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第3話 就職



「まず、お仕事の説明をしますね」

「はい」


 俺は早速、リセルから説明を受けることになった。


「朝は四時に起きて、四時半から仕込みを始めます。粉の計量や酵母の調整、前日に仕込んだ生地の発酵状態を見て、五時半頃から成形作業に入ります。成形して二次発酵を取った後、七時頃から順次焼き上げですね。七時半には陳列を始めて、八時の開店を迎えます」


 リセルはスラスラと話を続ける。


「営業中は、混み合う朝の時間帯を過ぎれば比較的落ち着きますが、焼き上げと補充は随時行います。お店は夕方四時に閉店して、その後は掃除や道具の手入れ、翌日の軽い仕込みなど。だいたい五時くらいには終わりますが、忙しい日にはもう少しかかることもあります」

「なるほど」

「それと、接客は笑顔でお願いしますね!」


 笑顔なんてものに自信は無いが、俺はとりあえず了承しておいた。


「以上になりますが、大丈夫そうですか? あ。それと敬語じゃなくていいですよ。ハルさんの方が年上でしょうし」

「はい……じゃなくて、あぁ。問題はなさそうだ。ただやはり、パン作りの経験はない。そこが一番大変になると思うが」

「あー……」


 リセルは気まずそうな表情を浮かべる。快活に説明をしていた先ほどとは異なり、言葉を詰まらせていた。


「その……既に感じてると思いますが、お父さんってすごい厳しくて。もちろん、なんの理由もなしに怒る人じゃないですよ? でもパン作りには誰よりも情熱がある人で。実は今までの人も辞めることが多くて……でも、人手は足りないし。それで応募して来てくれたのが、ハルさんだったんです」

「なるほど。そう言うことだったのか」

「きっと厳しいことも言われると思います。大丈夫そうですか……?」


 心配そうに俺のことを見つめてくるが、そんなことは全く問題はない。大将がちゃんと情熱を持っている人なのは、先ほどの会話で分かったしな。


「冒険者をしていたこともあって、メンタルは強い方だと思う。きっと大丈夫だ」

「そうですか。もし、何か困ったことがあったら言ってくださいね?」

「あぁ。改めて、よろしく頼むよ。リセル」

「はい! こちらこそ、よろしくお願いします。ハルさん!」



 その後。俺は大将が持っているという空き家に案内してもらった。パン屋の裏手、石垣沿いの細い通路を抜けた先に、それはあった。蔦に少しだけ覆われた、木造の小さな一軒家──というより、掘っ立て小屋の名残のような建物だった。


 床には薄い羊毛敷きのラグが一枚、窓の下には小さな机と椅子。その横に、手入れされた鉄製のストーブが鎮座している。


「お父さんがたまに使っていた場所なんですが、自由に使ってください」

「屋根があるだけで十分だ。ありがとう」

「はい。では、また明日。よろしくお願いしますね」

「あぁ」


 意外とあっさりと事が進んだな。やはり行動することは大切だ。俺は改めてそう思った。


「寝るか。朝も早いだろうし」


 俺はそのまますぐに就寝した。ベッドで横になって眠ることができる。その当たり前のことがどれだけ幸せなことか。俺はそんな些細な幸福を噛み締めながら、眠りに落ちていく。



 早朝。俺は四時に起床した。時計の針の音だけが室内に響いている。久しぶりにゆっくりと寝ることができた気がする。〈アビスサンクタム〉内では寝ている時でさえ、一瞬の油断もできなかったからな。


 そして、俺はすぐにパン屋へと出勤をする。



「おはようございます!」


 俺は意識して大きめの声を出して挨拶をすると、リセルが出迎えてくれる。


「おはようございます。ハルさん。準備はいいですか?」

「あぁ。もちろん」

「では、こちらへ。お父さんが待っていますので」

「あぁ」


 彼女に案内されて俺は奥へと進んでいく。


 厨房の扉を開けた瞬間、空気が変わった。外の冷たい朝とは違う、熱と粉と酵母の香りが混ざった空間。


 天井は低く、壁は石と木で作られている。棚には小麦粉の袋。干したハーブ。さまざまな壺などが整然と並ぶその様子は、まるで魔法使いの研究室のようにも見える。


 中央には大きな調理台。その上にはすでに捏ねられた生地がいくつも並び、布をかけてられている。


「おう。来たか」

「大将。おはようございます」

「ハル。お前には俺のパン作りを一から教える。しっかりとついて来いよ? ここはもはや戦場。気を抜くんじゃねぇぞ」

「はい!」


 俺は大将にパン作りの基礎から教えてもらうことになったが、話に聞いた通り厳しい指導が入る。


「力が強い! もっと優しくこねろ!」

「分量の確認はしたか? 1グラムのズレも許さないからな!」

「おい! 作業が遅い! もっと早くしろ!」

「──はい!!」


 俺は懸命にくらいついていく。大将の言うとおり、ここはまさに戦場。常に時間との勝負で俺に教えがらも、大将は自分の分もパンを作っていた。リセルもまた、淡々と作業を進めている。


 俺といえば、初めてと言うこともあって作業が遅い。くそ……! 流石に初めから上手くはいかないか!


「よし。朝の基礎工程はこれで終わりだ。あとは焼きに入る。休憩していいぞ、ハル」

「もしよければ、焼く工程も見てもいいでしょうか?」

「ふん。好きにしろ」


 大将は黙ったまま生地の膨らみ具合に目を落とし、焼き石の上にそっとパンを並べていく。無骨な手つき。だが、その動きには一切の無駄がなかった。


 表面の張りを確認する指先。均等に並べられる間隔。火の強さを見極める目──これが職人か、と俺は感嘆する。


 大将は窯の前に膝をつき、目線を合わせるようにじっと焼き具合を見つめた。その顔に、わずかに汗がにじむ。けれど、それを拭おうともしない。


「よし。リセル並べるぞ」

「うん! あ。ハルさんは見ていてくださいね」

「あぁ」


 焼き上がったパンをカウンターへと運んでいき、慣れた手つきでリセルはパンを並べていく。なるほど。これがパン屋の一日の始まりということか。


「ということで、朝はこんな感じです。一番忙しい時間ですね。あとは接客をして、という流れになります。大丈夫そうですか?」

「問題はない」

「そうですか。でも、少し驚きました」

「ん? 何がだ?」

「お父さん。あんまり怒らなかったので」

「え?」


 いや、結構厳しく言われたと思うけどな……そう思っていると、大将がふんと鼻を鳴らした。


「俺は別に無意味に叱りたいわけじゃない。ただこいつは、筋がいい。元冒険者ってこともあるのか、根性もあるようだ。俺は人を見る目には自信がある。本気かどうかはすぐ分かった」


 仕事を覚えるのに無我夢中だったので、俺はそこまで見られていることに気が付かなかった。


「じゃ、リセル。あとは頼んだぞ。俺は追加の焼き上げをしてから、研究に入る」

「全く、素直じゃないんだから……」


 大将は厨房へと戻っていき、リセルと言えば肩を軽くすくめていた。


「でも、私から見てもハルさんはセンスあると思いますよ。一度言われたことはちゃんと修正できるし、立ち仕事で大変なんですが全然元気そうですし」

「はは。まぁ、体力だけは取り柄かもな」



 夕方になった。無事に今日の仕事は終了し、俺も業務内容はしっかりと頭に叩き込むことができた。


 接客はまだぎこちないし、俺の今の風貌もあって驚かれたりもしたが、おおよそ自分でも最低限の仕事はできたと思う。


 俺は新しい人生を進み始めた。パン屋としての自分というのは、存外悪くはなかった。大将もリセルもとても良い人で、労働環境に不満もない。


 これからは〈パン屋のハル〉として生きていこう。改めてそう思った。



「ハルさん。もしよければ、うちでご飯も食べていきませんか? シチューがたくさん残っているので」

「いいのか?」

「はい! ハルさん、初日なのにとっても頑張ってくれましたから!」


 俺はリセルの提案を了承した。


 大将は寡黙で黙々とシチューとパンを食べていた。リセルはニコニコと笑いならが、俺に話しかけてくれる。


「実はうちのお店、すごい有名な人もたまに来るんですよ。お父さんのパンはそれだけ美味しいんです!」

「よせ。別に客は誰であっても同じだ」

「おぉ。流石は大将ですね。実際に、ここのパンは本当に美味しいです。今までこんなパンは食べたことがありません」

「ふん。当然だ」


 大将は自分のパン作りに自信があるようだが、それも頷ける美味さだった。有名人が通っていても、不思議ではないくらいに。


 ただ、その《《有名な人》》というのが誰なのか。俺は特に気にしていなかったが、思いがけない再会が待っているとは──まだ知るよしもない。

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