第28話 姫宮
季節は巡り、再び晩夏を迎えていた。そう、惟久様と契りを結んだ季節である。あれからもう一年。
姫宮が生まれたのは初夏だったから、あっという間に感じる。それはもう、遠い過去のように。
けれど現実は思い出に浸っている場合ではなかった。秋には生まれた姫宮と共に、後宮に戻るからだ。
宿下がりが長かったせいもあるのだろう。日に日に憂鬱に感じてしまう。
それは姫宮が、本当は姫宮ではなく、ただの姫だからだろう。帝にとってはいとこの子ども、従姪にあたるため、血の繋がりはある。けれど帝の子ではない。
この子は私と惟久様との子なのに、帝の子として“宮”を付けている。その違和感が拭いきれないのだ。罪の意識が、そうさせているとは分かっているものの、どうしても感じてしまう。
「きゃきゃ」
楽しそうな声を出す姫宮に向かって、そっと手を伸ばす。すると、乳母の腕の中にいても、私が母だと分かるのか、姫宮も手を伸ばしてくれる。それがなんとも愛おしくて仕方がない。
「ふふふっ、私を元気づけてくれるのね」
「姫宮様はまだ小さいというのに、お優しくていらっしゃいますね」
そこに芹も加わると、姫宮の機嫌がさらによくなる。人見知りをしないのは、いいことだ。これから行く後宮は、もっと人の出入りが激しい。特に姫宮は、帝の唯一の御子。皆の興味が一気に注がれてしまうのだ。
そう、特に私に人一番、対抗意識を燃やしている承香殿女御ならば、尚更である。ここ常盤院で、姫宮に敵意を見せる者はいないけれど、後宮に戻れば……。
「千景様」
「あぁ、ごめんなさい。つい姫宮を見ていると、不安になってしまうものだから」
「後宮の様子も分からぬのですから、無理もありません。残っていた女房達から、祝いの文と共に、こちらも私の元に届きました。よろしければ、お目通しください」
どうやら、ここに来たのはそれが目的だったらしい。私は姫宮を乳母に預け、芹から長細い文箱を受け取った。
すると、すぐに手を離してしまったからか、姫宮が突然、ぐずり出した。
「あらあら、私を恋しがってくれるなんて、可愛らしい子」
「見た目も千景様に似ていますから、将来が楽しみです」
「それは……いいことなのかしら?」
「勿論です。姫宮様の誕生を左大臣様も北の方様も喜んでおられましたが、千景様に似て可愛らしい、とおっしゃって、よくこちらへいらしていますから」
乳母に視線を向けると、本当のことだと謂わんばかりに頷く。姫宮も、なぜかそれに合わせて「きゃきゃ」というのだから、手放し難くなってしまう。
「まるで私とお話したいみたいね」
「もう少し経たなければ、話をすることはできませんが、すでに意思の疎通を図ろうとするとは、今から将来が楽しみです」
「……そうね」
賢い子に育ってほしい、とは思う。姫宮の生い立ちが特殊なだけに、悲観に思わず、逞しく生きてほしいからだ。今は私のことを母だと求めてくれるけれど、いつかは……それまでは私の方が逞しく生きなければ。
姫宮がまた、私の顔に向かって手を伸ばす。少しだけ顔を下に向けると、私の頬をペタペタと触り出す。本人は叩いているのか、撫でているのか分からないが、そんな姿さえ愛おしい。
「後宮に戻らずに、ここで姫宮と過ごしていたいわ」
ただ姫宮のことだけを考えて、姫宮の成長を見守るだけの生活を。けれどそんなことは望めないことなど分かっている。芹に睨まれたため「ただ言ってみただけよ」と返したが、それが本音だということも、おそらく見抜かれているのだろう。
私は姫宮とひとしきり遊んだ後、乳母に預け、芹が持って来た文箱へと手を伸ばした。
***
宿下がりをしてから、ほぼ一年。実家である常盤院で懐妊宣言をしてしまったから、とはいえ、これだけ長い間、宿下がりをしている女御など、いないだろう。だから後宮では、さぞかし私の悪評が流れているのだと思っていた。
特に承香殿女御が、率先して流しているのでは? と勘繰っていたが、後宮に残してきた女房達の文を読む限り、そうではなさそうだった。
そもそも後宮では、私の悪い噂など、出回っていないそうだ。
「……どうして?」
「そちらについては、私もお答えできるかと」
「芹が?」
「はい。ご実家での懐妊宣言を受け、後宮では千景様の悪い噂が流れてしまいましたが、皇太后様がいち早く動いてくださり、口外を禁じられました」
帝が不在であることは、後宮でも一部の者しか知られていない。けれど帝が承香殿女御の元に通っていないことは、皆、知っているのだ。したがって、承香殿女御では御子の誕生など望めない。
その嫉妬から私の悪い噂、たとえばすぐに宿下がりをしたことや、帝を通わせたことなど、そのすべてをふしだらなことと言い触らしていたのだ。
まぁ、すぐに宿下がりをしたことはともかくとして、帝を通わせたことは……確かに何様だ、と憤慨されることだろう。けれど皇太后様は、逆に「帝が追いかけるほど、弘徽殿女御を寵愛している」のだと言い、「懐妊したのは、まさにその証」だと力説したという。
これは少し、いやかなり恥ずかしい。
けれど皇太后様がそうおっしゃってくださったお陰で、承香殿女御を抑えてくれたばかりか、「それを非難するということは、帝を非難することと同じと思え」と口外することを禁じたのだそうだ。
「姫宮様がお生まれになった後は、皇太后様もそれは楽しみにしているとのことです」
「有り難いことだわ。文にも、私と姫宮がいつ戻るのかと、皇太后様付きの女房達が弘徽殿にやってくるほどだと書いてあるもの。いくら身内とはいえ、ここまでしてくださったのだから、後宮に戻る時は、何か贈り物を用意しなくてはね」
「はい。左大臣様と北の方様にもお伺いを立ててみます。けれど一番は、姫宮様の顔を見せることかと思われます」
「ふふふっ、そうね」
表向きは、初孫の誕生ですもの。実際は姪の娘だけど、身内であることには変わらない。
「姫宮を見て、喜んでくださるといいのだけれど」
「そこは問題ないかと。なにせ姫宮様は、千景様によく似ておいでですから」
「……本当に、そこだけは安心できるわ」
惟久様が初めて姫宮を見た時の顔を、今でも覚えている。生まれて間もない姫宮の周りには、乳母をはじめとする女房達もたくさんいたため、お父様からはこっそり見るだけ、と釘を打たされていた。そのため、皆が寝静まった夜中に、そっと御簾を捲って、姫宮の顔を見たのだ。
『なんて美しい目をしているんだ。まだこんなに小さいというのに、千景の面差しを引き継いでいる』
私自身は、ただ可愛らしいややこという認識だけど、惟久様を筆頭に、皆が口を揃えて似ているという。これならば後宮に戻っても、誰一人として怪しく思う者はいないだろう。そう、誰も帝の御子ではない、と疑う者など。
弘徽殿に残してきた女房達の文のお陰で、私の不安は少しだけ解れた。後宮には皇太后様という強い味方がいるのだ。
姫宮のことを可愛がってくださるといいのだけれど……。
私はすぐに、皇太后様に文を書いた。もうすぐ後宮に戻ること。姫宮の情報。そして幼名だけど、名付け親になってほしい、とも。
お陰で、後宮に戻って早々、よい知らせが弘徽殿にもたらされた。
「女御様。皇太后様が参られました」
後宮に戻ってきたため、再び小侍従と名を変えた芹が、早速、心強い方の来訪を知らせてくれたのだ。




