さっさとしてと云われても
* 最終話です。
―◇◇◇―
「他には? 他にはどんな人がいた?」
静香はもう淋しさややっかみは掻き消えて、夫の話に引き込まれてしまいました。目を輝かせて次をねだります。
「何だ、まだ聞きたいの?」
からかいながらも青山は、やはりこの快活な若妻が愛しいと実感してしまうのでした。
青山から受け取った羽織を被って涙が止まったかと思うと、
「早くしてください」と云った娘がいたそうです。
彼よりもしかしたらちょっと年上で、夜のことに一通りの知識はあるようでした。
「ドキドキするのもびくびくするのも嫌です。さっさと済ませてください」
女の言葉に青山は仰天して、その気があっても縮こまりそうだと思いました。
「では布団に入っていなさい」
平静を装ってわざと時間を置きます。近づいてみると、その娘は頭まで掛け布団を被って中で震えていました。
神主は少し乱暴に布団を剥いで、女を後ろから抱きすくめます。驚かせば逃げ出すだろうと思ったのです。しかし抵抗もしないので暫くして腕を緩めてみると、その娘はくるりと寝返りを打ってしがみついてきました。
これには青山のほうがあたふたしてしまいます。何とか優しく抱きしめて髪を撫でてやりました。
「強がらなくていい。その時が来ればわかる。急がなくていいんだ」
「もういいんです。びくびくしたくない。女はみんな敵兵に犯されるとか防空壕で輪姦されたとかそんな話ばかり。もう嫌なんです。一度経験してしまえば少々どんなことがあっても堪えられる。初めては合意の上でちゃんとしてもらったって思えたらそれだけで……」
「合意の上ではない。貴女の身体は恐がっている」
「そりゃ初めてだからどうしても恐いです」
「初めてでも恐くてもこの人ならいいと思う時が来る。それまで待ちなさい。安全なはずの防空壕でそんな目に遭ったら、つらいのは初めてでも二度目でも大差ない。好きでもない相手に意に染まぬことをされるのは何度目でもつらい。だから今処女を投げ出す必要などない!」
青山はそんな風聞が飛び交うのも、自分たちには将来がないと思う思春期の男の子が生き急いでしまうのも、徒党を組んで相手を思いやれずに暴力沙汰になってしまうことも、同じ男として余りに哀しくて、語気が激しくなってしまったのでした。
「神主さまなら優しくしてくれるのではないのですか?」
「どんなに優しくしても、違うのは女性側、貴女のほうだ。その時が来て心の準備ができたら身体の準備もできる。初めてだろうが二度目だろうが心の準備の無い行為は悲しみでしかない」
自分の言葉に普段の余裕がなく戸惑っていた青山は、娘の次の言葉にどっと救われます。
「私に魅力がないから抱いてもらえないのですか?」
「そうだね、まだ時期ではないという意味では魅力がないかもな」
笑いを含んだ声で答えると、娘は目を丸くしました。
「そんなに私、つまらない女ですか?」
「貴女が本気で私に抱かれたいと思ったら胸がドキドキして身体が火照って瞳は潤んでくる。自然に色っぽくなる。今の貴女は娘が父親に抱きついているのと同じこと。庇護を求めているだけです。身体は強張ったまんまだ。そんな人を抱いても嬉しくない」
「男の人は誰でもどんな女でもいいんじゃないの?」
「ほらそんなバカな考えを持っている」
その娘は本当にきょとんとしました。
「狂った時代に生きているからそうも思ってしまうんだろう。男も女も好きな人としたい。好きな人としかしたくないんだ。好きな人とできないときに、男は他の人で誤魔化せてしまうのかもしれない。でもそれも個人の資質だよ。誰でもいいって男を選んじゃだめだ。貴女ひとりしか欲しくない人を探すんだ」
「え、そんなどうやって?」
「最低でも貴女がキスしたいって思える相手で、相手もそう思ってること。そしてその男が他の人とキスできるかどうか確かめること。口づけって不思議なもので、気持ちのない相手とはし難いものなんだよ」
「神主さまは? 私にキッスできる?」
「貴女は可愛いからおでこかほっぺか、髪の毛にならできるかな。でも唇にしたいとは思わない。貴女は私の人ではないってことだ」
「世間の男の人は神主さまみたいにゆったりしてない。皆ギスギスぎらぎらしてる」
「貴女を欲しい男は多い。だから大事なんだ、貴女自身が自分の気持ちを見極めること。そして貴女ひとりが欲しい男はギスギスぎらぎらはしていない。貴女が大切だから。そう簡単には表に見せない。初めは言葉で伝えようとするだろう、好きですって。でもこれも男にはかなりな試練だ。好きな人の前では口も利けなくなったりもする。言葉で云えなかったら視線。貴女のことをいつも見ている。危険が迫ったら助けにくる。貴女が今晩私と過ごすと聞いたら居ても立っても居られなくて外で立ち尽くしている。貴女が出て来るまで身動きも取れない」
青山は誰か境内にいることに気付いていたのです。
砂利を踏みしめる音が聞こえていて、最初は様子を見に来た父親かと思って。でもそれにしては時間が長すぎます。玉砂利の上を絶えず行ったり来たりしていて、その娘を好いた男に違いないと当たりをつけました。
「好きな人はいないの? いつも傍にいてくれる人がいるんじゃない?」
青山は神主言葉もくだけて気楽に問いかけました。
「幼馴染はいるけれど、その人とは別にそんな、近くに居過ぎて逆に慣れっこで」
「キッスしてみたくない?」
「え、考えたことない。小さい頃、私が意地悪して泣かして子分扱いしたし、四つも年下で男の人っていうより弟って感じだし……」
「その人の名前は?」
「孝介さん……」
青山は彼女の云い方から脈がありそうに思いました。「孝介さん」が頼りがいのある男の顔を見せれば想いが叶いそうです。
布団を出て本殿から拝殿を横切り、賽銭箱の上あたりの格子戸から境内を窺いました。確かに若い男が燈籠の周囲をぐるぐる回っています。
そいつの想いは本物だなと嬉しくなると同時に、悪戯心が起きました。表戸に咬ませてあった心張棒をそっと外します。
娘は起きだして「神主さまどうかされましたか?」と近づいてきました。
青山は四つん這いの姿勢から渾身の力で狐のように伸びあがって、体重を支えながら彼女を押し倒しました。
「な、何、いや、やめて、神主さま!」
木床に寝かされた女が叫びます。
「嫌なら孝介を呼べ。孝介に助けを求めろ。私は狐だ」
のしかかって上から、彼女の首に噛み付きました。
「助けて! 孝介さん、助けて……!」
戸がぎしりと開いて年若の男が飛び込んで来、その瞬間に青山は脇腹を蹴り上げられて横に転がっていました。孝介はがっしりと女を抱きしめます。
「キス……してごらん」神主は脇を押さえて痛みを堪え、寝転がったまま云いました。
「したくない?」
娘はすっと顔を上げて孝介を見つめます。ふたりの唇はゆっくり優しく重なりました。
青山さまは本殿に戻り、用意されていた布団を拝殿側に引っ張り出すと、ぴしゃりと引き戸を閉めたそうです。その後ふたりがどこまで進展したかは、静香従姉さんにも内緒だとのこと。
代わりと云ってはなんですが、ご祈祷を依頼した若奥様と神主さまは、この物語の夜、産後久々に夫婦の絆を確かめ合ったそうです。
青山さまも静香従姉さんも古稀に達することなく他界してしまいました。淋しいことですが、神社は子や孫が継いでくれ、お参りしてくださる方もあり細々ながらも存続しております。ありがたいことでございます。
取りとめもない話をしてしまいましたが、戦後平和の道を歩いてきたはずの日本、さてどこまで進歩しましたやら。
国の違い、信条の違い、さまざまな差異、二度と戦争などないように、偏見に凝り固まらないように、必ずわかり合える筈だと最後の最後まで言葉を使う努力を怠らないようにと願いながら、この老婆の話を終わらせていただきます。
* 読んでいただきありがとうございました。心より御礼申し上げます。
**11月11日付砂礫零さまあての感想返信において、日本が太平洋戦争に踏み切った経緯を「いじめにあっていた」と表現してしまいました。これは当時ののっぴきならない情勢を考慮すると、事実を軽視した不適切な例えであったと反省しています。返信自体を削除することも考えましたが、いただいた一連のご感想とやりとりをそのまま残した方が、戦争を考える機会になるのではないかと感じましたのでそのままにしてあります。不快に思われる方がありましたら即ご連絡ください。当該返信の削除をすぐに対応させていただきます。





