遅れていく。
「ちょっと待ってー少し遅れる」この言葉は君のよく言う口癖だった。時間にルーズな君と時間にうるさい僕計画性のない君にはいつもうんざりしていた。
君はいつも、少しだけ遅れてやってくる。約束の時間より五分、十分。ひどい時は三十分。それでも、待っていれば必ず君は来た。息を切らして、「ごめん!」って笑って。遅れてきたくせに、なぜかこっちが許してしまうような顔で。
「はるってさ、絶対時計より正確だよね」
ある日、君はそう言って笑った。僕は呆れて「当たり前だろ」と返したけど、君はどこか楽しそうに僕の隣を歩いていた。
「でもさ、ちょっとくらいズレてた方が楽しいよ?」
「何がだよ」
「だって、待ってる時間って、その人のこと考えるじゃん」
そう言って、君は前を向いたまま小さく笑った。あの時の僕は、その意味をちゃんと考えなかった。ただ、“また変なこと言ってるな”くらいにしか思っていなかった。
それから、放課後に一緒に帰ることが増えた。環境委員の仕事なんて大したことはなくて、花壇の水やりや掲示物の張り替えを適当に済ませて、あとはだらだらと話して過ごすだけだった。君はやっぱり時間にルーズで、集合時間にはだいたい遅れてきたけど、その分だけ一緒にいる時間が少し長く感じた。
「ねえ、今度さ、ちゃんと時間守るからデートしよ」
「“ちゃんと”って言葉、お前に似合わないな」
「ひど」
笑いながら、君は僕の腕を軽く叩いた。その約束の日、君は珍しく時間ぴったりに来た。改札の前で待つ必要もなく、僕が着いた時にはもうそこにいた。
「ほら、今日は遅れてないでしょ?」
得意げな顔で言う君に、僕は少しだけ驚いた。
「……どうした、熱でもあるのか」
「失礼すぎない?」
君はむっとした顔をして、でもすぐに笑った。その笑顔を見た瞬間、なぜか少しだけ寂しいと思った。待つ時間がないことに、違和感を覚えていた。
「……なんか調子狂うな」
「え、遅れた方がよかった?」
「そういうわけじゃないけど」
言葉にできない感情が、胸の奥に引っかかったままだった。
その日を境に、君は時々、時間通りに来るようになった。けれど完全に直ったわけじゃなくて、やっぱり少しだけ遅れる日もあった。ただ、前みたいに軽い感じじゃなくて、どこか無理をしているような遅れ方に変わっていった。
「ごめん、ちょっと遅れる」
その一言が、以前よりも重く感じるようになった。走ってきても、息の荒さがなかなか引かない。階段を上っただけで立ち止まることも増えた。
「大丈夫か?」
「全然。運動不足なだけ」
そう言って笑う君を、僕はそれ以上追及しなかった。聞いてしまえば、何かが壊れてしまう気がしたから。
ある日、環境委員の仕事が終わったあと、教室に忘れ物を取りに戻った時だった。机の上に置かれた君のカバンが目に入った。チャックが少しだけ開いていて、中に白いケースのようなものが見えた。覗くつもりなんてなかったのに、ほんの少しだけ視線が滑った。
薬だった。いくつも並んだシート。名前はよく分からなかったけど、明らかに市販のものじゃないことだけは分かった。
その時、足音がして、僕は反射的にカバンから目を逸らした。
「なにしてんの?」
振り返ると、君が立っていた。
「……いや、忘れ物取りに来ただけ」
「ふーん」
君はそれ以上何も言わずにカバンを持ち上げた。チャックを閉めるその手が、ほんの少しだけ震えていた気がした。
帰り道、僕は何度も口を開きかけて、結局何も言えなかった。聞くべきなのか、聞かない方がいいのか、その答えが出なかった。
「はる」
不意に、君が立ち止まる。
「ちゃんと伝えとかないと、ダメな気がする」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
「何を?」
「好き」
あまりにもあっさりと、君は言った。
「はるのこと、好きだよ」
心臓が、一瞬遅れて強く鳴った。僕はその言葉を受け取るのに、少し時間がかかった。
「……知ってる」
やっと出た言葉は、それだった。
「何それ」
君は笑ったけど、その目はどこか真剣で、逃げ場なんて用意されていなかった。
「じゃあさ、付き合お?」
その一言に、僕はゆっくり頷いた。
それからの時間は、穏やかで、あっという間だった。放課後に寄り道して、くだらないことで笑って、時々ケンカして、それでもまた隣に戻る。君は前よりも時間を守ろうとするようになっていた。
「ほら、今日は遅れてない」
少し誇らしげに言う君に、僕は「当たり前だろ」と返す。でも内心では、その変化が嬉しかった。
だけど同時に、どこかで分かっていた。君は無理をしている。
「ごめん、今日ちょっとしんどいかも」
そういう日が、少しずつ増えていった。それでも君は「大丈夫」と言って笑う。僕の前では、いつもの君でいようとする。
――気づけなかった。いや、気づこうとしなかった。
その日も、君から連絡が来た。
『ごめん、ちょっと遅れる』
いつもと同じ言葉。いつもと同じはずだった。改札の前で、僕はスマホを見ながら君を待っていた。
五分。十分。
「……遅いな」
十五分。二十分。
胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。それでも、まだどこかで思っていた。いつもみたいに、走ってくるんだろうって。
三十分が過ぎた頃、スマホが震えた。表示されたのは、知らない番号だった。
「――こちら、○○病院ですが」
その瞬間、時間が止まった気がした。言葉の意味を理解するまでに、やけに時間がかかった。事故。搬送。意識不明。断片的な単語だけが頭に残る。
病院に駆けつけた時、君はもう目を閉じていた。静かで、眠っているみたいで、今にも「ごめん遅れた」って起き上がりそうで。
「……遅いよ」
そう呟いた声は、自分でも驚くくらい震えていた。
君は、もう来なかった。
それからの日々は、やけに静かだった。街も、人も、何も変わらないのに、僕だけが取り残されているみたいだった。改札の前を通るたびに、足が止まる。意味なんてないのに、ついあの日の場所に立ってしまう。
――今でも思っている。
「ちょっと待ってー、少し遅れる」
そう言って、君が走ってくるんじゃないかって。
ありもしない“次”を、まだ信じている。
僕の時間は、あの日からずっと、少しずつ――遅れていく
初めて小説を書きました。どうか温かい目で閲覧していただけるとうれしいです




