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エッセイ

逆襲のシャア感想 人の心の光とは何だったのか

作者: 相浦アキラ

※逆襲のシャア及び初代ガンダムの核心部分のネタバレがあるので注意してください

 人間は公共性と利己性を併せ持つ動物であり、公の為に動いているような人間でも利己的な面があったり、利己的なだけに見える人間にも公共心があったりするものです。

 逆襲のシャアはそういった観点から複雑な人間性を描いた作品だと思います。


 例えばアムロは人間の可能性を信じてシャアの地球寒冷化作戦を止めようと奔走しますが、一方でララァの幻想に「シャアは否定しろ」と憤ってみせるあたりララァを戦いに巻き込んだシャアを許せないという個人的な怨嗟も見てとれます。シャアに至っては地球に依存する人間を裁くという大義名分を掲げつつも世直しには興味がないと作戦よりララァを殺したアムロとの対決を優先してしまいます。あろうことか主人公機体のνガンダムに至っては、アムロと対等に戦う為にシャアがこっそり横流しした軍事機密が使われている始末です。

 その他メインキャラであるクェスもギュネイもハサウェイも、それぞれ理想を持ちながらも恋愛感情などの個人的な感情を主軸に動いています。中でもクェスは父性を求めてシャアの下に走ったりと自分勝手な動きが目立ちますが、一方で彼女は敵味方関係なく感じやすい心を持っていて最後には切り捨てたはずのハサウェイを庇う形で戦死する事になります。


 富野ガンダム作品では人間の革新の可能性としてニュータイプという概念が提唱されており、これは作劇的には主要キャラの異様に高いパイロット能力の理由付けとして、象徴的には人類を幸福にできる筈の新技術が戦争に投入されて悲惨な破壊を引き起こしてしまう歴史が示している、革新だろうがなんだろうが何でもかんでも使えるなら戦争に投入してしまう人類の愚かさのアーキタイプとして提示されているようです。そういう訳で人類の革新である筈のニュータイプの共感力や感知能力もまた戦争に利用されてニュータイプ本人も不幸な目に陥ってしまうという悲しみがガンダム作品のテーゼとして描かれる事が多いのですが、逆襲のシャアはこういった基本構造を踏襲しつつも「ニュータイプも所詮人間に過ぎない」という点に比重が置かれています。先述のようにニュータイプ非ニュータイプ問わず登場人物の人間臭い描写がとにかく多いのです。そこが逆襲のシャアの最大の魅力だと思います。


 私はニュータイプという考え方は神がかりすぎているし選民思想じみていてそんなに好きではないのですが、逆襲のシャアではそこまで神がかった感じでもなく、アムロの戦闘シーンもニュータイプ能力より経験や機転を活かして上手い事戦っている描写が多く、あまり違和感はありませんでした。もしかしたら富野監督も神がかり的なニュータイプから人間に過ぎないニュータイプへと理想のイメージが変わって行ったのかもしれません。


 富野監督のインタビューを読んでみた感じ、彼はどちらかというとアムロよりシャアに近い思想を持っているようで、今の人口増加のスピードでは地球が持たない、穏当な方法ではどうにもならないという危機感を強く抱いているようです。富野監督は良くも悪くもシャアのような真っ直ぐな純粋さを持った人のようです。しかしアコギな事をやって地球を汚染してまで大量虐殺をして、ララァと同じようにまた多感な少女を戦争に利用し巻き込んだシャアは純粋でありながらもやはり醜悪にも見えますし、尊大な態度を取りながらも結局は個人的感情に囚われています。アムロが指摘したように「人が人を見下し、人が人を裁くエゴ」に陥っているのも確かでしょう。同じように現実世界で今の地球を何とかしようと手段を選ばない超人が立ち上がり錦の御旗を掲げたところで、結局その人も人間に過ぎずどうしても醜悪になってしまうのでしょう。そういった諦観が作品の下敷きにあるように感じます。そしてこの諦観と希望が混じり合った像が、シャアに対峙し「人の心の光」を見せようとするアムロの姿として描かれていったのかも知れません。


 しかし「人の心の光」とは一体なんでしょう。この概念はニュータイプとはまた違った理想のように感じます。作品のラストでは敵味方関係なく協力し、皆で地球に落下する小惑星を自分を犠牲にしてまで押し返そうとした結果、サイコフレームという謎アイテムの共振が起きて不思議な力で小惑星が地球から離れていきます。オカルト現象が完全に物理法則を歪めている格好で富野作品の中では珍しくご都合主義的な感じもしますが、しかしそんな神がかった場面の中でアムロとシャアがずっと醜く言い争いしているというのがこの作品の核心なのかなという感じもします。もしかしたら「人の心の光」というのは、醜さ含めて人を愛するという事なのかもしれません。言い方を変えれば、醜さがなければ人は人足りえないと知るという事なのかもしれません。


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― 新着の感想 ―
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