第29話 幼名
「おかえりなさい。それから出産も、無事に済んで良かったわ」
局は私のいる弘徽殿だったが、皇太后様は上座から私たちを眺めている。一応、挨拶だから私の方を向いているけれど、時々視線が後方へと注がれているのを感じた。
だから私も早々に、後ろで控えている乳母から姫宮を受け取った。
「ありがとうございます。長らく後宮を離れており、少々不安だったのですが、皇太后様が口添えしてくださったとのことで、とても感謝しきれません。お陰で私も姫宮も、常盤院でゆっくり過ごせました」
その感謝という意味で、私は姫宮を抱いたまま、皇太后様に近づいた。傍にいた皇太后様付きの女房は微笑むだけで、私の行動を制止しない。さらに近づくと、皇太后様が両手を差し出してくれたため、私も安心して姫宮を託すことができた。
いくら伯母と姪という関係であっても、お会いしたのは、今回と後宮に初めて来た時に挨拶した、この二回だけ。それ以外はすべて、手紙のやり取りだったため、それなりに人となりは知っているものの、やはり緊張してしまう。
今、この方の後ろ盾を失うわけにはいかないからだ。私一人ならともかく、姫宮を守るためには、絶対に。
「姫宮……確か、まだ幼名を付けていない、と文には書いてあったわね」
「はい。常盤院では姫宮で通じていましたし、後宮でも女一の宮と今後呼ばれることでしょう。そうなると、そこまでの必要を感じないのは山々なのですが……」
「千景、いえ女御。その気持ち、とても分かるわ。帝がまだ、三の宮と呼ばれた幼い頃、名を賜った時は、とても嬉しかったから」
それは帝にとっても、とても意味のある出来事なのだから、当然だろう。なにせ、親王宣言がされたのだから。
当時はお祖父様の代だが、我が左大臣家の勢力に陰りはなく、その娘である皇太后様の産んだ御子……つまり今の帝は、早々に東宮に立たれたのだ。
それは今の姫宮の立ち位置と似ている。もしも私が産んだ御子が若宮……男児であったのなら、帝と同じ道を辿っていたかもしれなかっただろう。そう考えただけで、ゾッとする思いがした。
「今は……まだ姫宮も、名を賜るほどの年齢ではないわ。裳着を済ませていないのだから。それまでは、私が幼名を付けても、帝はお怒りにならないでしょう」
良かった。姫宮の境遇を、皇太后様も危惧なさってくれている。今はまだ、帝がどう動くのか。戻ってくるのか、それともこのまま消息を断つのか分からない。
だからまだ、姫宮の内親王宣言は危険なのだ。
本来内親王宣言は、裳着の前にもされることがある。そう、時期などそもそも関係ないのだ。帝がご自分の御子だとお認めになれば、その時に宣言されるものだからだ。
このまま、内親王宣言されずに、後宮を去れる未来だってある。皇太后様が、この時ほど身内であり、味方であってくれて良かったと思うことはなかった。だから心の底から感謝の言葉が溢れ出た。
「ありがとうございます」
「あらあら、まだまだ問題は何も解決していないのよ?」
「それでも皇太后様のお言葉があれば、難癖をつけてくる者などいないでしょう」
現に、私がなかなか後宮に戻らなかったことについて、承香殿女御を黙らせた実績があるのだ。この後宮において、皇太后様の力は絶大。帝に代わり、この後宮を取り仕切っていた。
本来、皇太后様のお住まいは、別のところにある。帝が代替わりした時に、後宮を出ていた。けれど現在は帝が不在であるため、女御時代にお使いになられていた藤壺に移って来ていたのだ。
おそらく、承香殿女御が原因だろうけれど、今はそれが有り難い。この間のことで、より私に対して攻撃的になっている可能性もあったからだ。特に今は、姫宮がいる。承香殿女御にはなく、私にはあるもの。
姫宮を守るためには、どうしても皇太后様の後ろ盾が必要だった。
「どうかしら。お母様の前で狼藉を働いた者なのでしょう? 感情が高ぶれば、何を仕出かすか分からない。そう、高ぶらせる原因が今、私の手の中にいるのだから」
「……皇太后様」
抑えていたのにもかかわらず、悲痛な声が出てしまった。
「大丈夫よ。あの者には届かなくても、他の者たちは分かっている。私が姫宮の幼名を付けたのだと知ったら、手を出さないように制止してくれるかもしれないからね。また問題を起こせば……私もまた、新たな一手を下すまでよ」
どうして、そこまでしてくださるのだろう、と一瞬、浮かんではその疑問が消え去った。簡単なことだからだ。私と皇太后様が姫宮を守る理由はそれぞれ違っていたとしても、同じ船に乗る同志。
それは帝不在、という秘密ではない。同じ左大臣家の姫だからだ。実家が傾かない以上、私たちは力を保持できる、と同時に守る対象でもある。そこからすると、本来ならば、私は皇太后様に怒られても仕方がない立場にいた。けれどそうしないのは、偏に姫宮の存在だろう。
私には厳しいお言葉を投げる反面、姫宮が構って、と手を動かすたびに、皇太后様の顔はとても優しくなられるからだ。
「それにしても、本当に愛らしい子ね」
「はい。姫宮がいるだけで場が和むため、父も母も名残惜しそうにしていました」
「まぁ、左大臣が? てっきり若宮でなかったことを、悔やんでいるとばかり思っていたのに」
「そこは母も意外だと言っていました。初孫ではありませんでしたから、余計に」
実は私には同腹の兄がいる。それも私とは違い、優秀な兄が。すでに中納言の位を賜っていて、我が家の行く末は安泰だと、お父様が手放しで喜んでいるほどだ。
その兄には、すでに太郎君が生まれていたのだ。
「羨ましい限りね」
「……皇太后様も、やはり」
「いいえ。どんな子も、私たちの元に来てくれたのだから、愛しい子よ。でも……姫宮であって良かったと思っているわ。将来の選択肢が多いもの。それを考えると、ね」
「選択肢、ですか?」
「あら、まだ考えていなかった、といった顔ね」
「はい。そこまで考える余裕がなかったものですから」
だけど、皇太后様のように先を見なければ、姫宮を守ることはできない。
「これから私がつける名は、姫宮の将来がこうなってほしい、と願いを込めるもの」
こうなって、ほしい?
私が首を傾げると、皇太后様はふふふっ、と笑うだけで、それには答えてくれなかった。代わりに姫宮をあやしながら、そっと名を呼ぶ。
「ねぇ、鈴」
コロコロッと笑う姫宮にピッタリの幼名だと思った。




