奥の院にて
東大寺に足を運んだエピソードを元に書きました。
また私の作品「竹の鳴る小径」の対になっている作品です。
裏道というのでしょうか、法華堂から延々と大仏殿まで続く階段の道がとても好きです。
こちらはhttp://dragonhouse.lar.jp/ryoankishida/Top.htmlにも掲載しています
「今年はお一人ですか?」
お坊さんは私の顔を見るとこう言った。
去年、一回しか来ていないのにバッチリ顔を覚えられてしまっていた。
それはそうかも知れない。あんだけハデにやらかしたのだから顔を覚えられてしまっても当然だろう。
「ええ、一人です」私は首をすくめた。
「そりゃ、良いことです。ケンカできまへんからねえ」と、言いながらお坊さんは招き入れてくれた。
一人だと良いのかな?ちょっとひっかかる感じ。
東大寺法華堂。別名は三月堂。天平期の傑作といわれている仏像がずらりと並んだお堂。パンフレットによると、法華堂はたくさある東大寺の建物の中で一番古いものらしい。何でも建てられたのは千年以上も前だとか。
私はここが好きだ。
と、言うよりも好きになった。今はここにはいない彼に連れられて来て好きになった。
場所も良いと思う。
東大寺といえば一番最初に思いつくのは大仏さまだと思う。大きいし有名だし。
その有名な大仏さまの周りはいつも人で一杯だ。大仏さまを見たい人はたくさんいて、いつもたくさんの観光客がいる。そういう場所はくたびれてしまう。町の騒がしさから逃げてきた人間にはつらい。
その点、法華堂は大仏殿と「お水取り」で有名な二月堂に挟まれていて、ひっそりと建っている。
奥の院。
実際、法華堂の周りには派手派手しいのぼりもないし、建物はとても質素だ。法華堂はメジャーな観光地の東大寺にあって「隠れ家」のような気がする。
その隠れ家に私はやってきた。今年は一人で。
素足でお堂の畳を歩く。去年と同じ匂いが私を包む。
法華堂の空気はどこまでも静かで、ひんやりとしている。近鉄の奈良駅から炎天下の中を歩き通してきただけに、余計に涼しく感じられる。
思うに、ここの空気は昔から、それも百年二百年の単位ではなく、千年以上もの間、何も変わっていないのではないか。そんな気がしてならない。今年も去年も一昨年も暑い夏も寒い夏も、いつでも同じ空気が流れている。
一人でいるとこの場所がどれだけ静かなのかが良くわかる。
この静かな場所で去年、私と彼は思いきりケンカをした。それも派手な口ゲンカ。
同じ会社の同僚が私の彼だ。同じ会社の関西支局の人間。実のところ、私をこの場所に連れてきてくれたのは彼だった。
私は毎年、夏の終わりから冬の始まりまで関西の人になる。長期出張がそれだ。その関西支社でであったのが彼だ。
口ゲンカの内容は、彼が会社を辞めると言い出したことだった。
夢がない。いつまでもこの会社にいても仕方がない。先が見えすぎていると彼は言った。
私は会社を辞めるなんておかしいと言った。
彼は夢のない所にいても仕方がないと言った。
私たちは特に「男と女」の仲になったことはない。「彼」といっても別段「彼氏」でもない。三か月だけのちょっと親しいお友達。私が関西の人になっている間のお友達。
私にとって三か月だけの関西出張は楽しみの一つだった。キャリアアップとかいう話もあったりするけど単純に楽しかった。自分の知らない町を歩ける。今までとはまったく違う環境で自分の力を試すことができる。これは私にとって挑戦だった。
その挑戦も三年も続くと飽きる。関東と関西の違いしかなくなって、あとはいつもと同じことの繰り返しになってしまう。
ただ私には彼がいた。彼との三か月だけの楽しい時間を過ごすことが出張の目的になっていて、仕事は二の次になっていた。実際、三年も経てばある程度の仕事は片手間で出来てしまうものだし、そうでなくては長期出張なんてものに出されるような事もないとは思っている。
私はただいつもと同じことを、関西で、彼がいたのでちょっぴり楽しく過ごすことができていた。反対に彼はいつもと同じことを繰り返していく中で不満を積み重ねていた。
彼の不満がこともあろうに、この静かなお堂で爆発した。
壮大な口ゲンカ。
あれから一年が経つ。
「静かでっしゃろ」
回想の中にお坊さんの声が割って入ってきた。
言われてみて思うのはヘンだけど、ここは本当に静かだ。口ゲンカしていた時にはまったく感じなかった静けさ。
今、このお堂には私以外に観光客は二人しかいない。
この法華堂には合計十五の仏像がある。今は人よりも仏像の方が多い。
喋る事ができる人間よりも喋らない仏像の方が多いのだから静かで当然だろう。
「本当は、いつもやかましいんですよ」
えっ?いつもやかましい?
「どういうことです?」
「いっつも学生さんがぎょうさんきたら、そら大騒ぎですよ」
やっぱりだ。こういう隠れ家みたいな場所でも修学旅行生はやってきてしまうんだ。
「大変でしょ、そんなの来たらうるさくなっちゃって」大ゲンカした当人がうるさいって言うのもなんだけど。
「とんでもない。にぎやかになってよろしいですよ」お坊さんはニコニコして言った。
にぎやか?うるさいの間違いじゃないのだろうか?
「案外、お堂のみなさんも楽しんでいるんとちがいますかねえ」
「お堂のみなさんって」
「あちらにおわしますでしょ」とお坊さんはお堂の中心を示した。そこには十五体の仏像があるだけ。当たり前だけど彼らは仏像で、祈りは捧げているのかもしれないけど喋ることはできないはず。
「お坊さんにはわかるんですか?仏像が楽しんでいるのが?」
「さあ」お坊さんは首を傾げた。「そんな感じがするだけですね」
「でも、ここは静かにしていた方が良い場所じゃないんですか?」
「そんなことありまへん」お坊さんは言った。
「仏さんも言うてはりますよ。賑やかなのは今日も世間が太平だってことでっしゃろ。学生さんがぎょうさん来てくれるっちゅうことは、それだけ世の中が平和なんだなあ、と本尊もおっしゃってますよ」
へえ、そんなものかなあ?
「お坊さんは会話が出来るんですか、ここの仏像と」
「とんでもない」手を振ってお坊さんは否定した。「仏さんは喋りもしまへんし、声も出されまへんから」ごく当たり前のことを言った。
仏像は喋れない。口はあっても声を出すことは出来ない。会話ができないのは当たり前。
「ただ」尻上がりのイントネーションで言ってからお坊さんはお堂中央の十五の仏像の方を向いた。
「おしゃべり出来なくても会話はできまっしゃろ」
えっ?これって禅問答?
どういうことなのだろう。
「いくら声出して喋ってみてもまったく相手に伝わらない会話もあるでしょ。反対になんにも言葉がなくても十分な会話もあるんと違いますか?」
やっぱり禅問答だ。
言葉のない会話なんて成立するのだろうか?
反対にいくらたくさんの言葉を並べてみたって伝わらないのであれば会話じゃないということなのか。
「では、ここで靴を脱ぐことー」
お堂の外からそんな声が聞こえた。ひょっとして・・・。
「にぎやかになってきましたやろ」お坊さん言った。「ほな、ごゆっくり」そう言って私の前から消えた。
お坊さんがいなくなって、入れ替わりに大量の修学旅行生が現れた。
とても若々しい声がどっと押し寄せてお堂はたちまち人で一杯になった。
潮時。
別にこのお堂は私のためだけにあるのではないし、拝観料を払えば誰でもここに入ることが出来る。遠い昔は修学旅行生だった私が、今の修学旅行生に文句を言うのもおかしな話だ。でも私的には、今は賑やかなのはちょっといただけない。ぎっしり詰まった靴箱が恨めしくもあり、うらやましくも思えた。
「もうお帰りでっか?」
靴を履いている時にお坊さんが声を掛けてくれた。なんだか引き留められているようで、ちょっぴり嬉しかった。
私は軽くお辞儀をした。
「世話焼きかもしれまへんけど、今度は二人でいらっしゃったらよろしい」そう言ってお坊さんはお堂に消えた。
本当、世話焼きだ。
でも本当に、
二人で、また来ることが出来たら良いと思う。
法華堂から二月堂を過ぎた所に下りの道がある。大仏殿の裏から戒壇院へとつながる道。
私はこの道がとても好きだ。
ここは東大寺にあって絶景としか言いようがない場所だと思う。煉瓦の壁に囲まれた九十九折りの階段坂が延びている。降りても良し、登っても良し。お寺というかしこまった場所なのに、これほど写真に撮りたくなる場所は見たことがない。
階段を足を投げ出すように降りてゆく。のんびりとゆっくり降りて行く。
去年、私は彼と一緒にこの道を降りて歩いた。何も喋らなかったと思う。法華堂でさんざん口喧嘩をしたのに、この道を降りる時はまったく喋らなかった。彼と喋らなかったから、他にすることがなかったからか、ここの景色は良く覚えている。
とてもきれいだと思った。
それにとても寂しかった。二人で歩いているのにとっても距離があるように思った。
彼から最後に電話があったのはいつのことだろう。
「会社辞めたよ」
そんな内容だったことだけは覚えている。
「自由になりたくてさ」やけに気弱そうな彼の声が今も少しだけ耳に残っている。
それから連絡がない。
自由になった彼は今、何をしているのだろう。ひょっとして私からも自由になってしまったのだろうか。彼はどうして自由になりたかったのだろう。
私は彼が会社を辞めることは反対だった。別に辞めなくてもいいじゃない。毎年、夏の間だけの楽しい暮らし。それが続けば良かった。いつもよりもほんのちょっぴり楽しい時間が積み重なっていってくれれば。
私はそう思っていた。
でも、彼は会社を辞めた。
彼の悩みと、私の意見はどうやら別の次元での会話だったのかも知れない。
今思うと、私は彼との楽しい「夏休み」が楽しみだったから、彼に会社を辞めないでと言っていたのかもしれない。
どうなの本当は?
あなたは彼と会話ができなくなることが怖いのじゃないの?
楽しかった。楽しくて楽しくて、他に何もいらなかった。楽しい出張の時間にとって付けるものはなにもいらないと思っていた。
でも、私には彼が足りないと思っていたものが解らなかった。
彼は会社を辞めた。足りない何かを探して。
あなたは彼とのたのしい夏休みが二度と来ないことを怖がっているのではなくて、彼との時間がもうやってこないことの方が怖いのじゃないの?
ふと、お坊さんの言った言葉が耳に蘇ってきた。
私と彼は声に出してのおしゃべりはしていたけれど、本当の所はなにも伝わってなかったのかな?
声はあるけど伝わらない会話。
私たちはどっちの会話をしていたのかな?
もっともっと、たくさん会話をしなくちゃ。それもキチンと伝わる会話。静かでも、うるさくても、声があってもなくても二人でわかり合える会話。
そうしたら、場所はあそこしかない。私と彼が大声でケンカをやらかした奥の院。
今度も二人で派手なケンカをやらかそうかな。
静かな奥の院で、派手なケンカ。
お坊さんも言ってくれるかもしれない。
「やっぱり二人で来る方がよろしいでしょ」って。
読了ありがとうございました。