第二話 赤血の盟主
気づけば俺は、書斎に立っていた。
沢山の本が並んでいる。書斎の窓から見える景色には、赤い月と赤い星が広がっている。
外は夜だ。赤い誘蛾灯が、赤い蛾を引き寄せている。赤い蜘蛛が、それを捕食する。
赤い蛍が、幻想的に飛び回っている。
これは…走馬灯か?
それとも死後の世界なのだろうか。
呆然としていると、目の前に座っている女性がいることに気づいた。
彼女も、こちらを見ている。
彼女は、赤いボロきれのローブを着ていた。髪は鮮血のようで、瞳は紅玉だ。まつげや眉毛まで赤い。赤というものを体現したかのような女だった。
ゾッとするほどに美しい容姿をしている。儚げな佇まいにも関わらず、荒波のような暴力的な生命力を感じさせた。
「君は…驚いたな」
彼女は、艶やかな唇を開いた。今にも消え入りそうな、しかし力強い魅力的な声だ。
「私を受け入れてなお…対話できるとはね。かつてないほど、私と血が合うようだ」
彼女は、所作の一つ一つが優雅だ。読んでいた本を閉じ、書斎の机に置いた。
「お前は誰だ?」
俺は尋ねる。
彼女は、そっと紅玉の瞳を閉じ、そして開いた。
光が差し込むと、どこまでも吸い込まれそうな瞳だ。
「私は、赤血の盟主だ。人間たちには『赫茵茵』と呼ばれている。君の好きなように呼ぶといい」
「そうか、じゃあ赤ちゃんって呼ばせてもらうぜ」
そう言うと、赤ちゃんは不満そうに顔を顰めた。
「…赤ちゃんはないだろう。センスを疑う。もっと畏敬を込めた名前で、呼びなさい」
怒られた。好きなように呼んでいいと言われたのにな。
「じゃあ、ガーネットというのはどうかな?赤いし、女性らしい」
「宝玉の名か。…いいだろう。私に相応しいものだ」
どうやら気に入ってくれたようだ。
「はじめまして、ガーネット。俺の名前はエースだ。ひとつ尋ねたいんだが、ここはどこだ?」
「ここは君の心臓の中だ。私は今、死んだ君の心臓になり変わって、血液を動かしている最中だ」
ガーネットは、何ら悪びれる様子もなく言ってみせた。
「そうか…ってことは、お前があの化け物だってことだよな」
脳裏には、あの骸骨のような脚が俺の肉に指を入れていく光景がよぎる。思い出すだけで悍ましい。
俺がそういうと、ガーネットは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「化け物とは心外だな…。私は神格だよ。そこらの怪異と一緒にしないでくれたまえ」
ガーネットは神様らしい。…神様にしては、ずいぶんと冒涜的な姿をしていたように思う。少なくとも西洋の神々ではなさそうだ。
「君が聞きたいことはわかっている。なぜ私が、君を殺したかについてだろう」
あ、俺死んだのか。じゃあここは死後の世界ってことか。いや、さっき心臓がどうこう言ってたな。
「なぜ殺したか。先に理由を言えば、君を私という神格の依代にするためだ」
ガーネットは肘をつきながら、俺を指差した。
「まず、私はとある人物を探していてね。君を拉致した人間たちに、捜査を手伝ってもらっているんだ」
アルファ率いる、あの白衣の集団か。
ガーネットは蛍をくるくるさせながら遊んでいる。
「人間たちは捜査に協力する代わりに、私の力を求めた。故に私は、自らの器となる人間を貰うことにした」
「それからは何百、何千という実験の繰り返しだ。数多もの犠牲者を出して、ようやく君に巡り会えた」
彼女はにっこりと、大切なものを見るかのような目で笑った。見惚れてしまうほど美しいはずなのに、どこか不気味な影が落ちている。
「さあ、エース。私と契約を交わして、器になれ」
「嫌だ、と言ったら?」
「君は心臓を失って死ぬ」
俺に拒否権はないってわけか。とんだ災難だ。
「悪いようにはしないさ。君の自我や記憶はそのままに残してやるし、体も若返らせてやる。ただ、少し手伝ってもらえればいい」
「その、探してる人物ってのは?」
「君が知る必要はない」
ピシャリと言われた。どうも信用できない。
本当に彼女を信じてもいいものか、判断に迷う。
…まてよ。こいつ今、若返らせてやると言ったか?
「待て、若返らせるってのはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ。君の肉体を20年若返らせる。君は実質、16歳相当の肉体になるはずだ」
俺に電流が走った。
(16歳の肉体…!?)
それって、今のこの36歳の肉体を、もう一度高校生くらいからやり直せるってことか!?
俺の中で、急激に思考が駆け巡る。
…思えば、俺の人生はずっと取り返しのつかない失敗ばかりだった。
自分を過信して進学先を失敗し、就職先を失敗し、挙げ句の果てには、何よりも大事な家族の縁を切ってしまった。
俺は、親の墓の場所を知らない。
やり直そう、やり直そうと思いながら酒とギャンブルにのめり込み続けた結果、親の死に目に立ち会えなかったのだ。
俺は今でもずっと後悔してる。
母さん。なんで俺はあの時、電話をかけなかったんだろう。
もしあの時「心を入れ替えて頑張るから、もう少しだけこの家にいさせてください」と言えていたら。
変な意地を張らずに、もう一度だけ、「助けてください」と電話していたら。
せめて、せめて、母さんの手を握るくらいはできたかもしれないのに。
俺の頬には、一筋の涙が流れていた。
泣いたのは、いつぶりだろう。
…あとはもう死ぬだけだと思っていた俺の人生。
それを、今、やり直せるチャンスがある。
(ガーネットのことは全く信用できない)
だが、ほんの少しでも可能性があるなら。ほんの少しでも、このクソみたいな人生にやり直しが効くのなら、このチャンスに飛びつかない手はなかった。
「いいぜ。この体、お前にくれてやる」
ガーネットは、その陶器のような肌をニタリと歪ませながら、笑った。
「契約成立だ」
ーーー
「ゲホッ、ゲホッゲホッ」
口から血の塊を吐き出しながら、俺は目を醒ました。
ひどい眩暈がする。取引先の接待で無理やり飲まされまくった後の二日酔いみたいだ。頭が痛い。
あたりが眩しい。目眩もあるが、どうやらまだ照明に照らされているようだ。
拘束ロープは、いつのまにか弛んで外れていた。
一体何が起こったんだ?
俺は自分の腕を見て、違和感に気づいた。
いつも見ているものより、肌が若々しい。
36歳の中年男性とは思えないくらいにツヤがある。
続いて、肺に入って来る空気の量に驚いた。
普段タバコばかり吸っていた俺の肺とは思えないくらいに、よく空気を取り込んでくれる。
(うあ…なんかすげえ気持ちいい)
新鮮な空気を吸って、頭が冴えてきた。
どうやら俺は、戻ってきたようだ。
泣き腫らしたあとのような清涼感があった。
白衣を着た研究者たちが、俺を見て唖然とした顔を浮かべていた。
しばらく、気まずい沈黙が流れた。
「あ、どうも」
沈黙に耐えきれず、俺が挨拶をした。
おかしい。声が若すぎる。
酒とタバコにやられた俺の喉は、初心者の吹くフルートのような掠れた声しか発さないはずだったが、今の俺の声はよく通る。
「つ、ついに成功、したのか……」
アルファの愕然としたような声が響く。周りにいる人たちが皆、俺を見ていた。
俺はタンカに載せられたまま、急いで運ばれた。
重要人物扱いされるのは気分がいい。
ふと、血を流して動かなくなった女性が目に入った。
彼女は、19番と書かれたタンカに乗っていた。
俺は、一人生き残ったことの罪悪感を覚えながら、廃工場を後にした。
ーーー
廃工場を出ると、俺は米軍の輸送ヘリのようなものに載せられた。
航空するヘリから空を見ると、ちょうど日の出だった。
俺は大洋に溶ける日を見ながら、アルファから渡されたサンドイッチをむしゃむしゃと食べていた。うまい。
血を流しすぎた。体が鉄分を欲しているのがわかる。
ヘリはやがて、洋上プラントのような施設についた。
そこは、まさしくノルウェーの海上にあるとかいう洋上リグのようなプラントだった。
海の上に、広いコンクリート製の土地がある。ヘリや戦闘機のようなものが複数停まっているのが見える。空母みたいなのもあるな。かなり大規模だ。
なんらかの光学迷彩が施されているのか、ヘリが発着場に着くまでは、これだけ広大なプラントが、霧のようにぼやけて認識できなかった。
アルファは俺のタンカをヘリから降ろさせた。
「被験体7番はE-105番チャンバーに収容しておけ。私の指示があるまでは出すな。いいな」
「承知しました」
白衣たちと兵士が敬礼をし、俺のタンカを運んでいく。
俺は、E-105番チャンバーという名の自室があてがわれた。清潔に整えられた白い部屋には、ベッドとエアコン、トイレバスルーム、キッチンがあった。
(めちゃくちゃ綺麗な部屋だな)
広さは10畳ほどだろうか。一人暮らしにしてはかなり広めだ。俺が実家を叩き出されてニート生活をしてた頃は、家賃2.5万円、広さは4畳の風呂無しボロアパートに住んでいた。
それに比べれば重畳も重畳、むしろ俺のような人間がこんな好待遇を受けていいのか不安になるくらいだ。
俺は、ひとまず血で汚れた体を洗おうとして、シャワールームに入った。着る服は用意してくれてある。
そして、鏡を見た。
そこには、見違えて若くなった俺がいた。