第2話 五年の歳月
「これは──どういうことなんだ?」
理解できない。どうして俺が指名手配をされ、大罪人扱いされているんだ……? 国からの依頼で俺たちはあの世界最悪のダンジョンに挑んだというのに。
帰って来れて嬉しかった。
〈アビスサンクタム〉で生きる気力を保っていたのは、いつかきっと帰ってきてみんなとまた再会できると信じていたからだ。
でも、待っていたのはこの仕打ち。分からない。何者かが俺を陥れるために、俺たちのパーティにあのダンジョンに挑むように促したのか? いやもしかして、パーティメンバーが俺のことを騙していたのか?
その背後にある真実は、俺には分からない。
でも……疲れた。もう俺は疲れ果ててしまった。長い髪はあまりのストレスで完全に真っ白になってしまっている。もう……真実を追いかける気力もない。
あぁ──そうか。この時、はっきりと認識した。今まであの史上最悪の迷宮でも保っていた何かが──ポッキリと折れてしまった。
そこから先、俺はどうしていたのか覚えていない。ただフラフラと彷徨うようにして、歩みを進めていた。
不幸中の幸いなのか、俺はこの五年で容姿が変貌した。声もさらに低くなってしまった。
今の俺が、〈勇者ハルト〉なんて思う人間はいないだろう。それこそ、かつての仲間ですら気がつかないほど。
もうこの世界に、俺の居場所なんてどこにも残っていなかった。
気がつけば、王都の裏路地に俺は立っていた。石造りの建物が立ち並ぶその影に、ほとんど人通りはなかった。だが、ふとした拍子に俺の視界に一枚の紙が映る。
〈パン職人見習い・急募〉
古びた掲示板に、何枚かの求人情報が無造作に重ねられている。その中の一枚だけが、不思議と目を引いた。
〈勤務地:ローテン 店名:バランジェ・ローテン〉
〈住み込み可・経験不問・パン好き歓迎〉
周囲に貼られた、冒険者ギルドの傭兵募集や配膳仕事とは異なり、その求人だけは奇妙なほど目を引いた。羊皮紙には、小さく焼きたてのパンのイラスト──ふっくらとした丸パンと湯気の線が描かれている。
乾パンの味がふと、思い出される。
あの旅の、空腹を笑い合っていた時間を。そして、自分があのダンジョンで生きるための希望になっていたことを。
そのささやかな記憶だけが、今の俺に残された確かなものだった。
「……ローテン、か」
俺は求人票をゆっくりと剥がした。逃げるように、でもどこか導かれるように俺は歩みを進めていく。
「なぁ、最近の魔物の被害知ってるか?」
「確か近くでネームドが出たんでしょう?」
「あぁ。〈災牙獣・オルグ〉とギルドは命名したらしい。高位の冒険者たちも返り討ちにあってるらしいぜ」
「……もしかして、王都も平和なままじゃないのかしら」
そんな話が聞こえてきた気がしたが、俺は気にせずローテンへと向かう。
馬車に乗る金も無いので、俺は歩いてローテンへと向かった。王都から北の丘陵地帯を越えた先にある小さな町だ。
馬車で一時間ほどかかる場所で、歩くと五、六時間はかかるだろうか。俺は無心で歩みを進めていく。その先に自分の未来があると信じて。この求人だけが最後の俺の支えだった。
近道をするために森の中を進んでいくが、俺はそこで巨大な魔物の気配を感じた。
『──グゥウウウウウウウ……』
その魔物は低い唸り声を上げ、俺のことをじっと睨みつけてくる。あぁ。さっき噂になっていた、ネームドか。
全長五メートルを超える漆黒の獣。背中に棘状の瘴気骨を持ち、咆哮ひとつで周囲の魔物を狂乱状態にする特性を持っている。こいつは〈アビスサンクタム〉にもいた魔物。ダンジョン外ではSランクの魔物だろうが、〈アビスサンクタム〉の中では弱い方の魔物である。
俺は魔法を展開。眼前へと迫っていた〈災牙獣・オルグ〉に向かって手を差し出した。刹那。真っ白な光が相手を貫いて、オルグはそのままドロップアイテムだけ残して消失した。
「……行こう」
俺は倒した魔物に目もくれず、歩みを進めていく。
「ここが……」
俺はローテンに到着した。石畳の通りには人々の穏やかな声と、パンを焼く香ばしい香りが漂う。
中央の広場には時計塔代わりの鐘楼があり、澄んだ鐘の音を響かせる。屋根は赤茶の瓦が多く、ところどころ苔に覆われた木造の建物が並ぶ街並みは、時間の流れすらゆったりと感じさせた。
あぁ。悪くない。この穏やかさは自分の心を癒してくれる気がした。
そして俺が向かうのは──〈パランジェ・ローテン〉というパン屋だった。ローテンの中心通りから一本外れた、小さな石畳の路地。その先に、古びた木造の二階建ての建物が佇んでいる。
「ここだな」
俺はドアを開けて店内に入る。小さな鈴が「チリリ」と優しく鳴って、女性の店員が笑顔で声をかけてくる。淡い栗色の髪を顎下のラインで切り揃えている少女で、歳は俺よりも少し下のように見える。
「いらっしゃいませ!」
棚には、焼きたてのパンが静かに並べられていた。丸パン、スティック状の香草パン、ベリーを練り込んだ菓子パン、食パン。見ただけでそれは、美味いと確信できる良い香りがしていた。
「すみません。実はこれを見てきたのですが」
俺は求人の紙を取り出してそれを彼女に見せる。すると目を大きく見開いて、驚きを示す。
「少々お待ちください!」
そう言って彼女は店の奥の方へと消えていった。その際「お父さーん!」という彼女の声が微かに聞こえた。なるほど。家族で店をしているのか。
そして、現れたのは一人の男性。年齢は、五十手前だろうか。背はあまり高くないが肩幅が広く、無駄のない体つき。顔には火の粉で焼けたような痕がひとつ、左の頬に残っている。目つきは鋭く、俺のことを値踏みするような視線を送ってくる。
「ほぅ……ここで働きたいのか? お前」
「はい」
「奥に来い。面接をしてやる」
「はい。よろしくお願いします」
俺は店内の奥へと案内されていく。そこには小さな木製のテーブルと椅子が置かれた部屋があった。壁際には小さな窓。その外には干された麻袋や麦束が見える。
「座っていいぞ」
「失礼します」
特段、緊張はしていなかった。ただもう……なるようになるしか無いと思っていたからだ。
「先に言っておくが、うちの店は厳しいぞ。最近も一人逃げてな。だから求人を募集していたんだ」
「もう……お父さんってば、もう少し優しくできないの?」
「ふん。パン作りは甘いもんじゃねぇんだ」
「……」
俺は二人のやり取りをただじっと見ていた。
「俺はバラン。こっちは娘のリセル」
「自分は──」
正直にハルトと言うことは出来なかっ。〈勇者ハルト〉はもう死んだ。俺はここから先、勇者ではない道を進む。そうだな。あまり絶望していても仕方がない。俺は新しい人生を進む。
だからもう、過去のことは忘れよう。前を向いて進んでいこう。いまの俺は〈勇者ハルト〉ではない。俺は──
「ハルです」
「ハルか。それで志望理由は?」
「……自分は冒険者をしていました。ただ……疲れました。何もかも全てに疲れ果ててしまった。この先の人生をどうすべきか。そう考えた時、ここの求人を見ました。冒険者としてダンジョンに潜る時、自分は乾パンを常に携帯していました。パンは自分にとって生きる為に欠かせないものでした。だからこそ──次の道を選ぶのなら、パンに関わる仕事がいいかなと……そう、思いました」
その言葉は自然と出てきたものだった。
自分の素性を隠していることに微かな後ろめたさはあったが、それは素直な気持ちだった。
「ほぅ……体力に自信はあるか?」
「はい」
「俺の教えは厳しい。ついて来れるか?」
「はい」
「分かった。ハル。お前を雇うことにする。住み込みの件などはリセルから話を聞け。明日は朝四時半前には起きてここに来い。いいな」
「分かりました。バランさん」
「俺のことは大将と呼べ」
「はい。大将」
バランさん、ではなく大将との話はそこで終わった。それから彼の娘であるリセルと目が合う。
「ハルさんは元冒険者なんですね! 体力もありそうですし、とても頼りになりそうです。これからよろしくお願いしますね!」
彼女が握手を求めてくるので、俺もまたそれに応じる。そのあまりにも純粋な笑顔を見て、俺はどこか救われるような気がした。
こうして、俺の第二の人生が──幕を開けた。