藤堂組若頭の決断
「わざわざすんません、お嬢」
じーさんが所有している高層ビルの、最上階にある組事務所に着くとそこには、黒瀬だけが待っていた。
どうやら人払いをしたらしく、嫌な予感が頭を過ぎる。
「別に良いよ。金曜だし、丁度走らせたいと思ってたところだから」
それを無理矢理胸の底に押し込め、黒瀬に勧められた応接室の大きな革張りのソファに腰掛けると、スッとお茶が出てきた。
「……もしかしてこれ、あんたが淹れた?」
向かいに座った黒瀬とお茶を交互に見遣り、眉を寄せつつ尋ねると、
「いえ。加代さんに淹れて貰ったもんを、持ってこさせました」
加代さんとは、本家で五十年働いている御年八十二歳の家政婦のばぁちゃんで、若頭の黒瀬は元よりじーさんでさえ頭の上がらない、藤堂組の影のボスと噂される人物だ。
もちろん、影のボスというのはあくまで噂で事実ではない。
「そ。それなら安全だね」
安心して口にした緑茶は、まろやかな甘味と程良い渋みで渇いた喉を潤してくれる。
「…………」
黒瀬はどういうことかと苦味走った顔をしたが、私は素知らぬ顔で緑茶を飲み続けた。
一見完璧人間に思える黒瀬だが、実はお茶を淹れるのだけは下手で。何故かいつも、どういう淹れ方をすればこうなるのかと思う程の、滅茶苦茶渋いお茶が出来上がってしまうのだ。
まだ彼が下っ端で私が子供だった頃、良く加代さんとの特訓で怒られていたのを思い出しフッと笑うと、それを察した黒瀬は居心地悪そうにコホンと咳払いをした。
「お嬢。昔のことですから」
「そうだね」
まぁ若頭になった今はもう、自らお茶を淹れる必要性は皆無なので、昔のように大事な客人を怒らせたり、食事の席でじーさんが盛大に吹き出したりと、誰かに迷惑を掛ける訳でもないだろうから、お茶の一つくらい淹れられなくても差して問題はないだろう。
「──それで。話って?」
一頻りクツクツと笑ってから、お茶を飲み干し顔を上げると、黒瀬はフッと眉を顰めてどこか苦しそうな、悔しそうな顔で私を見詰めた。
「お嬢……」
「……?」
何でもストレートに話す黒瀬にしては珍しく言い淀む姿に、胸の奥がザワザワとざわめく。
「おやっさんには、堅く口止めされてるんですが……」
胸のザワザワを鎮めようと知らず拳を握り締めると、掌にじっとりと汗を掻いていて気持ち悪い。
「医者先生の話では、おやっさん……癌で、あと半年、持たねぇそうです……」
「っ!?」
胸のザワザワの正体に、愕然とする。
つい一ヶ月程前、実家からの呼び出しで病室に駆け付けた時にはただの捻挫で。いつもの飄々とした態度で明るく笑っていたのに。
三日後には、退院したと聞いていたのに。
それが……癌?
余命半年?
「……どういう、こと?」
内心の動揺を隠して漸く絞り出した声は、自分で思っていたよりも掠れた声しか出なかった。
「それが……」
黒瀬の話を要約すると、一ヶ月前のあの時、念の為にと色々検査をしたところ肺に悪性の腫瘍──癌が見付かり。医者からは既に手遅れだと診断されたという。
そしてこの一ヶ月、唯一真実を知らされた黒瀬は方々駆け回って何とか助かる道を探したのだが、手術をするにも既に全身に転移していて摘出が難しい上に高齢であるため、何時間もの手術には耐えられないだろうということが解っただけだと言うのだ。
「なんで。黙ってろ、なんて……」
淡々と告げられた事実に呆然としつつ呟くと、
「……そりゃもちろん、お嬢に心配掛けたくないからでしょう」
「唯一の、肉親なのに?」
そう──。
藤堂吉之介には、私の父・藤堂英介しか子供がおらず。
既にじーさんの兄妹も戦争と病で亡くなっていたので、八代目を継ぐのは英介の筈だったのだ。
しかし私が三歳の時、母と出掛けた海外旅行で飛行機事故に遭い、その英介も亡くなってしまい。
唯一遺されたのが、英介の一人娘。つまり私しか居なかったため。
文字通り、お互いがたった一人の肉親なのだ。
「唯一の肉親、だからでしょう」
「…………」
ヤクザな商売柄、昔から色々無茶をして私に心配を掛けてきた祖父が、これ以上心配を掛けまいと思い黙っているようにと配慮したのだろうことは、歴然で。
遣り場のない悔しさと怒りに、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「それで……お嬢。こんな話をした後に、大変申し訳ないのですが、一つ、急ぎ解決しなければならない問題がありまして、ご相談が」
「…………何?」
じーさんの病気のこと以外に何があるのかと少し語尾を強めた私に、黒瀬は何かを吹っ切るようにひとつ息を吐くと、睨む私の瞳としっかりと目を合わせ、こう告げた。
「大宮の、龍一ぼっちゃんと、夫婦になって下さい」
「な──っ!?」
私を見詰めるその瞳はどこまでも真剣で、冗談でも何でもないことは見て取れる。
私はと言えば、突然告げられたその二つの事実に瞬きをすることすら忘れ、ただ黒瀬のその黒い瞳を見返すことしか出来なかった……。