第三話 パラダイム
一部未成年喫煙の描写が含まれますが、この物語はフィクションです。
鏡に映ったそいつが、俺だと理解するのにしばらく時間を要した。
黒い前髪に、赤のメッシュがいくつか入っている。後ろ髪にはインナーカラーのように赤が走っていた。
もちろん、染めた覚えはない。
(なんだこりゃ)
もともと黒目だった瞳は、カラーコンタクトを入れたように赤くなっていた。彫りの深い見慣れた顔は、シワと二重顎がなくなって若々しさを感じさせる。
高校でモテにモテまくり、人生が楽勝だと思っていたあの頃の甘えたガキのまんまだ。
俺は、挫折を知らないまま社会人になってしまった。
今ならわかる。それが失敗だったんだろう。
(しかしまさか…本当に若返るとはな)
めちゃくちゃ嬉しいはずなのに、実感が湧かない。
どうやら俺は、ガーネットの言った通りになったらしい。恐る恐る顎を撫でて、嘆息を漏らす。
「おお…」
ヒゲがない。剃るのが面倒くさくなって放置していたヒゲがなくなっている。
それだけじゃない。肩が軽い。
俺は肩をぐるぐる回しながら、ぴょんぴょん跳ねた。
なんでもできそうだった、あの頃の全能感。それが今帰ってきた。
(おっと、はは、若い体は素晴らしいな。性欲も戻ってきたのか知らないが、俺のモノがムクムクと…)
「…新しい体はいかがかな?」
「うおわあああああッッ!!!??」
思わず尻餅をついてしまった。ガーネットが、鏡の向こうのベッドに座っていた。
あ、お前どこ見て…おい、頬を赤らめるな。
「お前…いつからそこにいた」
「私は君の中にいる。私は、君が見ている幻覚だよ。現れようと思えば、いつでも」
「そういうのはプライバシーの侵害って言うんだぜ。俺はまだ何も着てないんだぞ」
「そうか。では目を瞑るとしよう」
ガーネットはそういうと、両手で目を隠した。指の隙間からチラリと赤い瞳が見える。こいつは俺のことを舐めているのだろうか。
「おい、お前見てるだろ」
「見てない」
「いや見てるだろ!!!」
「見てないったら見てない。私のことはいいから、さっさと風呂に入れ」
ガーネットは手を払った。言われなくとも入ろうと思っていたところだ。ついこの前までは風呂に入る気力すらなかったが、今は元気が溢れている。
「風呂の中に入ってくるなよ」
「おや、嫌なのかい?」
ガーネットは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
(美人と一緒に風呂…正直…嫌じゃないな。嫌じゃないな…)
「嫌に決まってるだろ。やめろよ」
俺は真顔でバスルームのドアを閉めた。
ーーー
腰にタオルを巻いて風呂から上がると、ガーネットはいなくなっていた。いやはや、面倒くさいものにとり憑かれてしまったものだ。
一人暮らしかと思っていたら同棲だった。何を言っているのか自分でもわからない。しかもその同棲相手は幻覚で、俺にしか見えないときた。
(言葉だけだと、頭がどうかしたとしか思えない状況だな)
というか、E-105番チャンバーは同棲でも家賃補助が出るのだろうか。心配だ。なんちゃって。
そんなくだらないことを考えていると、ドアの方からノックがあった。
「被験体7番、居るか」
アルファの声だった。実験の時のような刺々しさはないが、相変わらず事務的な声だ。
俺はこいつらのことを未だ信用しているわけではない。しかし俺は、ギャンブラー的思考の持ち主だ。
確かに死にそうな目に遭わされたし、実際こいつらは人殺しを敢行していたわけだが、クソみたいな俺の人生にやり直しの機会をくれた。
結果オーライというか、負けたけど楽しめたから良いよね、的な思考になってしまっている。
ここに来る前よりは間違いなくいい状況なのだ。
(話くらいは聞いてやってもいい)
「はい。います」
「出ろ」
俺はアルファに言われ、E-105番チャンバーを出た。どうやらこのアルファとかいう女が、俺に関するプロジェクトの全権を任されているらしい。
白く長い通路を通っていると、兵士や研究者たちに敬礼される。もちろん俺に対してではない。
アルファは、施設の中でもかなり上のランクに位置しているようだ。
黒い手袋を着用し、軍用コートとロングの紫髪をたなびかせて歩くアルファは、すらっとした長身でスタイルが良く、それだけでカリスマ性を感じさせる。
身長は、男の俺と張るぐらいにデカい。例えるなら、エリザベス・デビッキに似ている。
「体調はどうだ」
「えっ、あ、はい。元気っす」
アルファはどう見ても俺より歳下だが、オーラというか、風格がある。おそらく、切り抜けてきた修羅場の数が違うのだろう。
俺はこの女に興味を持った。普通ならハリウッド女優でもやっていそうな女が、なぜ軍隊に所属し、そのトップクラスにまで上り詰めているのか。
彼女がここまでの地位に至る経緯を知りたくなった。
その軽い答え合わせとも言える契機は、すぐに訪れた。
ーーー
俺は、取調室のような所に連行された。簡易的なテーブルとイスのセットが置いてある。
隣には、ガラス張りの空間があるが、中は見えない。これからの尋問内容は聞かれているのだろう。
アルファが座ったので、俺も腰掛けた。
(カツ丼とか出てこねえかな。腹が減って仕方ねえよ)
「改めて、初めましてだな。被験体7番。私はパラダイム環太平洋支部の統括マネージャー、アルファだ。よろしく」
握手を求められたので手を握った。
温かい。しなやかで、柔らかい手だ。
「貴様もいきなりここに連れてこられて、色々と疑問があるだろうが、質問は私がする。いいな」
有無を言わせず先手を取られたので、俺は頷いた。
「まず一つ目の質問だ。貴様は、赫いローブを着た存在に出会ったか?」
ガーネットのことか。どうやら、赫いローブを着ていることは共通項のようだ。
ガーネットの発言が確かなら、俺の有用性は既に担保されている。変にはりきる必要はない。聞かれたことだけに答えればいい。
「はい。出会いました」
「彼は我々についてなんと言っていた」
「人を見つけてもらう代わりに、力を貸すと言っていました」
「そうか。では次の質問だ」
彼女からの質問攻めが始まる。俺は端的に答える。主に、急激に若返った理由とか、その時のガーネットとの会話、これまでの記憶との齟齬などを聞かれた。
…
一通りの聴取が終わると、アルファは口元に手を当て逡巡したのち、ニヤリと笑った。思い通りに事が運んだようだ。
「これで聴取は以上だ。では、被験体7番。質問を三つだけ許可する」
来た。逆質問のターンだ。俺と彼女との間に、溝が残らないようにする措置だろうか。
「では、まず一つ目の質問です。ここは何の施設ですか?」
俺は冷静になって質問する。
「ここは、パラダイム環太平洋支部の第4番海上プラットフォームだ。主に我々独自の研究、開発を行うための施設だ」
その返答に満足いかなかった俺は、口を開こうとするがアルファが手で制止した。
「二つ目の質問は分かっている。パラダイムとは何なのか、だろう。貴様が知る必要はない」
質問を許可したり制止したり、忙しないやつだな。俺に自由を与えつつも、あくまで主導権は渡したくないのか。
まあ、大体の予想はつく。どこかの大国が秘密裏に有している軍事力だろうな。俺はその兵士として開発され、これからこき使われるのだろう。
「では、最後三つ目の質問をしたまえ」
おや、いつのまにか質問が三つ目になっている。まともな回答はひとつしかなかったのにな。おかしいな。
そうか。きっと俺は、まだ実験対象としてしか見られていないんだな。
まあいい。なら俺にも考えがある。最後の質問をさせてもらうとしよう。
(これはある種の賭けだが、さあ、吉と出るか凶と出るか)
…
「アルファさんは、タバコを吸われますか?」
アルファは、少し驚いたような顔をしたが、すぐに普通の仏頂面に戻った。
「嗜む程度だ」
尋問は、それで終わった。
ーーー
せっかく綺麗な肺と脳を手に入れたのだ。吸うつもりはなかった。
しかし世の中には「タバコミュニケーション」という言葉があるように、タバコを嗜んでいる時の人間は、態度が軟化する傾向がある。
俺は不動産のルート営業をしていたころ、代理店の人間とタバコで仲良くなり契約を得ていた。
だからこそ吸わなくても同行する事で、彼女との関係性を構築できるかもしれない。
…と思っていたのだが。
「吸え」
気づけば俺は、発着場の外れにある喫煙所にアルファとたむろし、アルファから火のついたタバコを渡されていた。
あれ?姐さん?ボクハ吸ワナイヨ?
「なんだ。どうした」
俺が受け取るのをためらっていると、アルファがしびれを切らしたように聞いてきた。
「俺、いま、16歳らしくて…」
アルファは、なんだそんなことか、という態度をとる。
「貴様の実年齢は36だろう。それに、赫茵茵が宿っているのであれば、タバコ程度のダメージはすぐに回復する」
なんだその屁理屈は。すごい早口だ。
「え、いや、でも」
「私の言う事が聞けないのか?」
彼女は俺にグッと詰め寄ってきた。
あ、かぐわしきヤニカスの匂いがする…。
これ絶対に「嗜む程度」じゃないな。
「い、いただきます」
俺は彼女の圧に負け、自己責任で吸うことにした。