第30話 招かざる者の来訪
後宮という狭い世界では、よい噂ほど速く広まるものである。逆に、悪い噂や隠そうとする意志のある情報においては、水面下でのみ広まってしまうのかもしれない。
お陰で皇太后様が姫宮に、『鈴』という幼名を付けられたという情報は、その日の内に知れ渡った。
だから、かの者がこのような出方をするのもまた、想定内だったが……いくらなんでも速すぎない? 数日、間を置くとか、考えなかったのかしら。
私は御簾越しだというのに、扇で顔を隠しながら、小さくため息を吐いた。
「弘徽殿女御様におかれましては、御子様の誕生、誠におめでとうございます」
「お祝いの言葉をありがとうございます、承香殿女御様」
思わず直々に、と言いそうになり、グッと堪えた。言い方によっては、皮肉にしか聞こえないからだ。いや、承香殿女御を見ていると、皮肉めいた言い方しかできそうにない。
「御子様の誕生は、同じ入内した身として、喜ばずにはいられませんから。後宮とは、そういう場所でしょう?」
「……えぇ、そうですわね」
暗に後宮ではない場所の懐妊宣言を非難して来るなんてね。約一年ぶりの再会だけど、承香殿女御も少しは頭を使えるようになったのかしら。それともこれを言いに来たとか。
少しだけ揺さぶりをかけてみることにした。
「私もまさか、宿下がりをしている時に、帝がわざわざいらしてくれるとは思っても見なかったのです」
「っ! そういえば、弘徽殿女御様は帝と筒井筒の仲だとか」
「えぇ。いとこ同士でもあったため、童の頃は交流がありましたの。けれど裳着を終えてからは、一度も顔を合わせていなかったんですよ」
「まぁ! そういうことでしたの。ではさそがし、話が弾んだのではないでしょうか」
何かしら、この違和感。この不気味さ。
今、この場に鈴を置かなかったのは、承香殿女御が何か仕出かすのではないか、と危惧したからだ。けれど今の承香殿女御を見ていると、鈴を傍においても、何も問題がなさそうなほど、大人しかった。
それが却って、承香殿女御という存在が、怖くて堪らなかった。
「弘徽殿女御様のところに帝が頻繁に行かれたのも、無理もありませんわ。私には、帝との接点が皆無ですから」
「そのようなことは……帝はお優しい方ですから」
「では、なぜ私のところにはいらしてくれないのでしょうか。弘徽殿女御様のところばかり……狡いですわ」
「帝が後宮にばかり時間を割けないのは、お分かりになると思いますが。それに私に対しては、今更取り繕う必要はありませんから、それでよくお渡りになるのかもしれません」
「……私では、心を休められないと、そうおっしゃるのですか?」
現に私が休められないのに、帝が休めるとでもいうのだろうか。そもそも、帝が不在であるため、どんなに努力をしても、承香殿女御の元に渡ることはあり得ない。いや、そもそも努力などしているのだろうか。
「ご自分が御子様を産んだからって、このような仕打ちは酷いです!」
「仕打ちって、私は何も酷いことは言っておりません」
「言ったではありませんか。私では、帝のお心を休めることができないと」
それはあなたの発言であって、私が言ったわけでも、言わせたわけでもないわ!
「承香殿女御様。どうなさったのですか? 以前お会いした時とは、まるで人が違うように思えましてよ」
「弘徽殿女御様がそうお感じになるのは、御子様を産んだからです。余裕がある者だからこそ、私の気持ちなど理解できないのです。もう私たちは対等な立場ではないのですから」
いつから承香殿女御と対等だったかしら、と思わず首を傾げたくなった。
そもそも私は帝を愛していないし、入内すら拒んでいた身。承香殿女御と同じ舞台にすら立っていなかったのである。とはいえ、帝の不在を知らない承香殿女御に、それを伝えたら伝えたらで、大騒ぎするだろう。
「……対等ではない、とおっしゃるのであれば、私にどのような態度を望むのですか? 先ほどから承香殿女御様は、そればかりおっしゃられる。御子の誕生を祝いに来てくださったのではありませんか?」
「も、勿論ですわ。御子様は今、帝の唯一のお子ですから。だけどこのままでは……」
「このままでは?」
「い、いえ、なんでもありませんわ」
このままでは右大臣家の力が弱まってしまう。そう言いたかったのだろう。
もしかして、皇太后様とお祖母様のお怒りを受けた右大臣から、何か言われたのだろうか。それこそ、酷い仕打ちを。だから私を悪者に仕立て上げようと……いや、この場合は、仕立て上げなければ精神が保てないほど、衰弱しているのかもしれない。
そうは見えないけれど……本当に困ったお人だこと。
「どうやら承香殿女御様は、お体の調子が悪いようにお見受けいたします。ささやかですが、五十日の祝いも予定していますので、またその折にでも、お越しくださいませ」
「ささやかなどと。それはいけませんわ」
「いいえ。いずれお生まれになる若宮様のためには、それが一番良いかと思うのです」
帝の御子でもないのに、堂々と後宮で祝うのは、さすがに気が咎める。それに、いずれ帝が戻ってくれば、本当に若宮が生まれる可能性だって否定できないのだ。
まだまだ帝は若い。私や承香殿女御以外にも、入内して来る者も出てくるはずだ。桐壺女御様は……おそらくもう戻って来るつもりはないのだろうけれど。
私が後宮に戻って来ても、桐壺に女御様の姿はないという。であれば、帝の女御は私と承香殿女御しかいない。私が生んだ御子が姫宮だと分かれば、まだ好機があるとみて、入内させるかもしれないからだ。
その望みを絶やしてはならない。他ならぬ、鈴のためにも。
「さぁ、承香殿女御様のお見送りの準備を」
「……ご配慮、ありがとうございます」
まだまだ言い足りない、とでもいうような顔をされたが、私の方はもう用はない。できることなら、これからもないことを望みながら、小侍従へとさらに指示を出した。
***
「ちょっと! これはどういうことなの?」
弘徽殿を後にした承香殿女御は、自身の殿舎に戻らず、清涼殿へと足を運んでいた。そこにいる女房に用があったからだ。
「なんのことでしょうか」
「しらばっくれないで! あの女に帝の話を振れば、動揺させることができるっていう話だったじゃない」
「……では、今度は御子様に振ればいいのです。宿下がり中に懐妊だなんて、本当に帝の子なのか、怪しいですからね」
「確かに。でも、そう何度も弘徽殿へは行けないわ。ご機嫌伺いなんて、そもそもしたくないし」
帝が不在になってから、清涼殿の警備は気薄になっていた。主がいないのに、警備するのも馬鹿馬鹿しく思ったのだろう。承香殿女御とその女房は、警備の隙をつき、このように密会をしていた。
「はぁ、相変わらずですね。弘徽殿女御様を陥れたいのであれば、多少は我慢してください」
「な、何よ。私にだけやらせようとしておいて、ちょっと図々しいわよ。あんただって、面白くないんでしょう?」
「そうですね……では、こういうのはどうでしょうか」
女房は承香殿女御の耳に口元を寄せた。ほんの僅かな間だったが、承香殿女御にとっては、満足のいく言葉を得たのか、口元が弧を描く。
「いいわ。でも私はすでに警戒されているし、お父様から問題を起こすな、と言われているの。だから結局は、おまえがやるのよ、いいわね」
「構いません。けれど私一人では無理ですので」
「分かっているわ。手助けをしてあげる。その代わり、帝に私のことをちゃんと伝えるのよ」
「勿論でございます」
そう答える女房の口元もまた、弧を描いていた。




