第12話 初めての夜
その部屋には、窓が一つもなかった。照明すら明滅しがちな魔導灯のみ。全体を淡く照らすその光は、空気に濁った影を落としている。
中央には長い黒曜石のテーブル。座る椅子は一脚のみ。その椅子には、とある青年が指先だけを組んで静かに座していた。
「やあ、戻ってきたか。ゼファル」
「はい。ご命令の通り、対象の周囲を探ってみましたが、特に得られたものはありませんね」
青年の白金の髪は肩で揺れ、髪の間から覗く瞳は琥珀に近い薄金。
身に纏うのは深紅のロングコート。襟や袖には黄金の刺繍が緻密に施されている。
「ふぅん。最近は不審な動きが多いと思ったけど、杞憂だったかな」
「ただ……男と女の二人組に会いましたね。多分、関係はないと思いますが」
「──それを判断するのはこの僕だ。早く伝えろ」
「は、はい……っ!」
青年は鋭い視線をゼファルへと向ける。その何も映さない深淵の瞳にゼファルは震え上がる。そして、ゼファルはハルとリセルの情報を伝える。もっとも名前などは知らないので、外見だけの情報にはなるが。
「ふぅん。若い女に白髪の男、ね」
「はい。自分が本気を出せば──簡単に消すことはできますが。いかがいたしましょう」
「しばらく泳がせてみよう。それに、僕が蒔いた種は着実に広がっているしね。後で邪魔だと判断すれば、消してもらうよ」
「はっ……! 何なりとお申し付けください──ライゼル《《王子》》」
†
「あ。えっとその……シャワーどうしますか?」
「リセルが先でいい」
「わ、わかりました……」
大将からは二部屋分のお金をもらっていたのだが、まさかこんな展開になるとは……冒険者だった時の経験から、別に同じ場所で女性と泊まりになるのは慣れている。ダンジョン内では寝泊まりとかするしな。しかし、宿での一室というのは流石に初めてだった。
俺も流石に緊張するというか、意識しないわけにはいかない。しかし、ここで何かするつもりなど毛頭ない。大将に顔向けできないし、リセルも怖がっているかもしれないからな。俺は部屋の隅の床で寝ることにしよう。
しばらく待っているとリセルがシャワーから出てきた。髪はまだ濡れていて、水滴が首筋を伝って鎖骨のあたりへと落ちていく。蒸気を纏った白い肌はほんのり桜色に染まっていた。
「ハルさん。お次どうぞ……」
「あぁ」
俺も手早くシャワーを浴びて出てくると、ベッドでちょこんと座っているリセルの姿が目に入る。リセルは緊張している様子で、視線が泳いでいた。
「リセル」
「は、はひ……!」
「俺は床で寝る。ベッドは好きに使ってくれ」
「え!?」
「俺は元冒険者だ。地面で寝ることなんて日常だったし、屋根と床があるだけで十分すぎるほどだ」
「で、でも……」
リセルはしゅんと顔を俯かせる。年頃の女性と一緒のベッドで寝るのは流石にまずいと俺も分かっているし、言った通り床で寝るのは慣れている。それこそ、〈アビスサンクタム〉の五年間ではベッドで寝るなんてなかったしな。
「──だ、ダメです……」
床で横になろうとした時、リセルが袖をぎゅっと掴んでくる。
「ハルさんが床で寝るなんて、ダメです! 今日は助けてもらいましたし、恩人にそんなことはさせられません!」
「だが──」
「私は一緒に寝ても大丈夫です。で、でも変なことはしちゃダメですからね? 私その……まだ経験とかないですし……お作法とか分からないですし……」
「……」
なんか余計な情報を耳にした気もしたが、それは忘れることにしよう……。
それにしても、うーむ。どうしたものか。ただ、リセルとしても俺が床で寝るのは気分のいいものではないか。まぁ、リセルがそういうのなら一緒のベッドで寝ることにするか。俺が変な気を起こさなければいい話だしな。
「分かった。リセルがそう言うのなら」
「は、はい。その……よろしくお願いします」
俺とリセルは同じベッドで横になる。流石に二人だと狭いし、俺の体が大きいのでそこはどうしようもない。俺はできるだけ壁のほうに体を寄せ、リセルには背中を向けている。
「ハルさん。起きていますか?」
「あぁ」
「今日はその……ありがとうございました。私、とても怖くて何もできなくて……」
「気にする必要はない。リセルに非はないからな」
「改めて、ハルさんのような人がうちに来てくれて良かったです。助けてもらったからそう言っているわけではなく、純粋にハルさんはとても優しい人でお仕事もしっかりとできますし。お父さんも私もハルさんのおかげで、前よりもずっとお仕事が楽になりました」
「それは良かった。ただ、いつか自分のパンも出してみたいな」
「お父さんは厳しいですけど、きっとハルさんならいつか。私も自分のオリジナルを出してみたいですね。ふふ。ハルさんには負けませんよ?」
「あ、あぁ……」
リセルのオリジナルのパンは──店頭に出ることはないだろう。いや、あの化け物を店頭に出していいはずもない。しかし、その真実を伝えるわけにいかなく……でもこんな些細な会話も心地いいと思えるほどには、リセルとの距離が近くなった気がする。
「すぅ……すぅ……ハルさん……」
気がつけばリセルは眠っていた。
そろそろ寝るとしようか。そして、俺も睡魔に身を任せるのだった。
「……朝か」
微かに入り込んでくる朝日で目が覚める。しかし、体に何かが巻き付いているような感覚を覚える。俺も鈍ったな。〈アビスサンクタム〉では僅かな違和感があれば、眠っていてもすぐに気がついていたというのに。これも心の持ちようが変わったからだろうか。
ただ何故か腕にむにゅとした感触があった。
「ん? これは……」
そう思って確認してみると、俺の体にはリセルがぎゅっと抱きついていた。否応無しに、彼女の柔らかい胸がしっかりと押しつけられてしまっている。
流石に気まずいので、俺はリセルを起こすことにした。
「リセル。起きてくれ」
「ん……? もう朝ですかぁ……」
「すまないが、抱きつくのをやめてくれるか?」
「え──? あ、あわわわわ。すみません! ご、ごめんなさい──!」
それから俺たちは手早く準備をして、宿を出て行った。今はローテン経由の馬車乗り場へと向かっている最中だが、リセルは頭を抱えていた。
「ご、ごめんなさい! ハルさん! 私、実は抱き枕がないと寝ることができなくて……」
「別に気にしてはない。ただ、俺も一応異性だ。今後はないと思うが、気をつけてくれ」
「はい……すみません。あまりにも抱き心地が良くて……つい。本当にごめんなさい……」
リセルはしっかりとしているが、少し天然なところがある。昨日もそうだが、言うべきではないことをポロッと零してしまうのだ。抱き心地がいい、と言われるのは非常に気まずい……。
そんなやりとりもありつつ、俺たちは無事にローテンへと返ってきた。都会の喧騒は一切なく、この町はとても落ち着いている。まだここで過ごして短い期間しか経っていないが、俺はもはや故郷のように感じ始めていた。自分の感覚的にも、王都のよりもこっちの方が合うしな。
「お父さん。ただいまー!」
「大将。戻りました」
今日はパン屋は休みの日なので、大将もパン作りはしていない。今は居間で分厚い本を読んでいるようだった。きっとパン作りに必要なものだろう。
「帰ってきたか。無事に渡せたか?」
「はい。問題なく」
「今日は休みだから、お前もゆっくりとしていいぞ」
「分かりました。では、自分はこれで失礼します」
「ハルさん。改めて、ありがとうございました!」
俺はパン屋を後にして、自宅へと戻っていく。今の所、休日の時間というものを俺は持て余していた。何かしたいこともないし、強いて言うならパン作りだろうか。大将からは参考になる本を何冊か借りているので、それを読み込むことにしようか。
そんな感じで休日を過ごし──いつものようにパン屋に出勤するが、俺は店内に入って違和感を覚える。
「気配が一つ多い……」
俺はその気配のするところに向かうと、厨房には真っ黒な外套を羽織った何者かがいた。
「何者だ──!」
「……っ!」
そいつは俺の存在に気がつくと、あろうことか魔法を発動した。その場には魔力の残滓だけが残って、相手は完全に消え去ってしまった。
転移魔法……? 即座に発動したとなると、かなりの猛者か……。いや、事前に転移系の魔道具を仕込んでいた可能性もある。ともかく、ただのコソ泥ではなさそうだが。
「ハルさん! どうかしましたか!」
「ハル。何があった?」
流石に大声を出したので、リセルと大将の二人が厨房に顔を出してきた。俺はそして、二人に何者かが侵入してきたことを伝えることにした──。