水に見えるのは
この屋敷の庭には、古い石造りの噴水がある。昼は陽の光を反射して煌めき、夜は星の揺らぎを映す。けれども、この水面には、ある一つの姿が繰り返し浮かぶ。小さな手が、水面を掴もうと空を切り、白いドレスが水を含んで重く揺れる。叫び声はない。だが、見る者の耳には、水音に混じって助けを乞うような息遣いが聞こえる。
かつて、そこに一人の少女の笑い声が響いていた。侯爵家の前妻の娘、名前はクラリス。十歳になったばかりの、聡明で控えめな子だった。継母に連れられて来た義理の妹アデルとは、歳も近かったが、決して仲良くはなれなかった。継母はクラリスに冷たく、召使いたちもそれに倣った。
事件が起きたのは、夏の終わりだった。
クラリスは水が揺らぐのをみるのが好きだった。噴水池は底に絵を描いたタイルが敷き詰められ、水が揺らぐと絵が動くように見える。
クラリスは池の縁に身を乗り出しそれを眺めていた。そこに義妹のアデルがやって来た。
アデルはいきなりクラリスの背中を押した。するとクラリスは頭から水に落ちた。
池は浅い。浅いが落とされた拍子にクラリスは水を飲んでしまった。立ちあがろうとして足が滑った。
ドレスが水を吸って重くなった。
アデルはクラリスがふざけているのだと、手を打って囃し立てた。
侍女は
「クラリス様、しっかり」と笑いながら声をかけた。
賑やかな声に何事かと庭師がやって来たが、ただ見ていた。
クラリスが静かになるのを見ていた。
「え?溺れた?」
その一言だけが、使用人の口から漏れた。
その日を境に、噴水の水面に少女の姿が浮かぶようになった。
水ならどこでも・・・ある時は食卓の水差しに。水を入れたコップに。花に水をやろうとした桶に。
最初、屋敷の主人はコップを投げ出した。
入浴しようとしたアデルは悲鳴をあげ侍女を怒鳴りつけた。
下女は掃除のバケツを蹴り飛ばした。
だが、見えるだけ。それも一瞬。人々はそれに慣れた。
見えても、見えないふりをする。クラリスが一瞬、姿を見せた鍋を火にかけて、スープを作る。桶に服を投げ込み洗濯をする。花に水をやる。クラリスは、屋敷の日常の中の、ただの風景になった。
年月が流れ、アデルは成長し、結婚して屋敷を出た。夫は辺境の伯爵で、領地は冷たい風が吹いていた。
伯爵はアデルに優しく、二人の間に生まれた娘、セリーヌを可愛がった。そしてアデルが二人目を宿した時、伯爵は噴水をプレゼントした。
「君の実家の噴水に惹きつけられていた。君も好きだよね。よく部屋から眺めていただろう。いつかプレゼントしたいと思っていたんだ」
アデルは真っ青になった。
「おや、大丈夫か?大変だ」と言うなり伯爵はアデルを抱きあげてベッドに運び医者がやって来た。
やがて、アデルは女の子を生んだ。
セリーヌは噴水が好きだった。水の滴がキラキラ光るのを、見ていた。水をつかもうと手を高く上げて笑い声を立てた。
その日、赤ん坊が熱を出した。アデルも伯爵もつきっきりになった。
セリーヌは侍女にせがんで、噴水を見に行った。
侍女は「え?」と声を出した。白いドレスの女の子が白いドレスの子を噴水に落とした。
慌てて噴水を覗きに行ったが誰もいなかった。侍女はドキドキする胸を抑えた。
侍女はセリーヌの手を引いて噴水から離れた。セリーヌは嫌がって泣いたが侍女は聞かなかった。
侍女はセリーヌつきから外された。
そしてセリーヌは噴水の池で見つけられた。
その日を境に、この屋敷の水面にも、溺れる子供の姿が映るようになった。
ただ、実家で見ていたのとは違っていた。
白いドレスの少女がセリーヌの手を引いて噴水に近寄るのだ。そしてセリーヌが水の中でもがき、力尽きるのだ。
なんてことだ。と伯爵が呟く。彼は何も言わなかったがアデルは実家に戻された。
そこから、実家の時間が流れ始めた。噂も流れ込んできた。
あの時の侍女は望まれて嫁いで行ったが、跡取りの男の子が溺れて死んだ。
橋から落ちたのだ。白いドレスの女が背を押したと噂になった。
一人、また一人。まるで水に呼ばれるようにして、姿を消す。そして、噴水や池の底に浮かぶ影として現れる。誰が何をしたわけでもなかった。ただ、彼らは遊びの最中、水辺に引き寄せられるようにして、消えていった。
水に気をつけようとお互いに注意しあった。
水の中に何かがいる、と言った子供がいる。手を引かれた子も。だけど大人は気にしなかった。
白いドレスの女の子の夢を見た子には、いつかそんなドレスを作りましょと笑顔で返事が返ってきた。
全部ただの事故、偶然のこと。よくあること。そうでなければいけないのよ!
見えるものは、誰の罪かを問わない。ただ、見せるだけ。
そして今日もまた、ひとりの子供が、噴水の縁に腰を下ろして、水面を覗き込んでいる。
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