戦時中に流行ったご祈祷
お話したかったのは兵役を逃れた神主さまのことではないのです。戦争というものが私たちにどんな影響をもたらしたか、です。このお話をするためには、20歳の神主さまが何故社におられたかお知らせする必要があると思っただけでした。
当時昭和19年、米軍が本土空襲を始める、いずれは本土に上陸されるとの噂は日増しに強まりました。防空壕へ入る回数も増えます。そんなときに神社はすることなどないだろう、焼夷弾を落とされれば一気に燃え上がる木造建築、境内の隅に皆で防空壕でも掘ったのか、と思われるでしょう?
なぜか、ご祈祷の依頼が増えたのです。それも夜間の。
私は14歳になる手前ですから、夜のご祈祷の内容をすぐには教えてもらえませんでした。「空襲があっても大丈夫なように、心安らかにいられるように祈るのだよ」と父に云われ、そういうものかと思っていたのです。
青山さまは相変わらず本殿に籠っておいででした。詐病であると官警に云いつける者は信者にはいませんが用心に越したことはありません。
栄養不足で立って歩くことができないのは本当でしたが、気など狂っておらず猫のあやかしが憑いた振りをしただけだったのです。
うちのお神楽舞には狐振り、狐の真似をする演目があるので、舞の得意な青山さまには簡単だったのかもしれません。
お社には風呂がありません。小さなお手洗いと水道、流し、薬缶とひと口コンロがあるだけです。不便ではありましょうが、あの頃誰しも毎日お風呂に入れたわけではありません。湯を沸かし身体を拭く日も多ございました。
夏に静香従姉さんは可愛らしい女の赤ちゃんを産み、週に一度くらいはこっそり社で家族の時間を過ごされていたように思います。
ある秋の日、静香従姉さんは赤ちゃんを連れて社に来、普段できていない拭き掃除を手伝ってくれました。
「はぁ、もうやになっちゃうわ。どうして青さんあんなにモテるのかしら」
「そりゃ、青山さまだもん、教団上げての人気者に決まってるよ」
加代ちゃんのおむつを替えながらいつも眠たそうな従姉さんは私をじっと見つめます。
「琴ちゃんも青さん好き?」
「え? うん、今はちょっと近寄りがたくて畏れ多いけど、前は一緒に住んでていつも優しいお兄ちゃんだったし」
自分が物心つく頃には青山さまはうちに住み込み、神社に出て父と神官修業をしていました。
「琴ちゃんは日本が戦争に負けたらどうなると思う?」
「そんなこと、話題にしちゃだめだってば」
「アメリカ人のお嫁さんになれる?」
「お嫁さん? なんで?」
「日本がアメリカになるかもしれないってこと」
お社の拝殿の隅にふたりきり、外の者にも聞こえないとわかっているからできる話題です。
「朝鮮を無理やり日本にしたんだから日本がアメリカになることもあるって青さんが」
私はそんなこと思いもつかなくて。
静香従姉さんはふっと笑うと話題を変えました。
「私が青さんと夜過ごせないのに、どうして若い女の子ばかりがご祈祷に来るの? 納得いかない。ねぇ、琴ちゃん、ご祈祷の入っていない次の夜っていつ?」
「明日かな」
私はご祈祷ご面談の予約帳を確かめました。
「じゃ、明日、私予約する。長慶静香及び長慶加代。相談の内容は主人と別居させられていて浮気が心配です」
「そんな嘘っぱち」
「そうよ、でもどんなご祈祷するのか知りたいじゃない」
母親になっても静香従姉さんはおしゃまで茶目っけのあるままです。
数日後に話してくれた「夜のご祈祷」の逸話を敬称略の私の語りで紹介させてもらいます。
―◇―
自分がご祈祷を予約した夜、恨みごとを云いたい静香は神主顔をしていない夫に不貞腐れてみせました。
「ご祈祷多くて大変ですね」
「ああ、妻と娘まで来るとは思わなかった。全く昼夜逆転だ。昼日中に本殿でいびきをかいている神官というのも恰好がつかないな」
青山は新婚8カ月の妻を見つめます。
「身体の心配をしてくれてるわけじゃなさそうだね。何だい、その憂い顔は?」
「だって……」
「さては、叔父さん、先代神主にでも何か吹き込まれた?」
「神官の嫁ならどんと構えときなさいって」
「ハハハ、静香に言えないようなことは何もないよ。若い女の子たちが祈祷を希望してるというよりも、ご両親のほうが心配してるだけだから」
「そんなこと云ったって私には夫が女と夜を過ごしてるだけなんですけど?」
青山は久々にそこで大笑いをしました。
「おかしな話だよね、全くうちの教義に反するよ。僕は反戦主義だし、うちの神社は『音楽に国境なし』と信じてやってきたはずだ。エルガーやガーシュウィンを輩出した国の人々がそれ程鬼畜なわけはない。『蝶々夫人』のピンカートンのような腰抜けはいるかもしれんが」
「占領されたらどうなるかわからないのでしょう?」
「そうだね、イギリスは清国にアヘンを売りつけて骨抜きにしてから戦争に持ち込み、香港を割譲させたって見方もあるからな。国の繁栄と利権が絡むと人は鬼にもなるのだろうか。兵隊たち個人個人はただ自分の家族を守りたいと願っているだけなのに」
「もう、青さん難しい話をして私を誤魔化そうとしてない?」
「してないよ。静香ならちゃんと理解してくれる。若い娘を持つ親としては、敵兵に好き勝手されて泣き顔を見るくらいなら、今の内に僕と夜を過ごさせようとしたくなる。周囲に適齢期の日本人男性は極端に少ない。40歳までもが赤紙をもらっている。だからその気持ちはわからんでもない。例えば加代が17歳だったら、僕だって内心穏やかじゃない」
「私17よ?」
「だから静香には僕がいるだろ? 僕と経験済み」
「いやだ」
静香は夫に何が求められているのかを突きつけられた気がしました。
「僕は気が狂っていて足腰が立たないと云われているはずなのに、奥さんは幸せそうで健康な赤ちゃんを授かっている。今まで折にふれてお参りしてきた一応は由緒あるお宮さんの神主だ。娘の初めてには日本の男を求めてしまうのが親心というものらしい」
「それで……、本当に?」
青山はまた声を立てて笑います。
「だから云えないことはしてないって。全て神主さまにお任せしなさいと親に云い含められてるらしく、本人たちは何をしに来ているのかわかっていない場合が多いんだ」
若き神主は心配顔が治らない妻に、夜神社で何が起こっているか話そうとします。
「大抵浴衣か単衣を着ているだけだ。寝間着姿。そしておろおろ泣いている。僕は祭壇の前に肘をついて横になっている。可哀想だな、心細いだろうなと思う。四つん這いで近づく。女は怖がって震えている。近づきすぎないようにして自分が着ている羽織を掛けてやる。そして祭壇に戻って胡坐をかく。すると女は大抵泣きやむ。不思議そうに顔を上げる。そのまま黙っていると安心してか泣き疲れてか眠ってしまう」
「それだけじゃないでしょ」
静香はそんな端折った話では納得しません。
「そんなもんだよ」
「みんながみんなそうじゃない。それだけで済まなかった人もいるはず」
「どうしても聞きたいの?」
「どうしても聞きたい!」
青山は観念して「じゃあ面白かった夜について語ろうか」と云って話し出しました。





