第25話 願い(惟久視点)
噂というのは簡単なものだ。ただ一言、「帝が常盤院に通っているのでは?」という憶測を、後宮は勿論のこと、内裏にまで広めてもらうようにと、皇太后様に頼んだ。
私がいくら帝の影武者をしていても、表立って姿を現すことはできない。前にお祖母様が、『背格好は似ているし、確か年齢も同じだった』と私と帝を比較していたが、女性のように扇や裾で顔を隠せるわけではないのだ。
渡廊を歩く程度なら、姿を見せても大丈夫だろうが、それでも限界がある。
さらに問題なのは、私の顔を知っている者たちの存在だ。普段は帝の間諜として、こっそり内裏に忍び込んでいるが、顔なじみの者たちもいる。たとえば、尚侍とか。
先日、帝の影武者をしていることを知らない尚侍に見つかり、どうしたのか、と問われてしまったのだ。その時は咄嗟に「千景が宿下がりしているから、私も帝の不在を疑われないようにしているだけだよ」と繕ったが、千景の懐妊を疑われずに遅らせるための行為だと、いずれバレてしまうことだろう。
それを避けるには、帝の不在を知っている者でも、帝が常盤院に通っている、という憶測を植え付ける必要があった。
不在を知らない者には清涼殿から通っている帝に扮した私の姿を見せ、知る者には不在の間、こっそり千景と会っていたのではないか、と思い起こさせれば、誰も千景の懐妊を疑わないだろう。
すると今度は、次に打つべき手段が、必然と見えてくる。そう、帝のお出ましだ。
私は皇太后様に頭を垂れた後、再びこっそりと藤壺を抜け、あるところへと向かった。
***
都を離れ、馬を走らせて数刻。宇治にある、寂れた邸に足を踏み入れた。寂れたといっても、人の出入りが少ないだけで、邸の周りは整備されている。
ここはかつて、橘家の別荘があった場所だからだ。通称、瑞霞院。時折、邸に霞がかかるため、そう名付けられたのだ。
そんな幻想的ともいえる、宇治の別荘に、今、身を置いている人物もまた、浮世離れしていた。私が瑞霞院に足を踏み入れても、その者は階に座ったまま、動こうとはしなかった。
「帝。いくらここが人目に付かない場所でも、無防備に姿を表に晒すものではありませんよ」
浅黄色の狩衣を身に纏っていても、さすがは帝。諸国を回っている私とは違い、ただ座っているだけで品がある。けれどどこか儚げに見えてしまうほどの、危うさも見られた。
「惟久か。都にいた時は、あまりうるさいことを言わなかったのに……でもまぁ、私の我が儘につき合ってもらっているんだから、これくらい我慢しないとな」
「……我が儘なのは、私の方ですよ」
「どうした? 今日はやけにしおらしいではないか」
「……千景が身籠りました」
「っ!」
私の言葉に、今まで心ここにあらずといった表情だった帝が、生気を取り戻したかのように、真剣な顔をこちらに向けてくる。
「私のために入内したことは聞いた。それがなぜ、身籠るなど……まさか、惟久。それが狙いだったのか!?」
「それは違います。千景の入内でさえ、私にとっては予想外のことだったんですから」
「では、どのような結末を望んで、桐壺女御を入内させた? あの者はずっと、苦しんでいた。入内した時からずっと」
「帝に知ってほしかったのです。他に想い人がいる者を入内させれば、苦しむことになると」
「千景の心がおまえにあったことは知っている。だから急かしはしなかった」
それが帝なりの優しさなのは分かっていた。けれど政事に待ったはない。いくら帝が遠慮した姿勢を見せても、欲に満ちた人間たちの行動は早いのだ。
だから私も急ぐ必要があった。
「帝は分かっていらっしゃらない。千景の入内は刻々と迫っておりました。常盤院に、二年間も外に出してもらえない程、切羽詰まっていたのです」
「っ! 左大臣がそのようなことを……それで、千景は惟久に助けを求めた、というわけか」
「いいえ。弱音一つ吐くことなく、耐えていました。左大臣様の目を盗んで、こっそり会いに行った時でさえ、いつものように明るく迎えてくれるだけで……」
「そうか。惟久は元服後も、そうやって会いに行っていたのだな。私は何もできず……最初から勝ち目などなかった、というわけか」
こういう時、帝に間諜にしてもらって良かったと思っている。諸国を回ることで、体力も処世術も学び、忍び込む術も会得できたのだから。
「帝が誰かに肩入れすれば、どうなるのか、も分かっていただけたかと思います」
「はぁ、承香殿女御のことか。おまえの策略とはいえ、桐壺女御を見ていると、千景と重なってな。せめて、と気にかけすぎたのがいけなかった」
「千景も入内して、しばらくしてから、やはり手を出してきましたよ」
「っ! それで千景は? 大丈夫だったのか!?」
「お祖母様が来ていましたので、皇太后様にもお力を借りて、右大臣様に抗議したようです」
「……都合よくそんなことが起こるとは思えん。お祖母様が来た時に、仕掛けるようにと、承香殿女御を唆したのか?」
さすがは帝。千景もお祖母様も疑わなかったというのに。
「えぇ、その通りです。お祖母様を通して、皇太后様に取り入り、承香殿女御様の力を削ぐつもりだと。承香殿女御様も偶然を装い、その場に混ぜてもらい、邪魔してはいかがですか? と助言させていただきました」
「あの女は危険だ。右大臣を使って大人しくさせても、意味はない。しばらくすれば、また同じことをするだろう」
「そうです。これは一時的な牽制……いえ、制裁でしょうか」
念のため、その後の様子を監視していたが、やはり懲りている様子はなかった。父親である右大臣から叱責を受けた後、お付の女房たちに当たり散らしていたからな。
「ですから、帝に頼みがあるのです。そんな身の上ではないことは分かっているのですが……千景は御子を産んだ後、再び後宮に戻らなければなりません。けれど私では、御子と千景を守ることができない。帝でなければ……」
「本当に都合の良いことだな。自分のために、桐壺女御を無理やり入内させ、私を都から追い出したというのに、今度は千景のために戻れという」
「厚かましいのは分かっています。どのような処罰も受ける覚悟にございます。ですが、御子と千景だけは、どうか!」
守っていただきたい。御子が無事に産まれるか、は左大臣様がこの状況を好機とおっしゃったのだから、そこはまず、問題がないだろう。けれどその後だ。
御子が帝の子でない以上、どのような扱いを受け、千景も見放されるのが怖かった。
都合のいい時だけ、と言われ、罵られても構わない。私にとっては、それほど大事なのだ。
「……分かった。惟久の処分については、ここ瑞霞院でゆっくりと考えよう。その代わり、条件がある」
「な、なんでしょうか」
「私が都に戻る時期だ。不在を隠している、ということだから、騒動にはならないだろう。けれどその時期を見誤りたくはない」
「それは勿論です」
「だから、千景の様子を逐一知らせてほしい」
「っ!」
な、なんで!? もしや、まだ未練があるというのか?
「何か心配しているようだが、惟久が思っていることではない。これでも桐壺女御を見ていたのだぞ。彼女はその後……里に戻ったらしいが、無事なのかも分からない。せめて、千景の様子だけでも、と思ったまでだ。後は、そうだな。おまえへの嫌がらせだ」
「……分かりました。なるべくこちらに戻るようにいたします」
こういう駆け引きはさすが帝。のほほんと見えていて、やり手なのだ。ともあれ、あとは無事に、千景が御子を産んでくれることを祈るばかりだ。
今宵はもう、常盤院には行けない。代わりに明日は、何か手土産でも持って行こう。




