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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

群青リライト 〜君に渡せなかった好きと、もう一度つなぐ指先と〜

作者: れいてる
掲載日:2026/06/04


 返却された本のページを開くと、知らない誰かの時間が少しだけ挟まっていることがある。


 薄く折れたページの角。

 栞代わりに挟まれたままの映画館の半券。

 鉛筆で小さく引かれた線。

 もう消えかけた付箋の糊の跡。


 本当はいけない。

 図書館の本は、誰か一人のものではないから。けれど、水瀬栞はそういう痕跡を見つけるたび、少しだけ息を止めてしまう。


 この人は、どんな気持ちでこのページを閉じたのだろう。


 続きを読みたかったのか。

 それとも、これ以上読めなくなったのか。


 午後の市立図書館は、静かだった。


 窓際の閲覧席には、年配の男性が新聞を広げている。児童書コーナーでは、小さな女の子が絵本を膝に乗せて、母親らしき女性にページをめくってもらっていた。カウンターの奥では、同僚の野村さんが新着資料の登録をしている。


 栞は返却本のバーコードを読み取り、状態を確認してから、棚へ戻す本と修繕が必要な本に分けていった。


 毎日、同じような仕事。

 毎日、少しずつ違う本。


 この静けさが、栞は嫌いではなかった。


「水瀬さん」


 呼ばれて顔を上げると、野村さんがパソコンの画面から視線を外していた。栞より五つ年上で、よく笑う人だ。仕事も速いし、利用者への対応も柔らかい。


「はい」


「この前言ってた駅前のカフェ、行ってきたよ。チーズケーキおいしかった」


「あ、よかったです」


「水瀬さん、甘いもの詳しいよね」


「詳しいというほどじゃないですけど。休みの日に行く場所が、それくらいしかなくて」


 栞がそう言うと、野村さんは少し笑った。


「じゃあ今度、誰かと行けばいいのに」


「誰か、ですか」


「ほら、恋人とか」


 言葉は軽かった。

 悪意も、詮索も、ほとんどなかったと思う。


 だから栞も、いつものように笑った。


「出会いがなくて」


「あー、図書館って出会いなさそうだもんね」


「そうですね」


 栞は返却本に視線を戻した。


 嘘ではない。

 でも、本当でもない。


 出会いがなかったわけではなかった。


 大学へは行かず、地元の短大を出て、図書館に就職した。学生時代の友人に誘われて、何度か食事に行ったこともある。親戚から紹介された人と映画を見に行ったこともある。職場の研修で知り合った男性に、連絡先を聞かれたこともあった。


 悪い人ではなかった。


 優しくて、話しやすくて、きちんとこちらの都合を考えてくれる人もいた。

 きっと、栞がもう少しだけ器用なら、好きになれたのかもしれない。


 けれど、帰り道でいつも思ってしまった。


 私は、この人に好きだと言われたいわけじゃない。


 そのたびに、自分の中のどこかが冷えていく。


 恋愛ができないわけじゃない。

 好きという気持ちを知らないわけでもない。


 知っている。

 知っているから、困る。


 栞は、本を一冊手に取った。


 青い背表紙の小説だった。

 何度も貸し出されて、角が丸くなっている。


 高校時代、図書室でよく本を借りていた。

 静かな放課後。窓の外のグラウンドから聞こえる部活動の声。西日に透けるカーテン。古い木の机に並べた、貸出カードと一冊の本。


 そして、隣にいた少女。


 春川紗月。


 名前を思い浮かべただけで、胸の奥がきゅっと縮む。


 もう十年近く前のことなのに。


 栞は小さく息を吐いた。


 大丈夫。

 仕事中だ。


 そう思って棚へ向かおうとした時、カウンターの電話が鳴った。野村さんが出て、短く応対する。栞は本を台車に戻し、児童書コーナーの返却分を手に取った。


 いつも通り。

 いつも通りでいい。


 そうやって毎日を積み重ねていれば、十年前の春なんて、いつか本当に遠くなるはずだった。


 けれど、その日の夕方。


 休憩室でスマホを開いた栞は、画面に表示された通知を見て、指を止めた。


 高校の同窓会グループ。

 ほとんど開いていなかったトークに、新しい案内が届いていた。


『卒業十周年の同窓会を開催します。参加希望の方はフォームから回答してください』


 その下に、参加予定者の名前が少しずつ並んでいた。


 懐かしい名前。

 すぐには顔が浮かばない名前。

 結婚して名字が変わったらしい名前。


 そして。


 春川紗月。


 栞の指先が、画面の上で止まった。


 春川紗月。


 まだ、その名字のままだった。


 そんなことを考えた自分に、栞はすぐ嫌気が差した。


 何を期待しているのだろう。

 名字が変わっていなければ、何だというのだろう。


 紗月は卒業後、都内の大学へ進学した。

 そのまま東京で就職したと、人づてに聞いたことがある。


 栞とは違う場所で、違う時間を生きてきた人。


 きっと、綺麗になっている。

 仕事もして、友人もいて、恋人もいたかもしれない。

 ちゃんと大人になっているのだろう。


 それに比べて、自分は。


 三十歳手前。

 独り身。

 実家暮らし。

 地元の図書館で、毎日本を並べている。


 この生活を恥じているわけではない。

 仕事は好きだ。実家にいるのも、親の体調や家計を考えれば自然な選択だった。


 でも、紗月の名前を見た瞬間だけ、自分が何ひとつ進めていない人間のように思えた。


 栞はスマホを伏せた。


「……行かなくていい」


 小さく呟いた声は、休憩室の冷蔵庫の音に紛れた。


 行かなくていい。

 今さら会ってどうする。


 久しぶり、と笑って。

 元気だった、と聞いて。

 仕事の話をして。

 誰かが結婚の話をして。

 何もなかった顔で帰ってくるだけだ。


 それなのに、その夜。


 栞は自室のベッドに座ったまま、何度も同窓会の案内を開いていた。


 実家の部屋には、高校時代のものがまだ少し残っている。

 本棚の端に並んだ文庫本。机の引き出しに入ったままの古いペンケース。クローゼットの奥にしまった制服のリボン。卒業アルバムは、手の届かない棚の上に置いてある。


 捨てたつもりだった。

 忘れたつもりだった。


 でも、何ひとつ消えていなかった。


 栞はスマホを握ったまま、目を閉じた。


 高校二年の春だった。


 放課後の図書室は、いつもより人が少なかった。

 雨上がりで、窓の外にはまだ水の匂いが残っていた。部活動の声も遠く、ページをめくる音だけがやけにはっきり聞こえた。


 紗月は、栞の向かいの席に座っていた。


「栞の好きな本って、ちょっと難しいよね」


 紗月は頬杖をつきながら、貸出カードを指で弾いていた。

 肩の少し下で揺れる髪。くるくる変わる表情。誰とでも自然に話せるのに、放課後になるとよく栞のところへ来る。


「難しくないよ」


「難しいよ。読んでると、栞の頭の中を見せられてる気分になる」


「なにそれ」


「ほら、そういう顔する。ちょっと怒った?」


「怒ってない」


「怒ってるじゃん」


 紗月が笑う。


 その笑顔を見ているだけで、栞は苦しくなった。


 好きだと思った。


 友達としてではなく。

 親友としてでもなく。


 紗月が他の誰かと笑っているだけで、胸がざわつく。

 紗月に名前を呼ばれると、その日はずっと落ち着かない。

 紗月の手が自分の手に触れそうになるだけで、息が止まりそうになる。


 それを恋と呼ぶのだと、本当はもう知っていた。


 でも、言えなかった。


 女子同士で手をつないでいたら、仲良しだと笑われる。

 冗談で「好き」と言えば、紗月も「私も好きだよ」と返してくれる。


 けれど、その先はなかった。


 本当の意味で好きだと言った瞬間、すべてが壊れる気がした。


 だから栞は、本を一冊、紗月の前に差し出した。


「これ、紗月にも読んでほしいと思った」


「へえ。栞がそんな顔してすすめるなら、読まないわけにいかないじゃん」


「そんな顔って?」


「なんか、真剣な顔」


 紗月は本を受け取った。


 その表紙は、淡い青色だった。

 窓辺に立つ二人の少女の後ろ姿が描かれている。題名は『透明な放課後』。


 友情とも恋とも言い切れない感情を抱えた二人の少女が、最後まで「好き」の意味を言葉にできない物語だった。


 栞は、その本を読んだ時、自分の気持ちを見つけてしまった。


 だから紗月にも読んでほしかった。


 気づいてほしかった。

 でも、気づかないでほしかった。


 自分でも矛盾していると思った。

 それでも、本なら言える気がした。


 私の気持ちは、ここに書いてある。

 でも、私の口から言ったわけではない。


 卑怯な告白だった。


 数日後、紗月は本を返しに来た。


「どうだった?」


 栞は平静を装って聞いた。

 本当は、心臓がうるさかった。


 紗月は本の表紙を撫でるようにしてから、少しだけ視線をそらした。


「……なんか、胸が変になる話だった」


「変?」


「うん。分かるような、分かんないような」


 それだけだった。


 栞はそれ以上、聞けなかった。


 気づいたのか。

 気づかなかったのか。

 気づいたうえで、分からないふりをしたのか。


 何も分からないまま、栞は笑った。


「そっか」


 その日から、本は栞の中で閉じたままになった。


 現在に戻る。


 スマホの画面は、まだ同窓会の参加フォームを表示していた。


 行かなければ、何も起きない。

 行けば、傷つくかもしれない。


 でも。


 行かなかったら、また逃げることになる。


 十年前、本の陰に隠れて、好きだと言えなかったあの時と同じように。


 栞はしばらく画面を見つめていた。

 それから、参加の欄に丸をつけた。


 送信ボタンを押した直後、胸の奥で何かが小さく震えた。


 後悔なのか、期待なのか、栞には分からなかった。


     ◇


 同窓会の会場は、駅前のホテルにある小さな宴会場だった。


 受付で名前を告げ、名札を受け取る。

 白いカードに印刷された「水瀬栞」の文字が、どこかよそよそしく見えた。


 会場には、すでに多くの同級生が集まっていた。


「久しぶり!」

「全然変わってないじゃん」

「いやいや、変わったでしょ」

「今どこ住んでるの?」

「子ども何歳?」


 懐かしい声が重なり合っている。


 栞は笑顔を作りながら、何人かと挨拶を交わした。


 高校時代によく話していた子は、今は二児の母になっていた。隣のクラスだった男子は、地元の市役所で働いているらしい。部活で全国大会に行った子は、今は東京で営業職をしていると言った。


 時間は、ちゃんと進んでいた。


 誰かの指には指輪があり、誰かのスマホには子どもの写真があり、誰かの話す将来には、もう自分以外の誰かが自然に含まれている。


 栞は頷き、笑い、相槌を打った。


 楽しくないわけではない。

 懐かしいと思う気持ちもある。


 けれど、どこかでずっと、自分だけ薄いガラス越しにそこにいるような感覚があった。


「水瀬さんって、今何してるんだっけ?」


 同じクラスだった男子に聞かれて、栞は答えた。


「市立図書館で司書をしてます」


「え、めっちゃ似合う」


「よく言われます」


「昔から本読んでたもんなあ。なんか、水瀬さんって図書室のイメージある」


 その言葉に、栞の胸が少しだけ痛んだ。


 図書室。

 放課後。

 紗月。


 会場の入り口が開いたのは、その時だった。


 誰かが「あ、春川だ」と言った。


 栞は、反射的に振り向いた。


 春川紗月が立っていた。


 紺色のワンピースに、薄いベージュのジャケット。高校時代より髪は少し短くなっていて、肩のあたりで柔らかく揺れている。化粧もしている。表情も、立ち方も、大人の女性になっていた。


 それなのに。


 笑った瞬間だけ、十年前と同じだった。


 栞の呼吸が、一瞬だけ止まる。


 紗月は何人かに囲まれ、懐かしい名前を呼ばれて笑っていた。誰とでも自然に話せるところも、昔のままだった。


 栞は視線を外そうとした。

 でも、できなかった。


 その時、紗月の視線がこちらを向いた。


 目が合う。


 ほんの一秒。

 けれど栞には、ひどく長く感じられた。


 紗月の唇が、少しだけ開く。


「栞?」


 その名前の呼び方で、栞の中の時間が崩れた。


 十年前の図書室。

 雨上がりの匂い。

 青い表紙の本。

 返ってこなかった答え。


 全部が、一度に胸の奥へ戻ってくる。


 栞は、それでも笑った。


「久しぶり、紗月」


「久しぶり。ほんとに栞だ」


「それ以外に見える?」


「ううん。見える。すごく栞」


 紗月は少し照れたように笑った。


 その笑い方を見て、栞は思った。


 好きだった人だ。


 違う。


 好きだと言えなかった人だ。


「東京から来たの?」


「うん。昨日仕事終わってから帰ってきた。実家に泊まってる」


「そっか」


「栞は、地元?」


「うん。ずっと」


「そっか」


 会話は短く、当たり障りがない。

 それでも、栞の内側は落ち着かなかった。


「さっき聞こえたけど、図書館で働いてるんだ?」


「うん。市立図書館」


「似合う」


「さっきも言われた」


「だって似合うもん。高校の時から、栞は本棚の前にいるのが一番自然だった」


「褒めてる?」


「もちろん」


 紗月は昔のように笑った。


「でも、ちょっと悔しい」


「何が?」


「私が覚えてる栞のまま、ちゃんと大人になってる感じがして」


 栞は返事に困った。


 ちゃんと大人になっている。

 そんなことはない。


 むしろ、自分だけがずっと高校時代に取り残されている気がしていた。


 けれど、紗月にそう見えているのなら、少しだけ救われるような気もした。


 会は進んでいった。


 乾杯があり、近況報告があり、昔の担任からのビデオメッセージが流れた。誰かが高校時代の写真をスマホに保存していて、皆で覗き込んでは笑った。


 その中に、栞と紗月が並んで写っている写真もあった。


 文化祭の日。

 栞は図書委員の展示で受付をしていて、紗月はその隣でピースをしている。二人の肩は触れ合っている。栞は少し困った顔をしていて、紗月は楽しそうに笑っていた。


「二人、ほんと仲良かったよね」


 誰かが言った。


 栞は曖昧に笑った。


「そうだね」


 紗月も笑った。


「ね。懐かしい」


 それだけだった。


 仲が良かった。

 親友だった。

 その言葉の中に、全部押し込められる。


 高校時代も、ずっとそうだった。


 不意に、話題が恋愛に移った。


「春川は? 東京でいい人いないの?」


 同級生の一人が、軽い調子で聞いた。


 栞の手の中で、グラスの氷が小さく鳴った。


 紗月はいつものように笑う。


「いたような、いなかったような」


「何それ」


「まあ、いろいろあったんだよ」


「付き合ってた人は?」


「いたけど、長くは続かなかったかな」


 栞は、視線を落とした。


 関係ない。

 自分には関係ない。


 紗月が誰と付き合っていても。

 誰に好きと言われていても。

 誰と手をつないでいても。


 関係ないはずなのに、胸の奥が痛かった。


 十年経っても、自分はこんなことを思うのか。


 栞は自分に呆れた。


 紗月がこちらを見た気がした。

 でも栞は顔を上げられなかった。


 同窓会は、思っていたより早く終わった。


 二次会へ行く人たちが賑やかに集まり始める中、栞は会場の外でコートを手に取った。これ以上いると、笑顔を保てなくなりそうだった。


「栞」


 後ろから呼ばれる。


 振り向くと、紗月がいた。


「帰るの?」


「うん。明日仕事だから」


「そっか。図書館、日曜も開いてるんだ」


「うちは開いてるよ。月曜休館だから」


「じゃあ、明日行ってもいい?」


 栞は一瞬、意味が分からなかった。


「図書館に?」


「うん」


「何か借りたい本でもあるの?」


 何気なく聞いたつもりだった。


 けれど紗月は、少しだけ迷うように目を伏せた。


「探したい本があるんだ」


「タイトル分かる?」


「たぶん、見れば分かると思う。でも、ちゃんとは覚えてない」


「どんな本?」


 紗月は、栞を見た。


 その目が、同窓会の喧騒から少しだけ離れた色をしていた。


「昔、栞がすすめてくれた本」


 栞の心臓が、どくんと鳴った。


 まるで、閉じていた本が勝手に開いたみたいだった。


「……覚えてたの?」


 声が、少しかすれた。


 紗月は困ったように笑った。


「忘れてたつもりだったんだけどね。今日、栞に会ったら思い出した」


「そっか」


「迷惑?」


「迷惑じゃないよ。利用者なら、誰でも歓迎です」


「司書さんっぽい」


「司書なので」


 二人は少しだけ笑った。


 でもその笑いの下に、言葉にならないものが沈んでいるのを、栞は感じていた。


「じゃあ、明日」


「うん。待ってる」


 言ってから、栞は後悔した。


 待ってる。

 何を。


 紗月は少しだけ目を細めた。


「うん。行くね」


 それだけ言って、紗月は二次会へ向かう同級生たちに呼ばれて戻っていった。


 栞はホテルの外へ出た。


 夜風が冷たかった。


 駅前の街灯が、濡れてもいない歩道を淡く照らしている。地元の駅前は、昔より少しだけ新しくなっていた。コンビニが増え、古い喫茶店はなくなり、駅ビルの看板も変わっている。


 変わらないものなんてない。


 そう思っていたのに。


 紗月は、あの本を覚えていた。


     ◇


 その夜、栞はなかなか眠れなかった。


 実家の二階にある自室は、昔と大きく変わっていない。壁紙は少し黄ばんで、机はもうほとんど使っていない。ベッドの横の本棚には、学生時代に買った文庫本が並んでいる。


 栞は棚の上から、卒業アルバムを下ろした。


 埃っぽい匂いがした。


 開くつもりはなかった。

 けれど指は勝手にページをめくっていた。


 一年生。

 二年生。

 三年生。


 集合写真の中に、紗月がいる。

 個人写真の紗月は、今より少し幼くて、けれどやっぱり笑っている。


 文化祭のページには、先ほど見た写真と同じ場面が載っていた。

 図書委員の展示。

 「本の中の青春」をテーマにした小さな企画。


 その隅に、栞と紗月が写っている。


 肩が触れそうな距離。

 でも、触れていない。


 栞は写真を見つめた。


 あの頃、何度も思った。


 手をつなぎたい。

 名前を呼ばれたい。

 自分だけを見てほしい。


 けれど、そのどれも口にできなかった。


 女子同士でそんなことを言えば、どうなるのか分からなかった。

 冗談にされるのが怖かった。

 気持ち悪いと思われるのが怖かった。

 紗月を困らせるのが怖かった。


 でも本当は、それだけではない。


 自分自身が、自分の気持ちを認めるのが怖かった。


 栞はアルバムを閉じた。


 そして、机の引き出しを開ける。

 奥の方に、高校時代の図書委員の名札が残っていた。


 水瀬栞。


 名前を見て、少し笑いそうになる。


 栞。

 本に挟むもの。


 あの頃の自分は、本当に一冊の本に気持ちを挟んだまま、ページを閉じてしまったのだ。


「……馬鹿みたい」


 小さく呟いても、涙は出なかった。


 泣くには、時間が経ちすぎていた。

 でも忘れるには、まだ近すぎた。


 栞はベッドに横になった。


 天井を見つめながら、紗月の声を思い出す。


 昔、栞がすすめてくれた本。


 あの本を、紗月はどんな気持ちで思い出したのだろう。


 ただ懐かしかっただけかもしれない。

 深い意味なんてないのかもしれない。


 それでも栞の胸は、静かに痛み続けていた。


 告白して振られた恋なら、もっと早く終われただろうか。


 栞は思う。


 自分は紗月に拒まれたわけではない。

 始まってすらいない。


 だから終われなかった。


 好きだと言えなかった自分。

 本の陰に隠れた自分。

 気づいてほしいと願いながら、気づかれたら怖くて逃げた自分。


 そんな自分が、ずっと嫌いだった。


 でも明日、紗月が来る。


 あの本を探しに。


 栞は目を閉じた。


 眠れないまま、夜はゆっくり過ぎていった。


     ◇


 翌日の図書館は、日曜らしく少し賑やかだった。


 午前中は親子連れが多く、児童書コーナーでは読み聞かせ会が行われた。午後になると学生が増え、閲覧席は試験勉強をする子たちで埋まり始めた。


 栞はいつも通りに働いた。


 貸出処理。

 返却対応。

 予約本の確認。

 書架整理。


 いつも通りに手を動かしているはずなのに、入り口の自動ドアが開くたび、視線が勝手にそちらへ向いてしまう。


 紗月は本当に来るのだろうか。


 来ないかもしれない。

 昨日の空気で言っただけかもしれない。

 久しぶりに会った同級生への、軽い社交辞令だったのかもしれない。


 その方がいいのかもしれない。


 そう思った瞬間、自動ドアが開いた。


 紗月が入ってきた。


 昨日のワンピースとは違い、白いニットに細身のパンツ、薄いコートを羽織っている。髪はゆるく結ばれていて、同窓会の時より少しだけ力が抜けて見えた。


 同級生たちの中にいた紗月ではない。

 東京で働く大人の紗月でもない。


 図書館の静けさの中に、一人で立っている春川紗月だった。


 栞はカウンターの内側で、一瞬だけ動けなかった。


 紗月がこちらを見つける。


 軽く手を上げた。


 栞は小さく会釈してから、できるだけ普通の声を出した。


「本当に来たんだ」


「来るって言ったでしょ」


「うん」


「仕事中?」


「もちろん」


「そっか。じゃあ、司書さんに相談してもいいですか」


 紗月が少し改まった口調で言う。


 栞は笑いそうになった。


「どうぞ。お探しの本は何ですか」


「タイトルが、ちゃんと分からなくて」


「昨日言ってた本?」


「うん。栞が昔すすめてくれた本。表紙が青っぽくて、女の子が二人いて……たぶん、放課後とか、透明とか、そんな言葉が入ってた気がする」


 栞は、胸の奥が静かに沈むのを感じた。


 覚えている。


 思った以上に、紗月は覚えていた。


「……『透明な放課後』かな」


 紗月の目が少しだけ開いた。


「あ、それ」


「たぶん閉架にあると思う。古い本だから」


「閉架?」


「普段は利用者さんが直接入れない書庫。探してくるから、少し待ってて」


「ありがとう」


 栞は端末で検索した。


 市立図書館の蔵書データに、その本は残っていた。

 貸出可能。

 所在は閉架書庫。


 まだ、あった。


 十年前に閉じたままだと思っていた本が、今もこの図書館のどこかにある。


 栞は席を立ち、職員用の扉から書庫へ向かった。


 閉架書庫は、利用者スペースより少し温度が低い。金属製の棚が並び、古い本の匂いが濃く残っている。栞は分類番号を確認しながら、目当ての棚へ向かった。


 『透明な放課後』。


 背表紙は少し色褪せていた。

 けれど、青はまだ青だった。


 栞は本を手に取った。


 表紙には、窓辺に立つ二人の少女の後ろ姿。

 当時と同じ絵。


 変わらないものもあるのだと、思いたくなかった。


 栞は本を持ってカウンターへ戻った。


 紗月は近くの書架を眺めていた。栞が戻ったことに気づくと、ゆっくりこちらへ来る。


「これ?」


 栞は本を差し出した。


 紗月は、少しだけ慎重にそれを受け取った。


 その時、指先が触れそうになった。


 栞は反射的に手を引いた。


 ほんのわずかな動きだった。

 でも、紗月は気づいたようだった。


 何も言わず、本に視線を落とす。


「……これだ」


 紗月は小さく呟いた。


「まだあったんだ」


「うん。あまり借りられてないけど」


「私は、覚えてたよ」


 その言葉が、栞の胸に触れた。


 やめてほしいと思った。

 これ以上、何かを思い出させないでほしい。


 でも同時に、もっと聞きたいとも思った。


 紗月がこの本をどう覚えていたのか。

 どうして昨日、思い出したのか。

 あの時、本当に何も気づかなかったのか。


 聞きたいことは山ほどあった。


 けれど栞は、司書の顔で言った。


「借りていく?」


「ううん。少し、ここで読んでいってもいい?」


「もちろん。閲覧席、空いてるよ」


「ありがとう」


 紗月は本を胸元に抱え、窓際の席へ向かった。


 栞はカウンターに戻った。


 仕事をしなければならない。

 利用者が来れば対応し、本を受け取り、返却処理をする。


 それなのに、意識はずっと窓際に向いていた。


 紗月がページをめくっている。


 十年前と同じ本を。

 十年前、栞が好きだと言えない代わりに渡した本を。


 午後の日差しが、窓から斜めに差し込んでいた。

 その光の中で、紗月の横顔が静かに見える。


 高校時代の図書室と、今の図書館が重なった。


 あの日も、紗月は同じようにページをめくっていた。


 栞は、カウンターの下でそっと手を握った。


 何かが、始まってしまう気がした。


 いいことなのか、悪いことなのか、まだ分からない。


 ただ、十年前に閉じた本が、今、もう一度開かれている。


 その事実だけが、栞の胸を苦しくさせていた。


 紗月がその本を閉じたのは、閉館まであと一時間ほどになった頃だった。


 午後の日差しはもう傾き、窓際の閲覧席には薄い橙色の光が落ちていた。児童書コーナーの親子連れは少なくなり、試験勉強をしていた学生たちも一人、また一人と荷物をまとめて帰っていく。


 図書館の中に、夕方の静けさが広がっていた。


 栞はカウンターの奥で、予約本の確認をしていた。

 けれど、指先は何度も同じ画面の上で止まった。


 紗月が本を読んでいる。


 それだけのことが、どうしてこんなに息苦しいのだろう。


 十年前にも見た光景だった。

 放課後の図書室。机に肘をついて、紗月がページをめくる。栞は隣で別の本を開いているふりをしながら、本当は一文字も読めていない。


 あの時と同じだ。


 栞は、まだ同じ場所にいる。


 そう思った時、紗月が席を立った。


 青い表紙の本を両手で持ち、カウンターへ近づいてくる。


 栞は顔を上げた。


「読み終わった?」


「うん。全部じゃないけど、思い出した」


「思い出した?」


「この感じ」


 紗月は、本の表紙を指先で撫でた。


「読んでると、胸の奥がざわざわする感じ」


 栞は、何も言えなかった。


 紗月が本を返却台に置く。


「これ、今日借りていってもいい?」


「もちろん」


 栞は貸出処理をしようとバーコードを読み取った。画面に本の情報が表示される。


 『透明な放課後』。


 十年前の自分が、紗月に渡した本。

 好きだと言えない代わりに差し出した、卑怯で、必死な一冊。


 貸出期限の日付を確認して、本を紗月に返す。


「二週間です」


「ありがとう、司書さん」


「どういたしまして」


 何でもない会話のはずだった。


 けれど、紗月は本を受け取ったまま動かなかった。


 カウンターを挟んで、二人の間に沈黙が落ちる。


 先に口を開いたのは、紗月だった。


「栞、今日、何時に終わる?」


 栞の指先が、カウンターの上で小さく止まった。


「閉館後、少し片付けがあるから……六時半くらい」


「そっか」


「どうして?」


「少し、話せないかな」


 紗月は笑わなかった。


 同窓会の時のような、懐かしさをまとった笑顔ではなかった。高校時代に冗談を言って距離を縮めてきた時の顔でもない。


 ちゃんと何かを言おうとしている顔だった。


 だから栞は、逃げられなかった。


「……うん」


 声が小さくなる。


「図書館の近くに、昔からある喫茶店があるでしょ」


「白い看板の?」


「そう。まだある?」


「あるよ。駅前の店はだいぶ変わったけど、あそこはまだ」


「じゃあ、そこで待ってる」


 紗月は、少しだけ表情を緩めた。


「仕事、がんばってね」


「うん」


 栞が答えると、紗月は本を胸に抱え、図書館の出口へ向かった。


 自動ドアが開く。夕方の光が差し込み、紗月の後ろ姿を一瞬だけ縁取った。


 その背中が外へ消えるまで、栞はずっと見ていた。


 見送ってから、ようやく息をした。


 何を話すのだろう。


 あの本のこと。

 高校時代のこと。

 同窓会で再会したこと。


 それとも、何も深い意味はないのだろうか。


 栞は、そんなふうに自分に言い聞かせようとした。

 けれど、もう無理だった。


 紗月があの本を覚えていた。

 読んで、思い出したと言った。

 そして、話したいと言った。


 十年前に閉じた本のページが、勝手にめくられていく。


 栞はそれを止めることができなかった。


     ◇


 閉館後の図書館は、昼間とは別の場所のようになる。


 利用者のいなくなった閲覧席。

 椅子を整える音。

 書架の隙間に残る静けさ。

 返却台に積まれた本の背表紙。


 栞はいつもより少し急いで片付けを済ませた。

 野村さんに「今日は用事?」と聞かれ、「少しだけ」と答えると、野村さんは深く聞かずに笑った。


「気をつけてね」


「はい。お疲れさまでした」


 職員用の出口から外へ出ると、夕方の空は群青に変わりかけていた。


 昼と夜の間。

 青が濃くなる手前の、ほんの短い時間。


 栞は駅前へ向かう道を歩いた。


 喫茶店は、図書館から徒歩五分ほどの場所にある。高校時代からそこにあった店で、当時は少し大人っぽく見えて、入るのに勇気がいった。


 紗月と二人で来たことはなかった。

 けれど、前を通ったことは何度もある。


「いつか入ってみたいね」


 紗月がそう言ったことがあった。


 その「いつか」は来ないまま、高校時代は終わった。


 店の扉を開けると、カランと鈴が鳴った。


 奥の席に、紗月がいた。

 テーブルの上には、借りたばかりの『透明な放課後』が置かれている。


 紗月は栞に気づいて、手を上げた。


「お疲れさま」


「待たせてごめん」


「全然。先に頼んじゃった」


 紗月の前には、ホットコーヒーが置かれていた。栞は紅茶を注文し、向かいの席に座る。


 しばらく、二人は何でもない話をした。


 図書館の仕事のこと。

 紗月の東京での暮らし。

 昨日の同窓会で会った人たちのこと。

 昔あった本屋がコンビニになってしまったこと。


 会話は続く。

 でも、どこか表面をなぞっているだけだった。


 紅茶が届いた。

 湯気が立つ。


 栞がカップに手を添えた時、紗月が本に視線を落とした。


「この本、さ」


 栞の手が止まる。


「うん」


「高校の時、栞がすすめてくれたよね」


「……うん」


「私、あの時のこと、ちゃんと覚えてないと思ってた」


 紗月は、ゆっくりと言葉を選ぶように話した。


「でも今日読んで、思い出した。栞がすごく真剣な顔で渡してくれたこと。私が感想をちゃんと言えなかったこと」


 栞はカップの中の紅茶を見つめた。


「別に、感想なんて。読んでくれただけでよかったから」


「本当に?」


 紗月の声は優しかった。

 でも、逃がしてくれない優しさだった。


 栞は答えられなかった。


 紗月は小さく息を吐く。


「あの時、私、分かるような分かんないような話だった、みたいなこと言ったよね」


「……よく覚えてるね」


「思い出したの」


 紗月は表紙を指先で叩いた。


「本当は、分かってたんだと思う」


 栞は顔を上げた。


 紗月は笑っていなかった。


「全部じゃないよ。高校生だったし、自分の気持ちも、栞の気持ちも、ちゃんと言葉にはできなかった。でも、何かは分かった」


「何かって」


「栞がこの本を私に渡した理由」


 胸の奥で、何かがきしむ音がした。


 やめて。


 言わないで。


 でも、言って。


 十年前からずっと聞きたかったことが、今になって目の前に差し出されている。


 栞は手を握った。

 膝の上で、爪が少し食い込む。


 紗月は続けた。


「この本の二人、ずっと親友のふりをしてるでしょ」


「……うん」


「好きって言葉を、友達の好きにして。手をつなぎたいのも、そばにいたいのも、全部仲がいいからってことにして」


 紗月の声が少し揺れた。


「読んだ時、苦しかった。だって、私たちみたいだと思ったから」


 栞は息を呑んだ。


 私たち。


 その言葉が、十年前の自分をまっすぐ指差した。


「でも、そう思ったのが怖かった」


 紗月は視線を落とす。


「栞が何か言おうとしてくれてるのかもしれないって、思った。だけど、受け取ったら戻れなくなる気がした。友達じゃいられなくなるかもしれない。周りにどう思われるかも怖かったし……何より、自分が栞をどう思ってるのか認めるのが怖かった」


 栞の喉が詰まる。


 何も知らなかったわけではなかった。


 届いていなかったわけではなかった。


 届いていた。

 少しだけでも、紗月には届いていた。


 それでも二人は、何も言えなかった。


「だから私、分かんないふりした」


 紗月は苦笑した。

 自分を責めるような、静かな笑いだった。


「ずるかったよね」


「ずるくない」


 栞の声は、思ったより強く出た。


 紗月が目を上げる。


 栞は、自分の指先を見つめたまま言った。


「ずるいのは、私だよ」


「栞?」


「あの本を渡したのは、紗月に気づいてほしかったから」


 言った瞬間、胸の奥にしまっていたものが少しだけ外へ出た。


 怖い。

 でも、もう止められない。


「でも、私の口からは言いたくなかった。気づいてほしいのに、気づかれたら怖かった。紗月が困ったら、本のせいにできると思ってた」


「本のせい?」


「この本、こういう話だったねって。私はただすすめただけだよって。そうやって逃げられるようにしてた」


 栞は笑おうとした。

 うまく笑えなかった。


「卑怯だった」


「栞」


「私は、ずっとあの時の自分が嫌いだった」


 言葉がこぼれる。


「好きって言えなかったくせに、忘れることもできなくて。告白して振られたわけでもないのに、ずっと引きずって。異性と食事に行ったこともあった。いい人だと思った人もいた。でも、どうしても好きになれなかった。そのたびに思ったの。私はまだ、あの図書室にいるんだって」


 喫茶店の中には、他にも客がいた。

 カップの触れ合う音や、低い話し声がする。


 それでも、栞には紗月しか見えていなかった。


「もう十年近く経つのに。三十歳手前なのに。実家で暮らして、仕事して、普通の顔して毎日生きてるのに。恋愛だけ、ずっと止まってる」


 言いながら、恥ずかしさで消えたくなった。


 みっともない。

 重い。

 面倒くさい。


 そう思われても仕方ないと思った。


 けれど紗月は、笑わなかった。


 目を逸らすこともしなかった。


「私も、止まってたよ」


 紗月が言った。


 栞は顔を上げる。


「東京に出たから、私はちゃんと前に進んだんだと思ってた。大学に行って、友達ができて、就職して。普通に恋愛もできるんだって思おうとした」


 紗月はコーヒーカップに触れた。

 けれど飲まなかった。


「大学の時、いい感じになった男の子がいたの。優しくて、話も合って、周りからも付き合えばいいのにって言われた。でも、最後のところでどうしても進めなかった」


 栞は黙って聞いた。


「社会人になってから、友達の紹介で付き合った人もいた。悪い人じゃなかった。むしろ、すごくいい人だったと思う。でも、手をつながれた時、違うって思った」


 紗月の声は静かだった。


「嫌だったわけじゃないの。ただ、違った。私が誰かとこうなりたいと思う時、その相手はこの人じゃないって、どこかで思ってた」


 栞の胸が、痛いほど鳴る。


 紗月は少しだけ笑った。


「私、恋愛が下手なんだと思ってた。人を好きになるのが向いてないのかなって。でも昨日、栞に会って、今日この本を読んで……違ったんだって思った」


「何が」


「終わらせてなかったんだよ」


 紗月は、まっすぐ栞を見た。


「あの頃のことを」


 栞は言葉を失った。


 自分だけではなかった。


 あの春に置いてきたものを、紗月も違う場所で抱えていた。


 地元に残った栞。

 東京へ出た紗月。


 別々の道を歩いたはずなのに、二人とも同じ場所を振り返っていた。


「私、地元に帰るつもりなんてなかったんだ」


 紗月が言う。


「同窓会も、最初は迷った。懐かしいなって思っただけで、顔を出して、少し話して、すぐ東京に戻るつもりだった」


「うん」


「でも、参加者の名前に栞があるのを見て、行こうって思った」


 栞の手が震えた。


「……私も」


「え?」


「紗月の名前があったから、行った」


 言ってしまった。


 紗月が目を見開く。

 それから、泣きそうな顔で笑った。


「そっか」


「うん」


「私たち、ほんとに遠回りしたね」


 紗月の言葉に、栞はうなずけなかった。


 遠回り。

 それで済むのだろうか。


 十年だ。

 高校を卒業して、大学へ行く人は行き、就職する人は就職し、結婚する人は結婚した。季節は何度も巡った。町の店も変わった。自分たちも大人になった。


 もう制服は着られない。

 放課後の図書室には戻れない。

 あの春に言えなかった言葉を、あの日の図書室へ返しに行くことはできない。


「でも」


 栞は俯いた。


「今さら言っても、遅いよね」


 その言葉は、ずっと栞の中にあった。


 あの時言えなかった。

 だから今さら言う資格なんてない。


 十年前に差し出せなかったものを、今になって渡そうとするなんて、虫がよすぎる。


 栞はそう思っていた。


 紗月はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり言った。


「遅いかどうかは、今の私たちが決めてもいいんじゃない?」


 栞は顔を上げる。


 紗月は、少しだけ不安そうに、それでも逃げずに栞を見ていた。


「過去は変えられないよ。私たちは、あの時言えなかった。受け取れなかった。卒業式の日も、その後も、連絡しなかった」


「うん」


「でも、だから全部なかったことにしなきゃいけないのかな」


 紗月の声が、ほんの少し震えた。


「あの頃の気持ちは、言えなかったから嘘だったの?」


 栞の胸が詰まる。


 違う。


 嘘ではなかった。


 言えなかっただけで、あの時確かに、紗月が好きだった。


 痛いくらい。

 苦しいくらい。

 自分でも持て余すくらい。


 好きだった。


「……嘘じゃない」


 栞は言った。


 紗月は小さくうなずく。


「じゃあ、今からでもいいんじゃないかな」


「何が」


「ちゃんと、言っても」


 喫茶店の窓の外は、すっかり夜になっていた。


 ガラスに映る自分の顔は、ひどく頼りない。

 高校時代の自分より、大人になったはずなのに。


 それでも、もう逃げたくなかった。


 栞は深く息を吸った。


 胸の奥に、十年前の図書室がある。

 青い表紙の本を差し出した自分がいる。

 好きだと言えず、紗月の返事を怖がって、笑ってごまかした自分がいる。


 ずっと嫌いだった。


 でも今、その子の手を取ってあげなければ、きっと一生、栞はあの春から出られない。


「私は」


 声が震えた。


 それでも、言う。


「私は、紗月が好きだった」


 紗月の目が、静かに揺れた。


 栞は言葉を続ける。


「友達としてじゃなくて。親友としてでもなくて。本当の意味で、好きだった」


 言えた。


 十年前に言えなかった言葉が、今、ようやく形になった。


 栞の目の奥が熱くなる。


「それで」


 一度言葉を切る。


 過去形だけでは、足りない。


「たぶん、今も好き」


 言った瞬間、涙がこぼれそうになった。


 でも泣かなかった。


 紗月は、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙が怖くて、栞は慌てて言い足しそうになった。

 ごめん。困らせたよね。忘れて。今のは、なかったことにして。


 十年前と同じ逃げ道が、喉元までせり上がる。


 けれど、紗月が先に言った。


「私も」


 栞は息を止めた。


「私も、栞が好きだった」


 紗月の声も震えていた。


「たぶん、あの頃から。ずっとそうだったんだと思う。でも、怖かった。栞に好きって言われたら、私はどうすればいいんだろうって。嬉しいはずなのに、怖かった」


「紗月」


「あの本を読んだ時、ほんとは分かったの。栞が、私に何かを渡そうとしてるって。でも、受け取れなかった。ごめん」


 紗月の目に、涙が浮かんでいた。


「ごめんね、栞」


 栞は首を横に振った。


「謝らないで」


「でも」


「私も、言えなかったから」


 二人とも、言えなかった。

 二人とも、受け取れなかった。

 二人とも、怖かった。


 どちらかだけが悪かったわけではない。

 ただ、あの頃の二人には、その気持ちを抱えて歩くには、あまりにも世界が狭かった。


 教室。

 友人たちの目。

 冗談のような「好き」。

 親友という安全な名前。


 そこからはみ出す勇気を、二人とも持てなかった。


 でも今は。


 紗月が言う。


「もう一回、栞と始めたい」


 栞の胸が、痛いほど熱くなる。


「親友のふりじゃなくて」


 その言葉で、栞はとうとう涙をこぼした。


 一粒だけ。

 頬を伝って落ちる。


「……いいのかな」


「何が?」


「今からでも」


「うん」


「十年も経ってるのに」


「十年経ったから、今言えたんじゃない?」


 紗月は少しだけ笑った。


 昔のような明るい笑顔ではなかった。

 大人になって、いろいろなものを通り過ぎて、それでも栞の前に残っている笑顔だった。


「私、栞とちゃんと話したい。あの頃のことも、今のことも。東京のことも、地元のことも。好きだったことも、今どうしたいかも」


「うん」


「すぐに全部決めなくていいと思う。でも、もう分からないふりはしたくない」


 栞はうなずいた。


「私も、もう本の陰に隠れたくない」


 紗月は少し笑った。


「司書なのに?」


「司書だけど」


 二人は泣き笑いのような顔で、少しだけ笑った。


 十年前にはできなかった会話だった。


 好きと言ったら終わると思っていた。

 でも、終わらなかった。


 むしろ、初めて始まった気がした。


     ◇


 店を出ると、夜の空気は冷たかった。


 駅前の灯りが、二人の影を歩道に落としている。

 喫茶店の扉が閉まる音のあと、しばらく二人は黙って並んで歩いた。


 駅へ向かう道とは反対に、栞は足を向けた。


「こっち?」


 紗月が聞く。


「少し歩いてもいい?」


「うん」


 向かった先は、高校時代によく通った帰り道だった。


 駅前から一本外れた道。

 昔は小さな文房具屋があった場所は、今は駐車場になっている。角のパン屋はまだ残っていて、閉店後の店内からほのかに甘い匂いがした。


 十年で変わったもの。

 変わらなかったもの。


 そのどちらも、夜の中に静かに並んでいる。


「懐かしいね」


 紗月が言った。


「うん」


「ここ、よく通った」


「紗月、いつもこの辺でアイス買ってた」


「あったね。冬でも買ってた」


「寒いって言いながら食べてた」


「栞が半分食べてくれたじゃん」


「あれ、押しつけられてたんだけど」


「そうだっけ?」


「そうだよ」


 何でもない会話だった。


 でも、胸が苦しくなるほど懐かしかった。


 制服を着た二人が、すぐ後ろを歩いているような気がした。

 まだ好きと言えない栞。

 気づきかけているのに笑ってごまかす紗月。


 あの二人は、もういない。


 それでも、なかったことにはならない。


 栞は歩きながら、自分の右手を意識していた。


 すぐ隣に、紗月の左手がある。

 触れそうで、触れない距離。


 高校時代、何度もこの距離を歩いた。


 手をつなぎたいと思った。

 でも、できなかった。


 肩が触れれば、偶然のふりをした。

 指先が当たりそうになれば、本を抱え直した。

 紗月がふざけて腕を組んできた時は、心臓が壊れそうだったのに、栞は「歩きにくい」と文句を言った。


 本当は、嬉しかった。


 嬉しすぎて、怖かった。


 今も怖い。


 でも、もう逃げたくない。


 栞は、少しだけ手を動かした。


 すると、同じタイミングで紗月の指先が触れた。


 ほんの一瞬。


 二人とも足を止めなかった。

 けれど、空気が変わった。


 紗月の指が、もう一度栞の手に触れる。


 今度は偶然ではなかった。


 栞は息を吸った。


 逃げない。


 そう決めて、自分から紗月の指に触れた。


 紗月の手が、少し震えた。


 栞も震えていた。


 指先が重なる。

 そっと絡む。


 それは、十年前にできなかったことだった。


 恋人のように大胆ではなく、友達のように気軽でもない。

 けれど、確かに二人は手をつないでいた。


 紗月が小さく笑う。


「手、冷たいね」


「緊張してるから」


「私も」


「紗月の手も、冷たい」


「じゃあ、お互いさまだ」


 二人は、手をつないだまま歩いた。


 誰かに見られるかもしれない。

 昔なら、それだけで怖かった。


 今も、全く怖くないわけではない。


 けれどそれ以上に、栞はこの手を離したくなかった。


 高校時代に戻ることはできない。

 高校二年のあの放課後に戻って、青い表紙の本を渡し直すこともできない。

 十年前の自分に、好きだと言いなさいと教えることもできない。


 でも、今の自分なら言える。


 あの頃の私は、間違っていたわけじゃない。

 ただ、言えなかっただけだ。


 好きだった。

 本当に、好きだった。


 そして今も、その続きを選びたい。


 紗月が隣で空を見上げた。


「ねえ、栞」


「うん」


「明日、東京に戻るんだけど」


「うん」


「また連絡してもいい?」


 栞は少しだけ笑った。


「連絡先、交換してないね」


「そうだった」


「高校の時は、毎日会えたから」


「うん」


「今は、ちゃんと交換しないとね」


 栞がスマホを取り出そうとすると、紗月が手を少しだけ強く握った。


「あとでいい」


「どうして?」


「今は、もう少しこのままがいい」


 栞の胸が、柔らかく痛んだ。


「うん」


 二人はそのまま歩いた。


 昔の通学路。

 大人になった二人。

 制服ではなく、仕事帰りの服。

 学生鞄ではなく、それぞれのバッグ。


 何もかもが違う。


 それでも、指先の温度だけが、十年前に置いてきたものを少しずつほどいていく。


 道の先に、小さな川沿いの歩道が見えた。

 高校時代、よくそこで立ち止まって話した場所だ。春には桜が咲き、梅雨には水の匂いが濃くなり、夏には虫の声がして、冬には街灯が白く冷えて見えた。


 今はまだ、春には少し早い。

 枝には何も咲いていない。


 でも、栞は思った。


 花が咲いていなくても、春は来る準備をしている。


 見えないところで、少しずつ。


「栞」


 紗月が呼んだ。


 高校時代と同じ呼び方。

 でも、その声に込められたものは、もう同じではなかった。


「好きだよ」


 栞の足が止まりかけた。


 紗月は前を向いたまま、手をつないだまま言った。


「今度は、ちゃんと言いたかった」


 栞の目の奥が熱くなる。


 言葉は、こんなに簡単な形をしていたのに。


 十年前の二人には、それがどうしても言えなかった。


 栞は紗月の手を握り返した。


「私も、好き」


 声は小さかった。

 けれど、今度は本の陰に隠れていなかった。


 紗月がこちらを向く。


 夜の街灯の下で、泣きそうな顔をして笑っていた。


「言えたね」


「うん」


「十年かかったね」


「うん」


「遅かったかな」


 栞は首を横に振った。


「遅かったかもしれない」


 紗月が少しだけ目を伏せる。


 栞は続けた。


「でも、遅すぎたとは思いたくない」


 紗月が顔を上げる。


「今からでも、始めたい」


 それは、告白というより、選択だった。


 紗月と手をつないで歩くこと。

 親友のふりをやめること。

 あの本に挟んだままの気持ちを、自分の言葉で渡すこと。


 これからどうなるかは分からない。


 紗月は東京へ戻る。

 栞は地元に残る。

 会えない日もある。

 不安になる夜もある。

 昔のように、毎日同じ教室で会えるわけではない。


 でも、もう知らないふりはしない。


 紗月は、ゆっくりうなずいた。


「私も、始めたい」


 その言葉だけで、栞の中の何かがほどけた。


 十年前、図書室で本を差し出した自分。

 感想を聞くのが怖くて、笑ってごまかした自分。

 卒業式の日、最後まで何も言えなかった自分。


 ずっと嫌いだったその子を、今なら少しだけ抱きしめてあげられる気がした。


 あなたは間違っていなかった。

 ただ、言えなかっただけ。


 でも今、言えたよ。


 栞は夜空を見上げた。


 青はもう深く、群青と呼ぶには少し暗い。

 それでも、昼と夜の間に残った色が、どこか胸の奥に残っていた。


「紗月」


「うん?」


「明日、東京に戻る前に、もう一回図書館に来る?」


「行っていいの?」


「利用者なら、誰でも歓迎です」


「またそれ」


「でも、紗月は特別」


 言ってから、栞は自分で驚いた。


 こんなことを言えるようになる日が来るとは思わなかった。


 紗月も一瞬驚いて、それから嬉しそうに笑った。


「じゃあ、特別な利用者として行きます」


「本、返しに?」


「まだ読んでないから返さない」


「じゃあ何しに?」


 紗月は、つないだ手を少しだけ持ち上げた。


「栞に会いに」


 栞は、今度は逃げなかった。


「待ってる」


 その言葉は、昨日ホテルの前で言った時よりも、ずっと確かな形をしていた。


 待ってる。


 本を探しに来る紗月を。

 東京へ戻っても連絡をくれる紗月を。

 もう一度、自分の隣へ来てくれる紗月を。


 そして、自分自身を。


 十年前の春に置いてきたままだと思っていた自分を、栞はようやく迎えに行ける気がした。


 川沿いの道を、二人はゆっくり歩いた。


 昔なら、ここで手を離していた。

 誰かに見られる前に。

 冗談で済ませられるうちに。

 関係が変わらないうちに。


 でも今夜、栞は手を離さなかった。


 紗月も離さなかった。


 あの春に戻ることはできない。

 渡せなかった好きを、十年前の紗月に届けることもできない。


 でも、あの春の続きを、今から書いてもいい。


 閉じたままだった本のページを、もう一度めくるように。


 群青色の夜の中で、栞はもう一度、紗月の指先を握り返した。

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