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第三話 お狐様とお友達 (前編)

 狐騒動から早五日。

僕は今までと同じ日々を同じように過ごしている。

あの日、九重を追いかけたあの日と同じような、どこまでも抜けるような空。

僕はそんな飛び込みたくなるような、遠く高い高い空を眺めていた。





そして、悶絶し悲鳴を上げているわき腹に右手を添える。





 目下、体育のマラソン中。

うちの学校、私立海桜高等学校しりつかいおうこうとうがっこう、通称海桜は文武両道が基本理念らしく、勉学同様に体育の授業もかなりハードな内容となっている。

春先には体育でのマラソンが慣例となっており、体育の授業時間ともなれば校外へ踊り出て男女ともに時間いっぱいまで走りぬく、という過酷な行事が待っている。


 海桜のマラソンといえばこの地域の春の風物詩、というのが周辺住民の認識である。

走っている身として晒し者以外の何者でもない。

汗にまみれて苦しそうな顔で走っている様を近隣住民にお披露目するのである。

少しでも歩こうものなら後ろから自転車に乗った体育教師が追いかけてきて即御用、後にレポートの提出を義務付けられる。

そんなわけでどんなに疲れようとも歩くのだけは許されない。


体力に自信のない僕には必然的に拷問タイムとなる。



 うちの地元は見事な田舎なので車の通りも少なく、道幅も広いので残念ながら走るのにまったく困らない。

マラソンのルートも長々と設定されており、校外の道を校門を起点に1周およそ二十分以上かかる。

そんな気の遠くなるような道程を、体育会系の同級生に一周、二周遅れをとっている僕。


惨めなどとは言っていられない。


今成すべき事は自分と戦いながら後ろから迫る体育教師に回収されないことである。

ただでさえ宿題でいっぱいいっぱいなのに、その上レポートなんて書いていられるか。

僕は絶望的な顔で、拷問コースを最下位集団に混じりながらひた走る。


ヒュンッ。


 そんなある時、僕のすぐ脇を風が走り抜けた。

その刹那、体育着姿の女子が眼前を駆け抜けていく。

うちの高校の体育着。

首周りや袖の縁のラインの色から同学年だとわかる。

男子にも引けをとらない走り、いや、下手したら男子のそれを上回るほどの俊足の彼女。

風を切るとはこのことか……。

通り抜ける風に紛れて、ささやかに甘い彼女の残り香が鼻腔を通過した。




霧島きりしま 朔夜さくや、その人であった。




 陸上部のエースにして生徒会長、成績でも常に五本指に入る、まさに文武両道を画に書いたような人となりだ。

人あたりがよく明朗快活、豪快なところが多々見られるが、決して気品は失わない物言い、顔も小顔ですっきりと整っていて、一般的な美的センスから言っても美人と言える。もちろん男子からも人気があった。


 そこまで長くはない、どちらかと言えばボーイッシュな髪を散らしながらぐんぐん僕を引き離していく。

クラスは違うが噂はよく聞く、。

どれも彼女の良さを誇大、強調した形で伝わってくるのだが、それも彼女の人徳の大きさが成せる技だろう、僕には関係のない話だ。

彼女はあっという間に僕の視界から霧散していった。






 授業終了を告げるチャイムが響く。


すなわち解放の鐘である。


僕には、まさに終戦を告げるラジオからの声明、に等しい。


思わず目頭が熱くなりかける。

全身の力が抜け、思わずに前に倒れそうになるのをなのとか堪えた。

両膝に手をつき、頭を垂れ荒い呼吸を整える。


 震えるその足でなんとか校門をくぐる。

フラフラになりながら、着替えるために更衣室へと向かった。

途中、汗を拭いながら友達と楽しそうに更衣室へ向かう九重の姿が目に入った。

長髪を掻き分けうなじをタオルで拭う彼女の姿に思わずドキッ、と胸が鳴る。


 あの狐の一件以来、彼女の姿がよく目に入るようになっていた。

別に片思いとか、そういったうわついた類の話ではない……と思う。





 あの時……。

裏山の神社で彼女と対峙し、彼女の中の狐を追い払った時のこと。

気を失った彼女を神社の縁側に寝かせて、しばらく経ってからのこと。


 気絶していた九重が目を覚まし、起き上がって僕の方を見た。

事情が飲み込めない彼女は視線が定まらず眼球をぐるぐるとさせていた。

突然の事に慌てふためいた僕は咄嗟に何か言おうとしたが頭が真っ白になる。

自分は何もやましいことはしていない、と彼女に伝えたかったはずなのに……。


回線が混乱している脳ミソで彼女に何か伝えようとした、その時。



「その肩の怪我どうしたのっ!? 血っ……血が出てるじゃない、痛みはないのっ? 大丈夫っ? 止血はしたの? 消毒は? もう動かしても平気なのっ?」



畳み掛けるように心配してくれた。

唖然とする僕。

十七年の人生でここまで人に心配されたことはあっただろうか……。

彼女と直接話しかけられるのは、たしか初めてだったはず。

あまりの出来事に発しようとしていた言葉を飲み込んだ。


一度も話したことのないクラスメイトにこの状況下でここまで気を配れるなんて、前世はナイチンゲールかマザーテレサであろうか。


奇跡の人と呼ばせてもらいたい。




後で気付いたのだが、それはヘレン・ケラーだった。




あまりの唐突さに言葉を失い呆然と彼女を見つめる僕。

何も答えない僕を怪訝そうな表情で見つめる彼女。

眼鏡の向こうには、とてもまっすぐで大きな瞳があった。



「……あっ、いや……その……」



 僕は我に返ると、何か他愛もないことを言ってその場を和ませようとした。

そして挫折した。

おそまつな頭では何も気の利いた言葉を見つからない。

頭を垂れ、がっくりと肩を落とす。

ますます心配そうに僕を見つめる彼女。

上目遣いで僕を覗き込んでいる。

そんな彼女に降参するかのように僕は全てをありのままに、これまで起こった事象を誇張も省略もなく、順序立ててゆっくりと話しはじめた。




帰り道で様子のおかしい九重を見かけて後をつけたこと。


そして裏山の山頂にある神社にたどり着いたこと。


九重が狐のような何者かに憑依されていたことと、敵意を持って僕に襲い掛かってきたこと。


その時に肩の怪我を負ったこと、そして最終的に僕が狐を追い払い、気絶した九重の意識が戻るまでこの場で待っていたこと。




全てをそのまま話した。





 

 そして本日二回目の奇跡。


話を聞いた彼女は全てを一片も疑わず盲信し、涙ながらに自分の非を詫びて何度となく僕に謝り許しを乞った。

僕の手を強く握り、涙を浮かべながら何度も頭を下げる彼女。

美しく長い黒髪が大きく揺れている。


大粒の涙が頬へとこぼれた。


そんな彼女に畏敬の念を抱きながら呆然とただ揺れる僕。

あまりの驚きに呼吸するのも忘れていた。

今思うとなんともだらしない男だったと思う。




 少し間をおいて再び我に返った僕は、九重の意図して行ったことではない、と彼女をひたすらなだめた。

それでも彼女はしばらく謝罪の雨を止めようとしなかった。

すでにこの時点で僕の、彼女への好感度はメーターを振り切っていた。

自分の知らない状況下で起こったこと、その全てを受け入れ涙し何度も頭を下げられるなんて。

僕が逆の立場だったら相手を変質者か何かと判断して何も語らず、逃げるようにその場を後にしていたに違いない。

例え言葉を交わすとしても、こんな至近距離に身を置くことはないだろう。

手を握り謝罪するなど以ての外。

彼女が菩薩か釈迦に見えてきた。



 とにかく九重の責任ではないこと、怪我の心配はいらないことを丁重に彼女に告げてなんとかその場はお開きになった。


裏山の麓まで彼女を送り届けると、それぞれの帰路に着いたのだった。





あれから五日。

それでも未だに九重は僕の肩の怪我をことあるごとに心配してくれる。

友達とまではいかないにしろクラスで会話が交わせる女子が現れるとは、今まで思いもしなかった。

これを機に残りの高校生ライフも華やかになれば……。



……期待するとろくなことはない、あぶないあぶない。





 空は少しずつ明かりを落としはじめ、沈みゆく太陽が街をオレンジ色に染める。

今朝のマラソンが遠い昔のことのように感じられた。

夕日に向かって飛んでいくカラスが二羽、窓際の僕の席から見える。

眠気交じりの目をこする。

それを見計らったように、放課を告げるチャイムが鳴った。

帰り支度をし、早々に教室を後にしようと机を整理していた。

その時、後ろから声をかけられた。

何気なく振り返る。

僕の斜め後方には穏やかで、やわらかな表情を浮かべた九重が立っていた。




「御白君……、突然ごめんね」




入学してからこの一年間、校内の誰かと言葉を交わすことがほとんどなかった僕は咄嗟の呼び声にどう応対してよいか分からず、振り返ったままの姿勢で視線を彼女に合わせたまま硬直していた。




「あっ、本当にごめんね、突然声かけたりして……」


心持の悪そうに後ろ手で組んだ指先をもじもじと遊ばせている。


「あっ……、あぁっ、いや別に気にしないでいいよ! 困ってるわけじゃないからっ! そのっ、こっちこそなんか気を使わせて、ごめん……」



咄嗟に弁解する。

彼女の性格からすると、どんな些細なことであろうと、自分の責任として処理しそうだったからである。




「本当に大丈夫だから。ごめんね。……僕に何か用かな?」


小さく首を傾げながら答える。

とにかくこの場の空気をなんとかしたかった。



「えぇっと……、あの、今日の放課後って御白君、時間あるカナ? いやっあの、別に忙しかったら全然私のことナンカ気にしなくて大丈夫ナンダケド……その……」



彼女が顔を赤らめながら慌てる。

言葉が多少カタコトになっている。

両手を胸の前でぶんぶんとクロスさせている。

困り顔になりながら必死に話す九重は、ひいき目に見てもとてもチャーミングに見えた、……というか実際チャーミングだったわけだが。

おそらく九重自身も男子と会話するということに不慣れなのだろう、言葉のイントネーションのおかしさや目の泳ぎ方からはそんな印象を受けた。



「あぁ……、別にこれといって用事はないけど」



「あのね……、ちょっとお話があって……」



意味もなく全身の血流が速くなっていくのを感じた、脈拍も上昇しているだろう、何より顔面に普段感じない熱を感じる。

喉がゴクリッと音を立てる。

精神性発汗、手のひらが汗をかき始める。

まるでこの後、どこかに呼び出され、そのまま愛の告白でもされそうなシチュエーションだ。


人気のない校舎の屋上にたたずんでいる僕と九重。


バックには幻想的で美しい大きな夕陽。


こぼれる愛の言葉。




……そんな妄想が零コンマ何秒で僕の頭の中を駆け巡る。




「話って? どんな話……かな?」


恐る恐る訊ねる。

まだ希望を完全に捨てきれていない自分が、この上ないチキンに思えた。


「えぇっとね、ここだとあれだから、別の場所で話さない? いい……かな?」


彼女の言葉に顔面がさらに熱を持つ。

脳内回路はオーバーヒート寸前。

今ならきっと、頭上に湯気くらい確認できるだろう。


「うん、わかった、いいよ……」


もうそれしか言えなかった。

そう言って鞄を掴む。先導されるように九重の後に続いて教室を出た。

女子と廊下を並びながら歩くことができるとは。

今まで貯金していた運を全て使い果たしてしまったような、そんな恐怖心を覚えた。

帰り道の交通事故だけは注意しよう。


「話すってどこで話するんだ?」


少し前を歩くで九重を見ながら、平静を装って口を開く。

当然、唇は渇ききっている。


「人気のないところがいいんだけど……」


歩きながら伏し目がち答える彼女。

僕の脈はどんどん速くなる。

これ以上の負荷は心臓が持たないかも。

そのままの意味で、蛇の生殺し状態である。


マラソンとは違う意味で辛い。


「じゃあ……図書館とか?」


提案するつもりで答えた。


「うぅんと……、図書館だと読書してるみなさんに迷惑がかかるから、他の場所がいい……かな……」



申し訳なさそうに彼女は答えた。

彼女に気を使わせてしまったようだ。

気まずさから一気にどん底に突き落とされた気分になった。

よく考えもしないで女子と会話してはいけない。


肝に銘じよう。


「あのね、私がよく行く公園があるんだけど……、そこでもいいかな?」


「あぁ、うん。いいよ、……そこにしようか」


逆らってはいけない。


そんな気がした。


本能的な感ってやつである。




 昇降口で外履きに履き替え、校舎を二人揃って後にした。

途中までは僕がいつも辿っている帰宅ルートと同じだった。

古民家が並ぶ懐古通りへと差し掛かると、いつもなら直進している道を左に入っていった。

古民家と古民家の間の細い路地を二人縦に並んで抜けていく。

薄暗く、そこまで気にはならないが、カビのような匂いがした。


途中で一匹の黒猫が僕等の足元を通り抜けた。


一瞬黒猫を見下ろしてから視線を前に戻すと、狭い路地を丁度抜けきっていた。



 

 目の前には、圧倒されるほど広大な自然公園。

周囲を柵で囲まれた公園内は、野球の試合が二試合同時に開催ができるほど広々としていて、公園の円周沿いには大きな木々がおおよそ等間隔で植えられている。その木々を縫うように散策コースのような林道が設けられている。

その林道に並ぶようにいたるところに木製のベンチが設置されていた。

ベンチに腰掛けている年配の夫婦が何組か見られる。

とてものどかな所だった。

今までこの地域に住んでいたのに、まったく知らなかった。

およそアウトドアに皆目興味のなかった僕なら、当然といえばそうなのだが。



そんな牧歌的な風景に圧倒されていた僕に気が付いたのか、九重が口を開く。



「ここ、いい所でしょう……。私よくこの公園来るんだぁ、読書するのにすごくいいんだよ。この、のどかな雰囲気が大好きなの……」




微笑みながら答える彼女。

本当に嬉しそうな表情をしている。

普段の何割か増しで笑顔が輝いて見える。

木陰の中ベンチに腰掛け、静かに読書をしている彼女の姿が容易に思い浮かんだ。


 そういえば高校一年の暮れの終了式だっただろうか。

校内の図書館での本の貸し出し数が最多だったとかなんとかで、表彰されていた九重を思い出す。

当の本人はといえば、自分の意思で本を借りているのにどうして表彰なんか、と思っていたかどうかは知らないが、表彰されているときの彼女の顔は困惑気味であった。


「うん、いい所だね……。全然知らなかったよ」


公園を見渡しながら答える。

本心からの言葉。

たまになら来てみてもいいかな。

そう思わせるのどかさだった。






「……それで話って?」


 本来の目的を思い出し、彼女に話を振ってみた。

彼女は一瞬僕の方へ顔を向けると、視線を公園に戻し一つのベンチを指差して答えた。


「あのベンチに座ってお話しよっ?……」


そういうとゆっくりとベンチへ歩を進めて行った。

僕は小さく頷き、彼女に続く。






 二人並んで静かにベンチへ腰掛けた。

空の赤みはいよいよ強さを増し、街中の景色に朱色を塗りたくる。

公園の広場も鮮やかなオレンジ色に染められていた。

太陽を背にベンチに腰掛けた僕等はしばらくの間、無言で広場を眺めていた。

これまで体験したことのない距離に、女子が座っている。

そしてその女子は、僕と話をするという明らかな目的を持ち、この小さいベンチで僕の隣に存在している。

どうも落ち着かない……。




不意に彼女が言葉を紡ぐ。




「あのねっ、話っていうのは……その……この間のことについて、なんだけど……」


この間のこと、そう、狐に憑依された彼女と裏山で会ったときのことだろう、容易に想像がついた。

と同時に今更ながらやはり愛の告白ではなかったのかと、小さな落胆が僕の中に顔を出す。





何考えてんだか……。





心の中でそう呟く。

がっくりと肩を落とした。




「あの裏山のことで、一度……御白君とゆっくりお話してみたいと思ってたの。それで今日、この場所まで来てもらったんだけど……急に呼び出してごめんね……」


「あぁ……、いや全然気にしないでいいよ。僕もこの件で九重とじっくり話してみたいと思ってたし」


さすがに、狐に取り付かれた、なんて会話を教室でするわけにもいかず、僕のこの場所まで招待したわけか。

教室で九重に声をかけられたとき、どうして狐の件が真っ先に思い浮かばなかったのか。

自分の人間の矮小さを今更ながら垣間見た気がした。






「実はね、私……あの神社に何度か行ったこと、あるの……」







「えっ?……」





驚いて咄嗟に聞き返す。

思いもしなかった答えが返ってきた。



「それって九重の意思で、ってこと?」





「…………うんっ……」





縮こまって答える彼女。

次の瞬間には、本当にごめんなさい、とでも言いそうな雰囲気だ。

たまらず僕は口を開く。


「それって……、理由って聞いてもいい?」


恐る恐る、覗き込むように質問する。

正直興味はある。

あんな人気のない廃神社に、九重のような女子がどうして訪れようと思ったのか。


「あそこはね、……私のお気に入りの場所だったの。よく一人で訪れては本を読んでいたんだぁ……。この公園と並んで私のお気に入りの読書スペースだったの」


一呼吸置いてからスッと、流れるように話しはじめた。


「そう……だったんだ。でも意外だな。あんな場所、薄暗くて九重が行くような場所には思えないけど……」



 もし仮に千円あげるからあの神社へ一人で行ってきてくれと僕が言われたなら、例え昼間であろうと、即座に千円札を相手に突き返せる自信があった、それくらい僕なら行きたくない。

僕は九重以上のビビりだったということだろうか……、自分が生きていく気力を失いそうになる。



「夏場なんかはすごくひんやりしてて気持ちがいいんだよっ。人もほとんど来ないから静かに読書できるし、私自然が大好きだからあんな木々に囲まれている所とか大好きなの。自然の中での読書ってなんだかすごく贅沢な時間じゃない? それにあの場所、街が一望できて眺めもすごくいいし……」



満面の笑みで話す彼女。

きっと何かを褒めちぎるトーナメントでもあれば彼女は優勝候補の筆頭だろう、僕にはとても無理だ。



「じゃあ、あのさ……。その……、狐に心あたりは?」



いよいよ核心に迫る話を持ちかける。

お互い一番話したい内容はおそらくこの辺りだろう。

その言葉を聞いた彼女は、少しうつむき何かを思い出すように、目をつぶった。

その後で、姿勢はそのままに、目だけを開くと、ゆっくりとつぶやくように話し出した。




「あのね……、一回、あの神社で読書をしたていたとき。その読書の休憩中にあの神社の 周りをぐるっと眺めてみたことがあったんだけど……。その時に神社の裏手の建物の、軒下みたいな所からね、バラバラになった小さな狐の置物を見つけたんだ……。なんとなく不思議な雰囲気があった置物でね、バラバラなのも可哀想だからと思って、その場で組み立ててあげてね……。その時はなんともなかったんだけど……」




彼女が話すのを一旦中止する。




「…………だけど?」




僕はなんとか話を続けてもらいたい、と合いの手を入れてみた。

それに答えるように、一呼吸おいてから彼女は話を再開した。




「だけどね、……ある日、その神社で読書してるときに気が付いたら眠っちゃってたことがあって。その日を境に、気が付くとどうしてか、あの神社の縁側で目を覚ます、ってことが何回もあって。自分では神社に行くつもりがないときでも、気が付いたら神社にいて……ってことがよくあったの。ちょっと気持ち悪いなって思ってて……」



九重が気味の悪そうに話す。

心なしか声もより小さく、か細くなっていた。



(なるほど、話が少しずつ見えてきた)



 あの日、おぼつかない足取りの九重を見かけたあの日。

あの時の九重は、まさに無意識下で神社まで歩かされているときの彼女だった。

つまり、僕が帰り道で彼女を見かけた時はもう、狐に憑依されている最中、ということになる。

彼女の話からすると神社でうたた寝してしまったときに、狐に憑依されたと考えるのが自然。

その狐は、彼女の中に居続けていたのかどうかは不明だが、彼女にしつこく憑依していたこと。

そしてその狐は九重が修繕した狐の置物と、何か関係がありそうなこと……。





「なんだか私、怖くて……。あの時も気が付いたら御白君に怪我までさせていたし……。 私には何の意識もなくて、でもその間にまた誰かを傷つけたらどうしようって! あの日から私……毎日不安なの。またあの神社で目を覚ましちゃうんじゃないかって、それで目を覚ましたらまた誰かを傷つけているんじゃないかって……。この次には、御白君の怪我以上の傷を誰かに負わせちゃうんじゃないかなって。自分の身体が知らない誰かに操られてる、私の身体を使って次々に誰かを傷つけて行くんじゃないかって……。もしかしたら、今までにも、既に何人も傷つけているとしたら? 私……もう眠りたくないよ……誰も傷つけたくないよ……自分が怖い……。どう……したら、いいの……。怖いよぅ……」





 消え入りそうな小さな声。

九重の話に聞き入りながらふとっ、彼女を眺めると、眼鏡の向こうの大きな瞳に大粒の涙を湛えていた。

その涙がまばたきと同時に頬へこぼれる。

一筋の線が白く綺麗な彼女の肌を走る。

小さな嗚咽も聞こえてくる。


涙はせきを切ったようにどんどん頬へと流れ出す。


九重の肩が大きく震えだしていた。


小さな両手が彼女の顔を覆っている




 僕が彼女の立場ならこれほど怖いことはない。

自分の知らない間に何者かに身体を操られ、あまつさえ他人に危害を及ぼしているかもしれないなんて。

神社で会ったときの九重の顔を思い出して、背中に寒気が走る。

恐怖心を消し去ろうと、咄嗟に頭を抱える。


 自分に助けを求めている彼女に、僕は何もしてやれないのか……。

自分の不甲斐なさに腹が立つ。



しかしどうすれば……。



狐は追い払った、があれは一時的なものかもしれない。


その場しのぎで、まだ彼女の中には狐が眠っているかもしれない。


いつ目覚めるかもしれない狐の恐怖。


僕はどうしたら……。


彼女にしてやれることは……。





……僕は、無力だった。







 あれからどのくらい経っただろうか。

泣きじゃくる彼女の隣で頭を抱えることしかできない僕。

すでに周囲は薄暗く、気が付けば公園内に残っているのは僕等だけになっていた。

街灯が照りはじめ、家路に着く人の影も少なくなってきた。

雲間から、不完全な満月が申し訳なさそうに顔を覗かせる。







ごめん、九重っ……。







心の中で木霊する声。

これほどまでに誰かの力になりたいと思ったことはないのに……。


直面して初めてわかる、自分の非力さ。


僕は指が手のひらに突き刺さるほど、強く拳を握り締めた。







次の瞬間。






僕の中で何かが繋がった。


なんだろう、この感じ。


デジャ・ビュのような違和感。

見えている世界がスローモーションになっていく、そんな錯覚。

九重のから聞いた話と、あの日、九重を追ってたどり着いた神社の情景とが、頭の中で次々にリンクする。






ボロボロの神社。


神社裏手の軒下に捨てられていた、バラバラの狐の置物。


それを直した九重。


とり憑いた狐。


僕を襲う彼女。


苔で顔の隠れた狛犬の像。


狐。



キツネ。




きつね。





全ての情景がポラロイドカメラのように、浮かび上がっては次々に脳内へ転写される。





「まさかっ……」






僕はいつの間にか立ち上がっていた。

驚いた九重が怪訝そうに僕を見上げる。

涙はまだ溢れていた。

僕は九重の方へ向き直ると仁王立ちのまま尋ねていた。




「九重っ。狐の置物を直したって言ってたよなっ?」





「うっ、うん……。直した……よ。……と言っても接着剤でくっつけてっ……あげただけっ……だけど……」


まだまだ嗚咽の収まらない声で辛うじて答える。


「その置物って直した後、どうしたっ?」


「置物? えぇっと……、置物なら直した後、落ちていた場所に戻してあげたよぅ……どうしてぇ?」


震える指で涙を拭いながら僕を見つめていた。

もしかしたらその置物……。

僕の考えが正しければ……。

いや、きっと……。






「もしかしたら、なんとかなるかも!」








「えっ?」




あまりの唐突さに、さっきまでの嗚咽さえも忘れる九重。

口を小さく開いたまま僕を見つめている。



「今からあの神社に行こうっ! きっとなんとかできる!!」





 次の瞬間には、九重の右手を強く掴み、僕等は暗い通りを裏山へ向かって走りだしていた。

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