第26話 噂と宣言
宿下がりをしてから三週間目。ここ最近は、惟久様がやってくる回数が減り、ほんの少しだけ、心細くなり始めていた。
帝の影武者をしている、ということは、普段は清涼殿にいるのだろう。政事は皇太后様やお父様に任せている、とおっしゃっていた。帝が戻ってきた時、事情を知っている近親者の方がいいという理由で。
それならば、惟久様の体は空いているのでは? と思うのだが、何もしなくても、その場にいる必要がある、というのだ。
私は自分の体が刻々と変化しているのを実感する度に、今後のことが不安で仕方がないのに、惟久様は……!
「千景、聞いておるのか?」
御簾の向こう側にいるお父様の声に、ハッとなった。そうだった。今は、その今後について、お父様と話し合っている最中なのだ。
それなのに、私ときたら……。
「申し訳ございません。少しぼーっとしてしまいました」
「ふむ。やはり早々に宿下がりをさせて正解だったな。ここならすぐに医師も呼べるし、女房たちも数多くいる。後宮にいれば、また承香殿女御が何をしてくるか、分からんからな」
「はい。そういえば、あの後どうなったのですか?」
私が常盤院に帰って来られたのは、お祖母様が来ている時に承香殿女御がやってきて、騒動を起こしたからだ。私はその混乱に乗じた、というわけである。
本来、女御は簡単に宿下がりをすることができない。帝の許可が必要だからだ。その帝が不在であるからこそ、できたことだったともいえる。
けれどその後、私は常盤院に籠りっぱなしとなり、後宮の情報すら耳に入らない状況下に置かれていた。芹が頑なに教えてくれないのが原因だった。「今は大事な身ですから」とそれ一辺倒で困ってしまう。
お陰で桐壺女御様の情報も聞けずじまいだった。
その情報収集をしていたがために、承香殿女御に付け入る隙を作ってしまったというのに。芹が苦労して手に入れた情報を聞けずにいるなんて……なんだか申し訳なくて仕方がなかった。
「お父様は、その後も内裏に出仕されているんですよね?」
「あぁ。あの時はその場にはいなかったが、私も当事者の一人といっても過言ではないからな。翌日、皇太后様から事情を聞くために内裏へ行ったというのに、わざわざ周りの者たちが私のところに来て詳しく教えてくれたよ。なにせ承香殿女御が後宮で問題を起こしたのだからな。私が出仕した時にはもう、内裏中、その話題で持ち切りだったのだよ」
やれやれ、と言うものの、お父様はどこか楽しそうだった。次の瞬間、「わっはっは」と声を出して笑い出しても不思議に感じないほどに。
「それでは承香殿女御も、随分と懲りたのではありませんか? 右大臣様とて、内裏がそれでは出仕し辛くなりますし」
「いや、逆に出仕して、毎日のように承香殿へと足を伸ばしているらしい」
「……それはまた、ご愁傷様なことで」
とはいえ、私も現在、似たような状況にあった。常盤院に帰ってからというものの、一日に一度、お父様が必ずやって来るのだ。特に惟久様が来られた日は必ず。
おそらく私が家出をしないか、確認しているのだろう。今なら、歩いて遠くへ行く体力はある。休み休み行けば、宇治くらい行けてしまうだろう。それを危惧しているのだ。
すると、意味をすばやく汲み取ったのか、お父様が睨んで来た。私は矛先を別に向けるために試案を巡らせ、結果的に再び同じ話題を口にした。
「し、しかし、噂が広がるのは、あっという間なんですね」
「そうだぞ。口さがのない連中が多い世界だからな。まぁ今回は、右大臣に常日頃からよく思っていない者たちが多かった、というだけのことだろう」
「承香殿女御を見ていると、なんとなく分かるような気がしますわ」
「おぉ、なかなか言うのう。それに、千景が言える立場とも思えぬが? 此度の件では、その場を見事に収めたと母上が絶賛してくれたお陰で、皇太后様もそれに同意。今や内裏での千景の評判は、かなり良いぞ」
「まぁ! それではお父様の株も上がったのではありませんか?」
私のお陰で、と間を空ける代わりに、扇で床を叩いた。はしたない行為ではあったが、相手がお父様なのだからいいのだ。それにこれは、むしろする場面である。
御簾で私の顔がお父様に見えないのが残念に感じた。
「それで此度の件を、帳消しにできると思っているのか!」
「怒鳴らないでくださいませ。私も……一応、反省しているのです」
「一応?」
「し、真剣に、です」
すぐに形勢逆転されて、なんだか悔しくなった。そもそも私が蒔いた種なのだが。
「おまえが帰ってきたら、うんと説教をしようと思っていたのだ」
うげっ!
「だが、長子でなくとも、おまえは一の姫だ。待ち望んだ姫の誕生だったのだよ」
「……お父様」
「だから格別に可愛かったし、大切に育てたつもりだ。それなのにおまえは……思い通りにもいかず、ある意味、今の右大臣と同じだな。頭が痛くて仕方がなかった」
「申し訳ございません。でも、承香殿女御と同じ扱いをされるのは遺憾です」
「何を言うか。お転婆な部分はそっくりではないか。方向性が違うだけで」
返す言葉もなかった。しかし、お父様が私のことを、そのように思ってくれていたとは意外だった。
待ち望んだ姫、といっても、政治の道具程度にしか考えていない、と思っていたからだ。
だけど、入内を先延ばしにしてくれていたんだから、口先だけではなかったのよね、一応は。
「そのお転婆が仕出かしたことを、そろそろ公表しても良いのではないだろうか。承香殿女御の噂のお陰で、長いこと宿下がりをしていても、誰も怪しむ者はいない。しかしこれ以上は不審がられる」
「医師は、なんと言っていましたか?」
お父様のことだ。聞いていない、とは思えなかった。
「もういつでも良いそうだ。あとは千景の気持ち次第だと言われた。どういう経緯であれ、初めてのことだから、とな」
「ありがとうございます。私の気持ちを尊重していただいて。実は今、惟……ではなく、帝の来訪の間隔が空いてきて、少々不安に思ってきたところなんです」
「……なるほどな。いつも驚かされてばかりいるのだ。今度はこちらから驚かせるのも、またいいのかもしれぬな」
「はい。ですから、お父様が時期を見計らって宣言なさってください。なにせお父様は、我が家の家長なのですから」
「何を当たり前なことを。では明日にでも、帝に報告して来る」
「お願いいたします」
そうして翌日、私の懐妊の知らせが、内裏だけでなく、後宮にも響き渡った。




