群青リライト 〜君に渡せなかった好きと、もう一度つなぐ指先と〜
返却された本のページを開くと、知らない誰かの時間が少しだけ挟まっていることがある。
薄く折れたページの角。
栞代わりに挟まれたままの映画館の半券。
鉛筆で小さく引かれた線。
もう消えかけた付箋の糊の跡。
本当はいけない。
図書館の本は、誰か一人のものではないから。けれど、水瀬栞はそういう痕跡を見つけるたび、少しだけ息を止めてしまう。
この人は、どんな気持ちでこのページを閉じたのだろう。
続きを読みたかったのか。
それとも、これ以上読めなくなったのか。
午後の市立図書館は、静かだった。
窓際の閲覧席には、年配の男性が新聞を広げている。児童書コーナーでは、小さな女の子が絵本を膝に乗せて、母親らしき女性にページをめくってもらっていた。カウンターの奥では、同僚の野村さんが新着資料の登録をしている。
栞は返却本のバーコードを読み取り、状態を確認してから、棚へ戻す本と修繕が必要な本に分けていった。
毎日、同じような仕事。
毎日、少しずつ違う本。
この静けさが、栞は嫌いではなかった。
「水瀬さん」
呼ばれて顔を上げると、野村さんがパソコンの画面から視線を外していた。栞より五つ年上で、よく笑う人だ。仕事も速いし、利用者への対応も柔らかい。
「はい」
「この前言ってた駅前のカフェ、行ってきたよ。チーズケーキおいしかった」
「あ、よかったです」
「水瀬さん、甘いもの詳しいよね」
「詳しいというほどじゃないですけど。休みの日に行く場所が、それくらいしかなくて」
栞がそう言うと、野村さんは少し笑った。
「じゃあ今度、誰かと行けばいいのに」
「誰か、ですか」
「ほら、恋人とか」
言葉は軽かった。
悪意も、詮索も、ほとんどなかったと思う。
だから栞も、いつものように笑った。
「出会いがなくて」
「あー、図書館って出会いなさそうだもんね」
「そうですね」
栞は返却本に視線を戻した。
嘘ではない。
でも、本当でもない。
出会いがなかったわけではなかった。
大学へは行かず、地元の短大を出て、図書館に就職した。学生時代の友人に誘われて、何度か食事に行ったこともある。親戚から紹介された人と映画を見に行ったこともある。職場の研修で知り合った男性に、連絡先を聞かれたこともあった。
悪い人ではなかった。
優しくて、話しやすくて、きちんとこちらの都合を考えてくれる人もいた。
きっと、栞がもう少しだけ器用なら、好きになれたのかもしれない。
けれど、帰り道でいつも思ってしまった。
私は、この人に好きだと言われたいわけじゃない。
そのたびに、自分の中のどこかが冷えていく。
恋愛ができないわけじゃない。
好きという気持ちを知らないわけでもない。
知っている。
知っているから、困る。
栞は、本を一冊手に取った。
青い背表紙の小説だった。
何度も貸し出されて、角が丸くなっている。
高校時代、図書室でよく本を借りていた。
静かな放課後。窓の外のグラウンドから聞こえる部活動の声。西日に透けるカーテン。古い木の机に並べた、貸出カードと一冊の本。
そして、隣にいた少女。
春川紗月。
名前を思い浮かべただけで、胸の奥がきゅっと縮む。
もう十年近く前のことなのに。
栞は小さく息を吐いた。
大丈夫。
仕事中だ。
そう思って棚へ向かおうとした時、カウンターの電話が鳴った。野村さんが出て、短く応対する。栞は本を台車に戻し、児童書コーナーの返却分を手に取った。
いつも通り。
いつも通りでいい。
そうやって毎日を積み重ねていれば、十年前の春なんて、いつか本当に遠くなるはずだった。
けれど、その日の夕方。
休憩室でスマホを開いた栞は、画面に表示された通知を見て、指を止めた。
高校の同窓会グループ。
ほとんど開いていなかったトークに、新しい案内が届いていた。
『卒業十周年の同窓会を開催します。参加希望の方はフォームから回答してください』
その下に、参加予定者の名前が少しずつ並んでいた。
懐かしい名前。
すぐには顔が浮かばない名前。
結婚して名字が変わったらしい名前。
そして。
春川紗月。
栞の指先が、画面の上で止まった。
春川紗月。
まだ、その名字のままだった。
そんなことを考えた自分に、栞はすぐ嫌気が差した。
何を期待しているのだろう。
名字が変わっていなければ、何だというのだろう。
紗月は卒業後、都内の大学へ進学した。
そのまま東京で就職したと、人づてに聞いたことがある。
栞とは違う場所で、違う時間を生きてきた人。
きっと、綺麗になっている。
仕事もして、友人もいて、恋人もいたかもしれない。
ちゃんと大人になっているのだろう。
それに比べて、自分は。
三十歳手前。
独り身。
実家暮らし。
地元の図書館で、毎日本を並べている。
この生活を恥じているわけではない。
仕事は好きだ。実家にいるのも、親の体調や家計を考えれば自然な選択だった。
でも、紗月の名前を見た瞬間だけ、自分が何ひとつ進めていない人間のように思えた。
栞はスマホを伏せた。
「……行かなくていい」
小さく呟いた声は、休憩室の冷蔵庫の音に紛れた。
行かなくていい。
今さら会ってどうする。
久しぶり、と笑って。
元気だった、と聞いて。
仕事の話をして。
誰かが結婚の話をして。
何もなかった顔で帰ってくるだけだ。
それなのに、その夜。
栞は自室のベッドに座ったまま、何度も同窓会の案内を開いていた。
実家の部屋には、高校時代のものがまだ少し残っている。
本棚の端に並んだ文庫本。机の引き出しに入ったままの古いペンケース。クローゼットの奥にしまった制服のリボン。卒業アルバムは、手の届かない棚の上に置いてある。
捨てたつもりだった。
忘れたつもりだった。
でも、何ひとつ消えていなかった。
栞はスマホを握ったまま、目を閉じた。
高校二年の春だった。
放課後の図書室は、いつもより人が少なかった。
雨上がりで、窓の外にはまだ水の匂いが残っていた。部活動の声も遠く、ページをめくる音だけがやけにはっきり聞こえた。
紗月は、栞の向かいの席に座っていた。
「栞の好きな本って、ちょっと難しいよね」
紗月は頬杖をつきながら、貸出カードを指で弾いていた。
肩の少し下で揺れる髪。くるくる変わる表情。誰とでも自然に話せるのに、放課後になるとよく栞のところへ来る。
「難しくないよ」
「難しいよ。読んでると、栞の頭の中を見せられてる気分になる」
「なにそれ」
「ほら、そういう顔する。ちょっと怒った?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
紗月が笑う。
その笑顔を見ているだけで、栞は苦しくなった。
好きだと思った。
友達としてではなく。
親友としてでもなく。
紗月が他の誰かと笑っているだけで、胸がざわつく。
紗月に名前を呼ばれると、その日はずっと落ち着かない。
紗月の手が自分の手に触れそうになるだけで、息が止まりそうになる。
それを恋と呼ぶのだと、本当はもう知っていた。
でも、言えなかった。
女子同士で手をつないでいたら、仲良しだと笑われる。
冗談で「好き」と言えば、紗月も「私も好きだよ」と返してくれる。
けれど、その先はなかった。
本当の意味で好きだと言った瞬間、すべてが壊れる気がした。
だから栞は、本を一冊、紗月の前に差し出した。
「これ、紗月にも読んでほしいと思った」
「へえ。栞がそんな顔してすすめるなら、読まないわけにいかないじゃん」
「そんな顔って?」
「なんか、真剣な顔」
紗月は本を受け取った。
その表紙は、淡い青色だった。
窓辺に立つ二人の少女の後ろ姿が描かれている。題名は『透明な放課後』。
友情とも恋とも言い切れない感情を抱えた二人の少女が、最後まで「好き」の意味を言葉にできない物語だった。
栞は、その本を読んだ時、自分の気持ちを見つけてしまった。
だから紗月にも読んでほしかった。
気づいてほしかった。
でも、気づかないでほしかった。
自分でも矛盾していると思った。
それでも、本なら言える気がした。
私の気持ちは、ここに書いてある。
でも、私の口から言ったわけではない。
卑怯な告白だった。
数日後、紗月は本を返しに来た。
「どうだった?」
栞は平静を装って聞いた。
本当は、心臓がうるさかった。
紗月は本の表紙を撫でるようにしてから、少しだけ視線をそらした。
「……なんか、胸が変になる話だった」
「変?」
「うん。分かるような、分かんないような」
それだけだった。
栞はそれ以上、聞けなかった。
気づいたのか。
気づかなかったのか。
気づいたうえで、分からないふりをしたのか。
何も分からないまま、栞は笑った。
「そっか」
その日から、本は栞の中で閉じたままになった。
現在に戻る。
スマホの画面は、まだ同窓会の参加フォームを表示していた。
行かなければ、何も起きない。
行けば、傷つくかもしれない。
でも。
行かなかったら、また逃げることになる。
十年前、本の陰に隠れて、好きだと言えなかったあの時と同じように。
栞はしばらく画面を見つめていた。
それから、参加の欄に丸をつけた。
送信ボタンを押した直後、胸の奥で何かが小さく震えた。
後悔なのか、期待なのか、栞には分からなかった。
◇
同窓会の会場は、駅前のホテルにある小さな宴会場だった。
受付で名前を告げ、名札を受け取る。
白いカードに印刷された「水瀬栞」の文字が、どこかよそよそしく見えた。
会場には、すでに多くの同級生が集まっていた。
「久しぶり!」
「全然変わってないじゃん」
「いやいや、変わったでしょ」
「今どこ住んでるの?」
「子ども何歳?」
懐かしい声が重なり合っている。
栞は笑顔を作りながら、何人かと挨拶を交わした。
高校時代によく話していた子は、今は二児の母になっていた。隣のクラスだった男子は、地元の市役所で働いているらしい。部活で全国大会に行った子は、今は東京で営業職をしていると言った。
時間は、ちゃんと進んでいた。
誰かの指には指輪があり、誰かのスマホには子どもの写真があり、誰かの話す将来には、もう自分以外の誰かが自然に含まれている。
栞は頷き、笑い、相槌を打った。
楽しくないわけではない。
懐かしいと思う気持ちもある。
けれど、どこかでずっと、自分だけ薄いガラス越しにそこにいるような感覚があった。
「水瀬さんって、今何してるんだっけ?」
同じクラスだった男子に聞かれて、栞は答えた。
「市立図書館で司書をしてます」
「え、めっちゃ似合う」
「よく言われます」
「昔から本読んでたもんなあ。なんか、水瀬さんって図書室のイメージある」
その言葉に、栞の胸が少しだけ痛んだ。
図書室。
放課後。
紗月。
会場の入り口が開いたのは、その時だった。
誰かが「あ、春川だ」と言った。
栞は、反射的に振り向いた。
春川紗月が立っていた。
紺色のワンピースに、薄いベージュのジャケット。高校時代より髪は少し短くなっていて、肩のあたりで柔らかく揺れている。化粧もしている。表情も、立ち方も、大人の女性になっていた。
それなのに。
笑った瞬間だけ、十年前と同じだった。
栞の呼吸が、一瞬だけ止まる。
紗月は何人かに囲まれ、懐かしい名前を呼ばれて笑っていた。誰とでも自然に話せるところも、昔のままだった。
栞は視線を外そうとした。
でも、できなかった。
その時、紗月の視線がこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一秒。
けれど栞には、ひどく長く感じられた。
紗月の唇が、少しだけ開く。
「栞?」
その名前の呼び方で、栞の中の時間が崩れた。
十年前の図書室。
雨上がりの匂い。
青い表紙の本。
返ってこなかった答え。
全部が、一度に胸の奥へ戻ってくる。
栞は、それでも笑った。
「久しぶり、紗月」
「久しぶり。ほんとに栞だ」
「それ以外に見える?」
「ううん。見える。すごく栞」
紗月は少し照れたように笑った。
その笑い方を見て、栞は思った。
好きだった人だ。
違う。
好きだと言えなかった人だ。
「東京から来たの?」
「うん。昨日仕事終わってから帰ってきた。実家に泊まってる」
「そっか」
「栞は、地元?」
「うん。ずっと」
「そっか」
会話は短く、当たり障りがない。
それでも、栞の内側は落ち着かなかった。
「さっき聞こえたけど、図書館で働いてるんだ?」
「うん。市立図書館」
「似合う」
「さっきも言われた」
「だって似合うもん。高校の時から、栞は本棚の前にいるのが一番自然だった」
「褒めてる?」
「もちろん」
紗月は昔のように笑った。
「でも、ちょっと悔しい」
「何が?」
「私が覚えてる栞のまま、ちゃんと大人になってる感じがして」
栞は返事に困った。
ちゃんと大人になっている。
そんなことはない。
むしろ、自分だけがずっと高校時代に取り残されている気がしていた。
けれど、紗月にそう見えているのなら、少しだけ救われるような気もした。
会は進んでいった。
乾杯があり、近況報告があり、昔の担任からのビデオメッセージが流れた。誰かが高校時代の写真をスマホに保存していて、皆で覗き込んでは笑った。
その中に、栞と紗月が並んで写っている写真もあった。
文化祭の日。
栞は図書委員の展示で受付をしていて、紗月はその隣でピースをしている。二人の肩は触れ合っている。栞は少し困った顔をしていて、紗月は楽しそうに笑っていた。
「二人、ほんと仲良かったよね」
誰かが言った。
栞は曖昧に笑った。
「そうだね」
紗月も笑った。
「ね。懐かしい」
それだけだった。
仲が良かった。
親友だった。
その言葉の中に、全部押し込められる。
高校時代も、ずっとそうだった。
不意に、話題が恋愛に移った。
「春川は? 東京でいい人いないの?」
同級生の一人が、軽い調子で聞いた。
栞の手の中で、グラスの氷が小さく鳴った。
紗月はいつものように笑う。
「いたような、いなかったような」
「何それ」
「まあ、いろいろあったんだよ」
「付き合ってた人は?」
「いたけど、長くは続かなかったかな」
栞は、視線を落とした。
関係ない。
自分には関係ない。
紗月が誰と付き合っていても。
誰に好きと言われていても。
誰と手をつないでいても。
関係ないはずなのに、胸の奥が痛かった。
十年経っても、自分はこんなことを思うのか。
栞は自分に呆れた。
紗月がこちらを見た気がした。
でも栞は顔を上げられなかった。
同窓会は、思っていたより早く終わった。
二次会へ行く人たちが賑やかに集まり始める中、栞は会場の外でコートを手に取った。これ以上いると、笑顔を保てなくなりそうだった。
「栞」
後ろから呼ばれる。
振り向くと、紗月がいた。
「帰るの?」
「うん。明日仕事だから」
「そっか。図書館、日曜も開いてるんだ」
「うちは開いてるよ。月曜休館だから」
「じゃあ、明日行ってもいい?」
栞は一瞬、意味が分からなかった。
「図書館に?」
「うん」
「何か借りたい本でもあるの?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど紗月は、少しだけ迷うように目を伏せた。
「探したい本があるんだ」
「タイトル分かる?」
「たぶん、見れば分かると思う。でも、ちゃんとは覚えてない」
「どんな本?」
紗月は、栞を見た。
その目が、同窓会の喧騒から少しだけ離れた色をしていた。
「昔、栞がすすめてくれた本」
栞の心臓が、どくんと鳴った。
まるで、閉じていた本が勝手に開いたみたいだった。
「……覚えてたの?」
声が、少しかすれた。
紗月は困ったように笑った。
「忘れてたつもりだったんだけどね。今日、栞に会ったら思い出した」
「そっか」
「迷惑?」
「迷惑じゃないよ。利用者なら、誰でも歓迎です」
「司書さんっぽい」
「司書なので」
二人は少しだけ笑った。
でもその笑いの下に、言葉にならないものが沈んでいるのを、栞は感じていた。
「じゃあ、明日」
「うん。待ってる」
言ってから、栞は後悔した。
待ってる。
何を。
紗月は少しだけ目を細めた。
「うん。行くね」
それだけ言って、紗月は二次会へ向かう同級生たちに呼ばれて戻っていった。
栞はホテルの外へ出た。
夜風が冷たかった。
駅前の街灯が、濡れてもいない歩道を淡く照らしている。地元の駅前は、昔より少しだけ新しくなっていた。コンビニが増え、古い喫茶店はなくなり、駅ビルの看板も変わっている。
変わらないものなんてない。
そう思っていたのに。
紗月は、あの本を覚えていた。
◇
その夜、栞はなかなか眠れなかった。
実家の二階にある自室は、昔と大きく変わっていない。壁紙は少し黄ばんで、机はもうほとんど使っていない。ベッドの横の本棚には、学生時代に買った文庫本が並んでいる。
栞は棚の上から、卒業アルバムを下ろした。
埃っぽい匂いがした。
開くつもりはなかった。
けれど指は勝手にページをめくっていた。
一年生。
二年生。
三年生。
集合写真の中に、紗月がいる。
個人写真の紗月は、今より少し幼くて、けれどやっぱり笑っている。
文化祭のページには、先ほど見た写真と同じ場面が載っていた。
図書委員の展示。
「本の中の青春」をテーマにした小さな企画。
その隅に、栞と紗月が写っている。
肩が触れそうな距離。
でも、触れていない。
栞は写真を見つめた。
あの頃、何度も思った。
手をつなぎたい。
名前を呼ばれたい。
自分だけを見てほしい。
けれど、そのどれも口にできなかった。
女子同士でそんなことを言えば、どうなるのか分からなかった。
冗談にされるのが怖かった。
気持ち悪いと思われるのが怖かった。
紗月を困らせるのが怖かった。
でも本当は、それだけではない。
自分自身が、自分の気持ちを認めるのが怖かった。
栞はアルバムを閉じた。
そして、机の引き出しを開ける。
奥の方に、高校時代の図書委員の名札が残っていた。
水瀬栞。
名前を見て、少し笑いそうになる。
栞。
本に挟むもの。
あの頃の自分は、本当に一冊の本に気持ちを挟んだまま、ページを閉じてしまったのだ。
「……馬鹿みたい」
小さく呟いても、涙は出なかった。
泣くには、時間が経ちすぎていた。
でも忘れるには、まだ近すぎた。
栞はベッドに横になった。
天井を見つめながら、紗月の声を思い出す。
昔、栞がすすめてくれた本。
あの本を、紗月はどんな気持ちで思い出したのだろう。
ただ懐かしかっただけかもしれない。
深い意味なんてないのかもしれない。
それでも栞の胸は、静かに痛み続けていた。
告白して振られた恋なら、もっと早く終われただろうか。
栞は思う。
自分は紗月に拒まれたわけではない。
始まってすらいない。
だから終われなかった。
好きだと言えなかった自分。
本の陰に隠れた自分。
気づいてほしいと願いながら、気づかれたら怖くて逃げた自分。
そんな自分が、ずっと嫌いだった。
でも明日、紗月が来る。
あの本を探しに。
栞は目を閉じた。
眠れないまま、夜はゆっくり過ぎていった。
◇
翌日の図書館は、日曜らしく少し賑やかだった。
午前中は親子連れが多く、児童書コーナーでは読み聞かせ会が行われた。午後になると学生が増え、閲覧席は試験勉強をする子たちで埋まり始めた。
栞はいつも通りに働いた。
貸出処理。
返却対応。
予約本の確認。
書架整理。
いつも通りに手を動かしているはずなのに、入り口の自動ドアが開くたび、視線が勝手にそちらへ向いてしまう。
紗月は本当に来るのだろうか。
来ないかもしれない。
昨日の空気で言っただけかもしれない。
久しぶりに会った同級生への、軽い社交辞令だったのかもしれない。
その方がいいのかもしれない。
そう思った瞬間、自動ドアが開いた。
紗月が入ってきた。
昨日のワンピースとは違い、白いニットに細身のパンツ、薄いコートを羽織っている。髪はゆるく結ばれていて、同窓会の時より少しだけ力が抜けて見えた。
同級生たちの中にいた紗月ではない。
東京で働く大人の紗月でもない。
図書館の静けさの中に、一人で立っている春川紗月だった。
栞はカウンターの内側で、一瞬だけ動けなかった。
紗月がこちらを見つける。
軽く手を上げた。
栞は小さく会釈してから、できるだけ普通の声を出した。
「本当に来たんだ」
「来るって言ったでしょ」
「うん」
「仕事中?」
「もちろん」
「そっか。じゃあ、司書さんに相談してもいいですか」
紗月が少し改まった口調で言う。
栞は笑いそうになった。
「どうぞ。お探しの本は何ですか」
「タイトルが、ちゃんと分からなくて」
「昨日言ってた本?」
「うん。栞が昔すすめてくれた本。表紙が青っぽくて、女の子が二人いて……たぶん、放課後とか、透明とか、そんな言葉が入ってた気がする」
栞は、胸の奥が静かに沈むのを感じた。
覚えている。
思った以上に、紗月は覚えていた。
「……『透明な放課後』かな」
紗月の目が少しだけ開いた。
「あ、それ」
「たぶん閉架にあると思う。古い本だから」
「閉架?」
「普段は利用者さんが直接入れない書庫。探してくるから、少し待ってて」
「ありがとう」
栞は端末で検索した。
市立図書館の蔵書データに、その本は残っていた。
貸出可能。
所在は閉架書庫。
まだ、あった。
十年前に閉じたままだと思っていた本が、今もこの図書館のどこかにある。
栞は席を立ち、職員用の扉から書庫へ向かった。
閉架書庫は、利用者スペースより少し温度が低い。金属製の棚が並び、古い本の匂いが濃く残っている。栞は分類番号を確認しながら、目当ての棚へ向かった。
『透明な放課後』。
背表紙は少し色褪せていた。
けれど、青はまだ青だった。
栞は本を手に取った。
表紙には、窓辺に立つ二人の少女の後ろ姿。
当時と同じ絵。
変わらないものもあるのだと、思いたくなかった。
栞は本を持ってカウンターへ戻った。
紗月は近くの書架を眺めていた。栞が戻ったことに気づくと、ゆっくりこちらへ来る。
「これ?」
栞は本を差し出した。
紗月は、少しだけ慎重にそれを受け取った。
その時、指先が触れそうになった。
栞は反射的に手を引いた。
ほんのわずかな動きだった。
でも、紗月は気づいたようだった。
何も言わず、本に視線を落とす。
「……これだ」
紗月は小さく呟いた。
「まだあったんだ」
「うん。あまり借りられてないけど」
「私は、覚えてたよ」
その言葉が、栞の胸に触れた。
やめてほしいと思った。
これ以上、何かを思い出させないでほしい。
でも同時に、もっと聞きたいとも思った。
紗月がこの本をどう覚えていたのか。
どうして昨日、思い出したのか。
あの時、本当に何も気づかなかったのか。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど栞は、司書の顔で言った。
「借りていく?」
「ううん。少し、ここで読んでいってもいい?」
「もちろん。閲覧席、空いてるよ」
「ありがとう」
紗月は本を胸元に抱え、窓際の席へ向かった。
栞はカウンターに戻った。
仕事をしなければならない。
利用者が来れば対応し、本を受け取り、返却処理をする。
それなのに、意識はずっと窓際に向いていた。
紗月がページをめくっている。
十年前と同じ本を。
十年前、栞が好きだと言えない代わりに渡した本を。
午後の日差しが、窓から斜めに差し込んでいた。
その光の中で、紗月の横顔が静かに見える。
高校時代の図書室と、今の図書館が重なった。
あの日も、紗月は同じようにページをめくっていた。
栞は、カウンターの下でそっと手を握った。
何かが、始まってしまう気がした。
いいことなのか、悪いことなのか、まだ分からない。
ただ、十年前に閉じた本が、今、もう一度開かれている。
その事実だけが、栞の胸を苦しくさせていた。
紗月がその本を閉じたのは、閉館まであと一時間ほどになった頃だった。
午後の日差しはもう傾き、窓際の閲覧席には薄い橙色の光が落ちていた。児童書コーナーの親子連れは少なくなり、試験勉強をしていた学生たちも一人、また一人と荷物をまとめて帰っていく。
図書館の中に、夕方の静けさが広がっていた。
栞はカウンターの奥で、予約本の確認をしていた。
けれど、指先は何度も同じ画面の上で止まった。
紗月が本を読んでいる。
それだけのことが、どうしてこんなに息苦しいのだろう。
十年前にも見た光景だった。
放課後の図書室。机に肘をついて、紗月がページをめくる。栞は隣で別の本を開いているふりをしながら、本当は一文字も読めていない。
あの時と同じだ。
栞は、まだ同じ場所にいる。
そう思った時、紗月が席を立った。
青い表紙の本を両手で持ち、カウンターへ近づいてくる。
栞は顔を上げた。
「読み終わった?」
「うん。全部じゃないけど、思い出した」
「思い出した?」
「この感じ」
紗月は、本の表紙を指先で撫でた。
「読んでると、胸の奥がざわざわする感じ」
栞は、何も言えなかった。
紗月が本を返却台に置く。
「これ、今日借りていってもいい?」
「もちろん」
栞は貸出処理をしようとバーコードを読み取った。画面に本の情報が表示される。
『透明な放課後』。
十年前の自分が、紗月に渡した本。
好きだと言えない代わりに差し出した、卑怯で、必死な一冊。
貸出期限の日付を確認して、本を紗月に返す。
「二週間です」
「ありがとう、司書さん」
「どういたしまして」
何でもない会話のはずだった。
けれど、紗月は本を受け取ったまま動かなかった。
カウンターを挟んで、二人の間に沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、紗月だった。
「栞、今日、何時に終わる?」
栞の指先が、カウンターの上で小さく止まった。
「閉館後、少し片付けがあるから……六時半くらい」
「そっか」
「どうして?」
「少し、話せないかな」
紗月は笑わなかった。
同窓会の時のような、懐かしさをまとった笑顔ではなかった。高校時代に冗談を言って距離を縮めてきた時の顔でもない。
ちゃんと何かを言おうとしている顔だった。
だから栞は、逃げられなかった。
「……うん」
声が小さくなる。
「図書館の近くに、昔からある喫茶店があるでしょ」
「白い看板の?」
「そう。まだある?」
「あるよ。駅前の店はだいぶ変わったけど、あそこはまだ」
「じゃあ、そこで待ってる」
紗月は、少しだけ表情を緩めた。
「仕事、がんばってね」
「うん」
栞が答えると、紗月は本を胸に抱え、図書館の出口へ向かった。
自動ドアが開く。夕方の光が差し込み、紗月の後ろ姿を一瞬だけ縁取った。
その背中が外へ消えるまで、栞はずっと見ていた。
見送ってから、ようやく息をした。
何を話すのだろう。
あの本のこと。
高校時代のこと。
同窓会で再会したこと。
それとも、何も深い意味はないのだろうか。
栞は、そんなふうに自分に言い聞かせようとした。
けれど、もう無理だった。
紗月があの本を覚えていた。
読んで、思い出したと言った。
そして、話したいと言った。
十年前に閉じた本のページが、勝手にめくられていく。
栞はそれを止めることができなかった。
◇
閉館後の図書館は、昼間とは別の場所のようになる。
利用者のいなくなった閲覧席。
椅子を整える音。
書架の隙間に残る静けさ。
返却台に積まれた本の背表紙。
栞はいつもより少し急いで片付けを済ませた。
野村さんに「今日は用事?」と聞かれ、「少しだけ」と答えると、野村さんは深く聞かずに笑った。
「気をつけてね」
「はい。お疲れさまでした」
職員用の出口から外へ出ると、夕方の空は群青に変わりかけていた。
昼と夜の間。
青が濃くなる手前の、ほんの短い時間。
栞は駅前へ向かう道を歩いた。
喫茶店は、図書館から徒歩五分ほどの場所にある。高校時代からそこにあった店で、当時は少し大人っぽく見えて、入るのに勇気がいった。
紗月と二人で来たことはなかった。
けれど、前を通ったことは何度もある。
「いつか入ってみたいね」
紗月がそう言ったことがあった。
その「いつか」は来ないまま、高校時代は終わった。
店の扉を開けると、カランと鈴が鳴った。
奥の席に、紗月がいた。
テーブルの上には、借りたばかりの『透明な放課後』が置かれている。
紗月は栞に気づいて、手を上げた。
「お疲れさま」
「待たせてごめん」
「全然。先に頼んじゃった」
紗月の前には、ホットコーヒーが置かれていた。栞は紅茶を注文し、向かいの席に座る。
しばらく、二人は何でもない話をした。
図書館の仕事のこと。
紗月の東京での暮らし。
昨日の同窓会で会った人たちのこと。
昔あった本屋がコンビニになってしまったこと。
会話は続く。
でも、どこか表面をなぞっているだけだった。
紅茶が届いた。
湯気が立つ。
栞がカップに手を添えた時、紗月が本に視線を落とした。
「この本、さ」
栞の手が止まる。
「うん」
「高校の時、栞がすすめてくれたよね」
「……うん」
「私、あの時のこと、ちゃんと覚えてないと思ってた」
紗月は、ゆっくりと言葉を選ぶように話した。
「でも今日読んで、思い出した。栞がすごく真剣な顔で渡してくれたこと。私が感想をちゃんと言えなかったこと」
栞はカップの中の紅茶を見つめた。
「別に、感想なんて。読んでくれただけでよかったから」
「本当に?」
紗月の声は優しかった。
でも、逃がしてくれない優しさだった。
栞は答えられなかった。
紗月は小さく息を吐く。
「あの時、私、分かるような分かんないような話だった、みたいなこと言ったよね」
「……よく覚えてるね」
「思い出したの」
紗月は表紙を指先で叩いた。
「本当は、分かってたんだと思う」
栞は顔を上げた。
紗月は笑っていなかった。
「全部じゃないよ。高校生だったし、自分の気持ちも、栞の気持ちも、ちゃんと言葉にはできなかった。でも、何かは分かった」
「何かって」
「栞がこの本を私に渡した理由」
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
やめて。
言わないで。
でも、言って。
十年前からずっと聞きたかったことが、今になって目の前に差し出されている。
栞は手を握った。
膝の上で、爪が少し食い込む。
紗月は続けた。
「この本の二人、ずっと親友のふりをしてるでしょ」
「……うん」
「好きって言葉を、友達の好きにして。手をつなぎたいのも、そばにいたいのも、全部仲がいいからってことにして」
紗月の声が少し揺れた。
「読んだ時、苦しかった。だって、私たちみたいだと思ったから」
栞は息を呑んだ。
私たち。
その言葉が、十年前の自分をまっすぐ指差した。
「でも、そう思ったのが怖かった」
紗月は視線を落とす。
「栞が何か言おうとしてくれてるのかもしれないって、思った。だけど、受け取ったら戻れなくなる気がした。友達じゃいられなくなるかもしれない。周りにどう思われるかも怖かったし……何より、自分が栞をどう思ってるのか認めるのが怖かった」
栞の喉が詰まる。
何も知らなかったわけではなかった。
届いていなかったわけではなかった。
届いていた。
少しだけでも、紗月には届いていた。
それでも二人は、何も言えなかった。
「だから私、分かんないふりした」
紗月は苦笑した。
自分を責めるような、静かな笑いだった。
「ずるかったよね」
「ずるくない」
栞の声は、思ったより強く出た。
紗月が目を上げる。
栞は、自分の指先を見つめたまま言った。
「ずるいのは、私だよ」
「栞?」
「あの本を渡したのは、紗月に気づいてほしかったから」
言った瞬間、胸の奥にしまっていたものが少しだけ外へ出た。
怖い。
でも、もう止められない。
「でも、私の口からは言いたくなかった。気づいてほしいのに、気づかれたら怖かった。紗月が困ったら、本のせいにできると思ってた」
「本のせい?」
「この本、こういう話だったねって。私はただすすめただけだよって。そうやって逃げられるようにしてた」
栞は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「卑怯だった」
「栞」
「私は、ずっとあの時の自分が嫌いだった」
言葉がこぼれる。
「好きって言えなかったくせに、忘れることもできなくて。告白して振られたわけでもないのに、ずっと引きずって。異性と食事に行ったこともあった。いい人だと思った人もいた。でも、どうしても好きになれなかった。そのたびに思ったの。私はまだ、あの図書室にいるんだって」
喫茶店の中には、他にも客がいた。
カップの触れ合う音や、低い話し声がする。
それでも、栞には紗月しか見えていなかった。
「もう十年近く経つのに。三十歳手前なのに。実家で暮らして、仕事して、普通の顔して毎日生きてるのに。恋愛だけ、ずっと止まってる」
言いながら、恥ずかしさで消えたくなった。
みっともない。
重い。
面倒くさい。
そう思われても仕方ないと思った。
けれど紗月は、笑わなかった。
目を逸らすこともしなかった。
「私も、止まってたよ」
紗月が言った。
栞は顔を上げる。
「東京に出たから、私はちゃんと前に進んだんだと思ってた。大学に行って、友達ができて、就職して。普通に恋愛もできるんだって思おうとした」
紗月はコーヒーカップに触れた。
けれど飲まなかった。
「大学の時、いい感じになった男の子がいたの。優しくて、話も合って、周りからも付き合えばいいのにって言われた。でも、最後のところでどうしても進めなかった」
栞は黙って聞いた。
「社会人になってから、友達の紹介で付き合った人もいた。悪い人じゃなかった。むしろ、すごくいい人だったと思う。でも、手をつながれた時、違うって思った」
紗月の声は静かだった。
「嫌だったわけじゃないの。ただ、違った。私が誰かとこうなりたいと思う時、その相手はこの人じゃないって、どこかで思ってた」
栞の胸が、痛いほど鳴る。
紗月は少しだけ笑った。
「私、恋愛が下手なんだと思ってた。人を好きになるのが向いてないのかなって。でも昨日、栞に会って、今日この本を読んで……違ったんだって思った」
「何が」
「終わらせてなかったんだよ」
紗月は、まっすぐ栞を見た。
「あの頃のことを」
栞は言葉を失った。
自分だけではなかった。
あの春に置いてきたものを、紗月も違う場所で抱えていた。
地元に残った栞。
東京へ出た紗月。
別々の道を歩いたはずなのに、二人とも同じ場所を振り返っていた。
「私、地元に帰るつもりなんてなかったんだ」
紗月が言う。
「同窓会も、最初は迷った。懐かしいなって思っただけで、顔を出して、少し話して、すぐ東京に戻るつもりだった」
「うん」
「でも、参加者の名前に栞があるのを見て、行こうって思った」
栞の手が震えた。
「……私も」
「え?」
「紗月の名前があったから、行った」
言ってしまった。
紗月が目を見開く。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「そっか」
「うん」
「私たち、ほんとに遠回りしたね」
紗月の言葉に、栞はうなずけなかった。
遠回り。
それで済むのだろうか。
十年だ。
高校を卒業して、大学へ行く人は行き、就職する人は就職し、結婚する人は結婚した。季節は何度も巡った。町の店も変わった。自分たちも大人になった。
もう制服は着られない。
放課後の図書室には戻れない。
あの春に言えなかった言葉を、あの日の図書室へ返しに行くことはできない。
「でも」
栞は俯いた。
「今さら言っても、遅いよね」
その言葉は、ずっと栞の中にあった。
あの時言えなかった。
だから今さら言う資格なんてない。
十年前に差し出せなかったものを、今になって渡そうとするなんて、虫がよすぎる。
栞はそう思っていた。
紗月はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり言った。
「遅いかどうかは、今の私たちが決めてもいいんじゃない?」
栞は顔を上げる。
紗月は、少しだけ不安そうに、それでも逃げずに栞を見ていた。
「過去は変えられないよ。私たちは、あの時言えなかった。受け取れなかった。卒業式の日も、その後も、連絡しなかった」
「うん」
「でも、だから全部なかったことにしなきゃいけないのかな」
紗月の声が、ほんの少し震えた。
「あの頃の気持ちは、言えなかったから嘘だったの?」
栞の胸が詰まる。
違う。
嘘ではなかった。
言えなかっただけで、あの時確かに、紗月が好きだった。
痛いくらい。
苦しいくらい。
自分でも持て余すくらい。
好きだった。
「……嘘じゃない」
栞は言った。
紗月は小さくうなずく。
「じゃあ、今からでもいいんじゃないかな」
「何が」
「ちゃんと、言っても」
喫茶店の窓の外は、すっかり夜になっていた。
ガラスに映る自分の顔は、ひどく頼りない。
高校時代の自分より、大人になったはずなのに。
それでも、もう逃げたくなかった。
栞は深く息を吸った。
胸の奥に、十年前の図書室がある。
青い表紙の本を差し出した自分がいる。
好きだと言えず、紗月の返事を怖がって、笑ってごまかした自分がいる。
ずっと嫌いだった。
でも今、その子の手を取ってあげなければ、きっと一生、栞はあの春から出られない。
「私は」
声が震えた。
それでも、言う。
「私は、紗月が好きだった」
紗月の目が、静かに揺れた。
栞は言葉を続ける。
「友達としてじゃなくて。親友としてでもなくて。本当の意味で、好きだった」
言えた。
十年前に言えなかった言葉が、今、ようやく形になった。
栞の目の奥が熱くなる。
「それで」
一度言葉を切る。
過去形だけでは、足りない。
「たぶん、今も好き」
言った瞬間、涙がこぼれそうになった。
でも泣かなかった。
紗月は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が怖くて、栞は慌てて言い足しそうになった。
ごめん。困らせたよね。忘れて。今のは、なかったことにして。
十年前と同じ逃げ道が、喉元までせり上がる。
けれど、紗月が先に言った。
「私も」
栞は息を止めた。
「私も、栞が好きだった」
紗月の声も震えていた。
「たぶん、あの頃から。ずっとそうだったんだと思う。でも、怖かった。栞に好きって言われたら、私はどうすればいいんだろうって。嬉しいはずなのに、怖かった」
「紗月」
「あの本を読んだ時、ほんとは分かったの。栞が、私に何かを渡そうとしてるって。でも、受け取れなかった。ごめん」
紗月の目に、涙が浮かんでいた。
「ごめんね、栞」
栞は首を横に振った。
「謝らないで」
「でも」
「私も、言えなかったから」
二人とも、言えなかった。
二人とも、受け取れなかった。
二人とも、怖かった。
どちらかだけが悪かったわけではない。
ただ、あの頃の二人には、その気持ちを抱えて歩くには、あまりにも世界が狭かった。
教室。
友人たちの目。
冗談のような「好き」。
親友という安全な名前。
そこからはみ出す勇気を、二人とも持てなかった。
でも今は。
紗月が言う。
「もう一回、栞と始めたい」
栞の胸が、痛いほど熱くなる。
「親友のふりじゃなくて」
その言葉で、栞はとうとう涙をこぼした。
一粒だけ。
頬を伝って落ちる。
「……いいのかな」
「何が?」
「今からでも」
「うん」
「十年も経ってるのに」
「十年経ったから、今言えたんじゃない?」
紗月は少しだけ笑った。
昔のような明るい笑顔ではなかった。
大人になって、いろいろなものを通り過ぎて、それでも栞の前に残っている笑顔だった。
「私、栞とちゃんと話したい。あの頃のことも、今のことも。東京のことも、地元のことも。好きだったことも、今どうしたいかも」
「うん」
「すぐに全部決めなくていいと思う。でも、もう分からないふりはしたくない」
栞はうなずいた。
「私も、もう本の陰に隠れたくない」
紗月は少し笑った。
「司書なのに?」
「司書だけど」
二人は泣き笑いのような顔で、少しだけ笑った。
十年前にはできなかった会話だった。
好きと言ったら終わると思っていた。
でも、終わらなかった。
むしろ、初めて始まった気がした。
◇
店を出ると、夜の空気は冷たかった。
駅前の灯りが、二人の影を歩道に落としている。
喫茶店の扉が閉まる音のあと、しばらく二人は黙って並んで歩いた。
駅へ向かう道とは反対に、栞は足を向けた。
「こっち?」
紗月が聞く。
「少し歩いてもいい?」
「うん」
向かった先は、高校時代によく通った帰り道だった。
駅前から一本外れた道。
昔は小さな文房具屋があった場所は、今は駐車場になっている。角のパン屋はまだ残っていて、閉店後の店内からほのかに甘い匂いがした。
十年で変わったもの。
変わらなかったもの。
そのどちらも、夜の中に静かに並んでいる。
「懐かしいね」
紗月が言った。
「うん」
「ここ、よく通った」
「紗月、いつもこの辺でアイス買ってた」
「あったね。冬でも買ってた」
「寒いって言いながら食べてた」
「栞が半分食べてくれたじゃん」
「あれ、押しつけられてたんだけど」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
何でもない会話だった。
でも、胸が苦しくなるほど懐かしかった。
制服を着た二人が、すぐ後ろを歩いているような気がした。
まだ好きと言えない栞。
気づきかけているのに笑ってごまかす紗月。
あの二人は、もういない。
それでも、なかったことにはならない。
栞は歩きながら、自分の右手を意識していた。
すぐ隣に、紗月の左手がある。
触れそうで、触れない距離。
高校時代、何度もこの距離を歩いた。
手をつなぎたいと思った。
でも、できなかった。
肩が触れれば、偶然のふりをした。
指先が当たりそうになれば、本を抱え直した。
紗月がふざけて腕を組んできた時は、心臓が壊れそうだったのに、栞は「歩きにくい」と文句を言った。
本当は、嬉しかった。
嬉しすぎて、怖かった。
今も怖い。
でも、もう逃げたくない。
栞は、少しだけ手を動かした。
すると、同じタイミングで紗月の指先が触れた。
ほんの一瞬。
二人とも足を止めなかった。
けれど、空気が変わった。
紗月の指が、もう一度栞の手に触れる。
今度は偶然ではなかった。
栞は息を吸った。
逃げない。
そう決めて、自分から紗月の指に触れた。
紗月の手が、少し震えた。
栞も震えていた。
指先が重なる。
そっと絡む。
それは、十年前にできなかったことだった。
恋人のように大胆ではなく、友達のように気軽でもない。
けれど、確かに二人は手をつないでいた。
紗月が小さく笑う。
「手、冷たいね」
「緊張してるから」
「私も」
「紗月の手も、冷たい」
「じゃあ、お互いさまだ」
二人は、手をつないだまま歩いた。
誰かに見られるかもしれない。
昔なら、それだけで怖かった。
今も、全く怖くないわけではない。
けれどそれ以上に、栞はこの手を離したくなかった。
高校時代に戻ることはできない。
高校二年のあの放課後に戻って、青い表紙の本を渡し直すこともできない。
十年前の自分に、好きだと言いなさいと教えることもできない。
でも、今の自分なら言える。
あの頃の私は、間違っていたわけじゃない。
ただ、言えなかっただけだ。
好きだった。
本当に、好きだった。
そして今も、その続きを選びたい。
紗月が隣で空を見上げた。
「ねえ、栞」
「うん」
「明日、東京に戻るんだけど」
「うん」
「また連絡してもいい?」
栞は少しだけ笑った。
「連絡先、交換してないね」
「そうだった」
「高校の時は、毎日会えたから」
「うん」
「今は、ちゃんと交換しないとね」
栞がスマホを取り出そうとすると、紗月が手を少しだけ強く握った。
「あとでいい」
「どうして?」
「今は、もう少しこのままがいい」
栞の胸が、柔らかく痛んだ。
「うん」
二人はそのまま歩いた。
昔の通学路。
大人になった二人。
制服ではなく、仕事帰りの服。
学生鞄ではなく、それぞれのバッグ。
何もかもが違う。
それでも、指先の温度だけが、十年前に置いてきたものを少しずつほどいていく。
道の先に、小さな川沿いの歩道が見えた。
高校時代、よくそこで立ち止まって話した場所だ。春には桜が咲き、梅雨には水の匂いが濃くなり、夏には虫の声がして、冬には街灯が白く冷えて見えた。
今はまだ、春には少し早い。
枝には何も咲いていない。
でも、栞は思った。
花が咲いていなくても、春は来る準備をしている。
見えないところで、少しずつ。
「栞」
紗月が呼んだ。
高校時代と同じ呼び方。
でも、その声に込められたものは、もう同じではなかった。
「好きだよ」
栞の足が止まりかけた。
紗月は前を向いたまま、手をつないだまま言った。
「今度は、ちゃんと言いたかった」
栞の目の奥が熱くなる。
言葉は、こんなに簡単な形をしていたのに。
十年前の二人には、それがどうしても言えなかった。
栞は紗月の手を握り返した。
「私も、好き」
声は小さかった。
けれど、今度は本の陰に隠れていなかった。
紗月がこちらを向く。
夜の街灯の下で、泣きそうな顔をして笑っていた。
「言えたね」
「うん」
「十年かかったね」
「うん」
「遅かったかな」
栞は首を横に振った。
「遅かったかもしれない」
紗月が少しだけ目を伏せる。
栞は続けた。
「でも、遅すぎたとは思いたくない」
紗月が顔を上げる。
「今からでも、始めたい」
それは、告白というより、選択だった。
紗月と手をつないで歩くこと。
親友のふりをやめること。
あの本に挟んだままの気持ちを、自分の言葉で渡すこと。
これからどうなるかは分からない。
紗月は東京へ戻る。
栞は地元に残る。
会えない日もある。
不安になる夜もある。
昔のように、毎日同じ教室で会えるわけではない。
でも、もう知らないふりはしない。
紗月は、ゆっくりうなずいた。
「私も、始めたい」
その言葉だけで、栞の中の何かがほどけた。
十年前、図書室で本を差し出した自分。
感想を聞くのが怖くて、笑ってごまかした自分。
卒業式の日、最後まで何も言えなかった自分。
ずっと嫌いだったその子を、今なら少しだけ抱きしめてあげられる気がした。
あなたは間違っていなかった。
ただ、言えなかっただけ。
でも今、言えたよ。
栞は夜空を見上げた。
青はもう深く、群青と呼ぶには少し暗い。
それでも、昼と夜の間に残った色が、どこか胸の奥に残っていた。
「紗月」
「うん?」
「明日、東京に戻る前に、もう一回図書館に来る?」
「行っていいの?」
「利用者なら、誰でも歓迎です」
「またそれ」
「でも、紗月は特別」
言ってから、栞は自分で驚いた。
こんなことを言えるようになる日が来るとは思わなかった。
紗月も一瞬驚いて、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、特別な利用者として行きます」
「本、返しに?」
「まだ読んでないから返さない」
「じゃあ何しに?」
紗月は、つないだ手を少しだけ持ち上げた。
「栞に会いに」
栞は、今度は逃げなかった。
「待ってる」
その言葉は、昨日ホテルの前で言った時よりも、ずっと確かな形をしていた。
待ってる。
本を探しに来る紗月を。
東京へ戻っても連絡をくれる紗月を。
もう一度、自分の隣へ来てくれる紗月を。
そして、自分自身を。
十年前の春に置いてきたままだと思っていた自分を、栞はようやく迎えに行ける気がした。
川沿いの道を、二人はゆっくり歩いた。
昔なら、ここで手を離していた。
誰かに見られる前に。
冗談で済ませられるうちに。
関係が変わらないうちに。
でも今夜、栞は手を離さなかった。
紗月も離さなかった。
あの春に戻ることはできない。
渡せなかった好きを、十年前の紗月に届けることもできない。
でも、あの春の続きを、今から書いてもいい。
閉じたままだった本のページを、もう一度めくるように。
群青色の夜の中で、栞はもう一度、紗月の指先を握り返した。




