編集部の奥にある会議室に入ると、粕谷は無言で自分のスマートフォンを直人の顔の前に突き出した。
「お前、これ何だ」
画面には、X(旧Twitter)で絶賛大バズり中の、15秒のショート動画が映し出されていた。
『【大黒PA】深夜に工具振り回して大暴れするキチガイ猫男、警察に確保されるwww 』
動画を再生すると、警察官3人に地面に組み伏せられ、鼻に泥をつけながら「これは騒音じゃないにゃ! 赤ちゃんの産声だにゃあーー!!」と涙目で絶叫している直人のドアップが、高画質でバッチリと映し出されていた。
「にゃ……」
「お前これ、昨日だけで5万リポストされてんぞ。トレンドにも『#精神疾患猫』ってバッチリ入ってんぞ」
直人は、前髪をサッと整えながら、ふんと鼻を鳴らした。
「撮るならもっと僕ニャンのブルーの瞳が映える角度から撮るべきだにゃ。画質も荒いし、ネット民はもっと被写体へのリスペクトを持つべきだにゃ」
「そこじゃねえよバカ野郎!」
粕谷がデスクをドンと叩く。
「お前、一応うちの看板雑誌『RED ZONE』の新人編集者だろ。うちの雑誌はドリフトだのゼロヨンだの、ギリギリのアンダーグラウンドを攻めるのが売りだがな、公務執行妨害寸前で警察に組み伏せられて、ネットのフリー素材になるのは、ただのダサい『痛い奴』なんだよ」
直人は猫耳を伏せるように、手で押し付けて耳を塞いだ。
「にゃーにゃー、聞こえないにゃ。お巡りどもがシルビニャを虐待したのが悪いにゃ」
「いいか、藤野」
粕谷はタバコに火をつけ、紫煙を吐き出しながら、冷ややかな、しかし妙に熱を帯びた声で言った。
「ここ最近のプロの車乗りってのはな、お上にガタガタ言われない『合法の範囲内』で限界を極めて、そのルールを盾にお巡りを完膚なきまでに黙らせる奴のことを言うんだよ。違法改造で赤紙貼られて、トルクレンチ振り回して泣くのは、ただのアマチュアの泣き言だ。本当に狂ってる奴はな、合法という法律の方程式で、警察の口を物理的に封じるんだよ」
合法で、お巡りを黙らせる。
その瞬間、直人のブルーの瞳が、カッと見開かれた。
直人の脳内で、これまでバラバラだった狂気の回路が、一本の極太の配線としてガッチリと結合した。
「そうか……!」
「あ?」
「公認車検、排ガス規制、音量規制、すべての日本の法律をミリ単位でクリアした上で、お巡りどもの目の前で脳髄が痺れるような超絶爆音とカスタムを披露する……。お巡りどもが『クソッ、こいつ明らかに頭がおかしいのに、どこをどう調べても100%合法だから、切符を切るどころか注意すらできない……!』と、悔し涙を流しながら、僕ニャンとシルビニャを見送るしかできない状況を作る……!」
直人は立ち上がり、拳を強く握りしめた。
「それこそが、究極のクレイジーだにゃ!! 粕谷編集長、天才だにゃ! 僕ニャン、今日から『合法で暴れまくるキチガイ』にジョブチェンジするにゃ!!」
「いや、そこまで歪んだ執念を持てとは言ってねえが……」
粕谷の呆れた制止を背中で聞き流しながら、直人は鼻息荒く自分のデスクに走り戻った。
そして業務を忘れて即座に、排ガス試験の適合表、JASMA(日本自動車スポーツマフラー協会)の認定マフラーカタログ、そして公認車検申請書類の書き方を、鬼気迫る表情で調べ始めた。
「おのれお巡り、今に見てるにゃ。僕ニャンとシルビニャの、完全合法の逆襲の始まりだにゃ! まずはあのフロントガラスのキョンシーのお札を剥がすために、整備命令を完璧にクリアしてやるにゃ!」
なお、直人の来月の給料は、すべてこの「合法の限界」を極めるための高価な認定パーツや、公認申請費用へと消えていくことが確定し、来月もコンクリートの隙間から生えている雑草をむしって食べる生活が継続するのであった。




