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夏のある日のことだった。幼少時からの愛読書を片手に、リアンは一人の侍女と共に庭へと赴いていたのだ。
王宮は広く、城門から入り最奥まで進むと、そこには海を臨める場所がある。そこは外から覘けば崖のようになっており、他に景色を邪魔する物が何もない。海が大好きなリアンにとっては最高の場所だった。
急に告げられた婚約の話。つい先日にはその彼との逢瀬もあり、リアンはどことなく疲れを感じていたのだ。
近頃は多くのことがリアンの周りで起こりすぎていた。そのせいで色々なことが、まだリアンの頭の中で上手くまとまっていない。
そしてそのもやもやとした気持ちは高まる一方で、お気に入りの萌黄色のドレスを着ようとて、晴れることはなかったのだ。
だからだろう。たまに与えられる自由な時に、この場所を訪れたのは。
「リアンはその本が好きなのね」
「ええ」
侍女の言葉に頷くと、リアンは本にいとおしげな視線を落した。
幼い頃から姉妹のように、この侍女とリアンは育ってきた。
そのせいもあって、この侍女だけはリアンと普通に――それこそその歳相応の少女達のように言葉を交わすことができたのだ。
他の侍女や騎士、ましてや姉などとはとてもじゃないが、リアンは普通の会話をすることはできない。いつも畏まってしまう。
つい先ほども他の侍女達を説得して、彼女だけを連れてきたほどだ。
その侍女はリアンの持つ本の表紙をそっと見ると、口元をほころばせながら尋ねてきたのだ。
「何がそれほど、リアンを夢中にさせるのかしらね」
しかし何と聞かれてリアンの脳裏に浮かんできたのは、たった一つ。あの光景。
「んー、そうね。……ここには私の知らない世界ばかりが、広がっているからかもしれないわ」
「まあ。それではリアンは、世界を駆け巡る海賊にでもなるのかしら」
くすくすと口元に手をやりながら、侍女はそう言ってリアンを見やった。
リアンも「そうね」と頷きながら、白い薄地の手袋をつけた手をそっと口元まで持っていき、ふふっと笑った。
「その時はきっと、どこよりも面白い海賊団にしてみせますわ」
その数日後、満ちた月の見守る晩に、リアンは城を抜け出したのだ。
お気に入りの萌黄色のドレスを着、片手には愛読書を持って、こっそりと。
人の眼を盗み、上手い具合に逃げ切ったリアンは、その日のうちに自慢の髪をばっさりと切り捨てた。違う色の瞳を隠すために、眼帯もつけた。服もドレスから男物のそれへと着替えた。
月が照らすその中で、リアンはリヴィーへと生まれ変わったのだった。
それは二年と半年以上も前の、夏のある夜。
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「俺が逃げ出しでもしたら、国中はきっと大騒ぎになるって、そんなことは知っていたさ。案の定城を出た翌日にはもう、知っている顔が駆けていくのを幾度も見送ったからな」
言うなりリヴィーは自嘲気味に笑った。
「罪悪感は勿論、それなりにあったよ。それにこの国ではさ、やっぱり海賊って悪い輩だし。……仮にも王位を継承する王女がさ、家出に加えてそんなヤバイことをしちゃって良いわけないよなって思った」
国家総出の捜索作業は、今なお続けられている。彼との婚儀はもうすぐそこまで迫っているのだ。そんな時期だからこそなお、彼らは血眼になってリアンを探しているのかもしれない。そこでこんなことがバレでもしたら、一体どうなることであろうか……。
「城を出る前から、薄々解っていたんだ。俺はどうしようもない馬鹿王女なんだろうなって」
笑っちゃうよな。
そう言うとリヴィーは苦笑して、だが一変、いつもの精悍な表情に戻るとグリスとシフォーリルを見つめ返してきたのだ。
「でも言っておくけど、この道を歩んできたことに、俺は今まで何一つ後悔したことはねぇからな。こんな大切な仲間達にも出会えたことだし」
ましてや初めて自らで、自らの世界を変えたのだ。この生活が嫌だと嘆いたことは、一度もない。
誇らしそうに虚空を見つめるリヴィーに、グリスがやんわりと口を挟んだ。
「けれど、リア――」
「『リアン王女』っつったらテメェ、本気で殴り飛ばすからな」
「ぇ、えとッ。リヴィーさんのことは、大筋解りました。リヴィーさんとリアン王女が同一人物であることも納得しました。けれど……そうしたら、先ほど見たリアン王女のことは、どう説明をつければ良いのでしょうか」
ドスの効いた声で脅し混ざりの訂正をされたグリスは、額に汗を浮かべながら記憶を辿った。
確かに先刻シフォーリルが言ったとおり、彼らはリアン王女を追って、ここまでやってきたのだ。リヴィーがリアンなのだとしたら、あのリアンは何だと言えよう。
「ありゃぁ、きっと出たんだろうな」
しかし大して驚いた風もなく、リヴィーはさらりとそんな不可解な言葉を返してくる。
「出た?」
疑問に満ちた声音で、シフォーリルは聞き返した。
「そ。人の姿を勝手にかっぱらう妖精・ギリュアがな。どうせ俺の心でも読んだんだろう」
へっと乱暴にため息を吐き出すと、リヴィーは王女にあるまじき上腕二等筋をもう一方の腕で引き寄せ、軽くストレッチをした。
それから指の関節を片手ずつ、バキバキと鳴らしていく。
「ま、正直俺の方がビビッたよ。『何で俺がこんなところにいるんだよッ!』て。しかも半端なく足速ぇし」
軽く敗北感味わったな。
そう言うがリヴィーはいつもの笑顔を取り戻し、二人に向かって手を差し伸べてくる。
「けれど、俺は俺だ。例え周りが何と言おうと、俺は確かにこの海賊団の船長で剣士で、そんでもってリヴィー・グラディスなんだからな」
だから忘れるなよ。今だけは俺が、王女じゃないってことをさ。
穏やかな声が、暗闇の中に響く。
リヴィーの手を取り二人が立ち上がると、翠の明かりは嬉しそうに舞い降りていった。
「行くぜ、野郎ども。目指すはここの出口だ!」
今までにない歓喜の声を上げながら、三人は歩みを再会させた。
闇へと突き進む足取りは、どこまでも軽い。
遠くに白い点が見えたのは、あれから小一時間歩いてのことだった。歩けば歩くほどその点は大きく、よりはっきりとした姿を現してくる。
暗闇の終焉だ。
三人は互い顔を見合って、それからへへっと笑いあった。足取りは魔法でもかけられたかのように軽い。まるで今まで渦巻いていた不安や心配も、全て吹き飛んでいくかのようだった。
今なら空の彼方まで飛んでいける気がする。
タン――ッ! とリヴィーは一歩、踏み出した。思わず駆け出した足。両の腕を大きく振りながら、風に溶け込んで光を目指していく。
飛べ。羽ばたけ。
そんな幻想を抱きながら、それでも一心に。
リヴィーの後を追って、二人も軽快な足取りで走ってくる。翠の光が軽やかにふわりと宙を舞った。
川のせせらぎは、どこまでも一緒についてきてくれる。どこか力強いような錯覚。そんなものを感じながら、三人は光ある場所へと飛び出していったのだ。
途端、世界は一気に解放され、すぅっと何かが抜けていく音が耳に聞こえる。
今まではまるでなかった爽やかな風が、三人の髪を服を揺らしていった。思わずほうっとリヴィーは瞳を細める。
そこはあまりにも美しく、どんな場所とも似つかない風景が広がっていたのだ。
丸く切り取られた、広大な空間。そこを包み隠すように、今しがたリヴィー達が抜けてきた灰白色の岩山が取り囲んでいる。
そして足元には、綺麗な草花が一面に咲き誇っていた。中央にはそれほどでもないが森があって、そこを目指すようにあの川の水がちろちろと流れている。川の終点は澄み渡った泉になっていた。
断崖に囲われた楽園。――だがそれだけで片付けることなど、到底できなかったのだ。
何よりもリヴィーが己の眼を疑ったのは、絶壁の合間から垣間見える空の色だった。そこに浮かぶは、夜明け直前の色。明るみを増すばかりの蒼闇と、微かな茜が入り混じっているではないか。
まるで本で読んだような風景。あの海賊達がたどり着いた、最後の楽園のようだ。
高まる興奮と、それを抑える威厳と。はたしてどちらがリヴィーの本心であろうか。リヴィー本人でさえ、その真相は解らない。
ただ言葉にしないながらも、胸には満ち満ちる感銘が今のリヴィーを支配していた。見開かれ輝きを放つ双眸が、それを物語っていたのだ。
そしてそれは何も、リヴィーだけのことではない。隣にいるグリスもシフォーリルも、リヴィーと同じような表情をしては、切り取られた天空をじっと見つめていた。
明けの星が、朝の空でひときわ輝きを増していく。蒼闇は徐々に、茜色と混じっていった。そして世界は金色に彩られていったのだ。
「―――」
彼らは一様に、天を仰いだ。するとそこにいたのはかなりの大きさを誇る、金色の一羽の鳥が羽ばたいてゆくではないか。
長い尾羽を宙で踊らせ、ルビーのように麗しい赤い瞳で、この切り取られた地上を見つめていくのだ。
そして奇蹟は、徐々に花開いていく。
今まで静かだった、この楽園。しかし鳥の放つ金色の光に包まれた途端、多くの草花が咲き誇り、動物達が姿を現してくる。
それも、どこでも見ることのできないような見知らぬ動物ばかりが、そこには集っているのだ。そのどれもが威光ある出で立ちをしており、動くことさえ憚られるほど。
金色の鳥は光を存分に与えると、やがて上空を旋回し始めた。
その瞬間、この場にいる動物達も行動を始め、穏やかな風景がそこに描かれてゆく。
動物は草を食み、清い水に口をつける。鳥は木々を渡り戯れては、甲高い鳴き声を響かせてゆく。青い鳥が夜明けの空に溶けゆくように、ふわりふわりと飛んでいった。
「……ディファーラだ…………」
吐息よりも小さな声で、リヴィーは呟く。
ディファーラだ。
ずっと捜し求めていた、最後の楽園。この最果ての孤島に、それはあったのだ。
高鳴る胸の音は、もうとめることなどできやしない。感動のあまりに口を閉じることすらできず、しばし彼らはその光景に見とれていた。
「――なぁ」
正面を向いたまま、リヴィーは口を開いた。
やはりそれは小さな声で、けれどこの空間ではやけに大きく聞こえる。
リヴィーの言葉を聞いた二人は、はっと彼に視線を向けた。感動に輝いている背中が、その目に映る。
静寂に包まれた、幸せの空間。
この地上に与えられた最後の楽園に、鳥が一羽、また一羽と羽ばたいていった。
リヴィーはゆっくり、振り返る。
そして柔らかで優しい表情をその顔に浮かべながら、リヴィーは互い違う双眸を細めた。
光射す全ての始まりの時間の中で、それは他に類を見ないほどの幸福感に包み込まれている。
リヴィーはすぅっと微笑むと、言の葉を紡いでいった。
「戻ろうか。このことを奴らにも、聞かせてやりたいからな」
その声は今までにないほど、穏やかだった。
ブロンドの髪が、そよ風に靡く。
世界は再び、動き始めた。