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青き大地の果てに

『挙式はお前が十七になった春に行うと決まった』

 国王である父――グランチェスからことを聞かされたのは、リアンがまだ十四の時。草花が長閑に咲き誇る初春の、普段と何一つ変わらない日だった。

 だがその衝撃は幼いリアンにとって、あまりに大きなものであったのだ。頭の中で夏の陽光が輝くような、煌きとも痛みとも付かない妙な感覚にリアンはぼうっと襲われる。

 あまりに突拍子もない告白に、リアンはしばし口をきけなくなってしまった。グランチェスの言葉の、その真意を見出せないでいたのだ。

 とはいえ悪くはないリアンの頭だ。理解してから受け入れるまでの過程は、何とも早いものだった。

 もとよりリアンは、第三とはいえ王女という身の上。それに交際している男性だって既にいる。いつかは解らない。けれどそう遠くない未来に彼と婚約するであろうことは、どことなく予想していたことだったからだ。

 だが予想していたとはいえ、これだけの衝撃を正気で受け止められる者が、はたして幾人といるであろうか。ましてやまだ、リアンはたった十四の少女。いくら王宮という特別な環境で育ったとはいえ、これから一層の輝きを見せるであろう時期の娘がだ。どうすればこの真実と向き合えよう。

 勿論リアンは交際している彼のことを、けして嫌ってなどいない。むしろ愛しているし、それは確かな事実である。しかしそれ以上にやりたいことが、今のリアンにはあったのだ。

 思えばこれから歩んでいくリアンの人生など、今よりも縛られた生活を余儀なくされてしまうのだろう。瞼裏に鮮明と浮かぶ窮屈な生活は、最早確信といっても過言でない。

 またそもそもにして、この稀少な瞳を持って生まれてしまった以上、リアンにとってそれは避けて通れない道なのだ。

 だから挙式をあげる前。まだ幾分自由な時に一度でも――

「はい、父上」

 胸に痛みを感じながらも深々と頭を垂れる。ブロンドの美しく長い髪が、それに伴ってするするとリアンの美麗な顔を覆っていった。悔いの残る胸の内に、彼女はそっと蓋をする。

 ――一度でもこの夢が見たかったな。


     †


「親父ぃ、酒樽一本プリーズ!」

 二人の男を従えた若い青年は、酒屋に入るなり大きな声を上げた。カウンターで暇そうに頬杖を付いていた酒屋の親父は元気すぎる男達を見ると、のっそりと頭をもたげる。

「何だ、リヴィーじゃねぇか。こんな朝っぱらから一体何の騒ぎだってんだ」

「いやぁ。もうこの町ともおさらばかなって」

 リヴィーと呼ばれた者は軽い足取りで親父に近づくと、後頭部を掻きながら大口を開けて壮大に笑った。

 しかしそれを見ていた親父の顔は驚きに満ちている。厳つい表情も今ばかりは、それを保てないでいるようだ。唇は無意識のうちにわなわなと震えている。

「おさらばってお前、……もう発つのか?」

「ああ、昼過ぎにでもな」

 あまりに唐突なものだから、親父の声は僅かに上ずっていた。それでもリヴィーは気付かないとばかりに微笑を浮かべると、「なぁッ」と後ろにいる男達に声をかける。

 双子なのだろうか。鏡から抜け出したみたくそっくりな二人は、短い黒髪を揺らしながら互い相向かいに首を傾げ、「ねーッ」と明るく肯定的に頷いてくる。

 そんな彼らを見ていた親父は嘆息するなり、そうかと一つ頷いた。そこには先ほどまでの驚きは、もうない。何らかの決心が、親父の中でついたのだろう。そうか、お前らも海賊だもんな。と口の中で転がすと、親父は懐かしむようにして三人の姿を見やった。そしてやがて、親父は穏やかにその口を開く。

「お前らがいなくなると、この町も静かになっちまうねぇ」

 というのもこの海賊団が来てからは、この町は毎夜毎夜がどんちゃん騒ぎだったのだ。

 普通は海賊なんぞといえば、周囲からは恐れられ敬遠される存在でしかない。勿論最初は、彼らも敬遠されていた。海賊にかかわっちゃいけない。奴らも海賊なんだ、と。

 それなのにいつからだろう。彼らはこの町の者達と、心から打ち解けていたのだ。仕舞いには初め怖がっていた住人達が、進んで彼らの輪に混ざっていたというほどの事実。それほどまでにこの場所で、彼ら海賊団は愛されていたのだ。その結果がこれだ。

 けれどそんな奴らとも、今日でお別れ。親父が寂しいと思うのも当たり前のことだ。

 リヴィーもそれを感じ取ったのだろう。その表情には微細ながらも悲しい翳りが差している。だがそれでも心配させまいとして、リヴィーは大仰に肩をすくめると一つ笑って見せたのだ。

「いいじゃねぇか。そのほうがきっと、この町にしてみても平和なもんだぜ」

 なんてったって俺達、海賊だもんな。

 そう明るく振舞うと、リヴィーは親父の肩を気兼ねなくぽんと叩いた。

「確かにそうかもしれない、がな……」

 だが親父はといえば、どこか気に食わないと言わんばかりに口を『へ』の字に曲げている。そして「ほれ、邪魔だ」とリヴィーの腕を払いながら、酒蔵の方に足を向けていってしまった。

 若いのが余計なお節介をかけやがって……。

 バレバレなリヴィーの気遣いに親父は嬉しく思う反面、どこか癪だと思いながら、荒い鼻息と共に言葉を吐き出した。冷たい土の床に、親父の足音が吸い込まれるようにして響いていく。

「なあオイ。酒、でかいのと小さいの、どっちだ?」

 するとしばらく酒蔵を覗き込んでいた親父が、首を廻らせそう言い放った。カウンターに肘をつき気を抜いていたリヴィーは、突然かけられた言葉に不意打ちを喰らう。だがすぐに気を取り直すと「ちっさい方」と答えた。

「何だよ。海賊ならもっと買っていけって」

「いやぁ、こちとら金欠でさぁ」

 貧乏性? と苦笑するリヴィーを横目に、さっさとその双子でも呼べと親父はぶっきらぼうに呟く。

「だがここを出るんなら、お前達も気ぃつけな。この辺りじゃ海賊はみんな、王家に疑われているらしいからな」

「疑い? ……あの姫さんのやつか?」

 カウンターから身を乗り出すと、リヴィーは親父の後ろ姿を見つめた。

「ああ。この国で野蛮なやからって言ったら、お前さんみたいな海賊しかいないからな。王女が誘拐されたっていうのを見ている奴もいるらしいし、疑われたってしかたがねぇ」

 そう言うと親父は振り返りながら、リヴィーの碧い隻眼せきがんをじっと見つめてきた。そこには軽蔑ではなく、心配されているような色さえ含まれている。

 リヴィーは「あー……」と唸ると、ブロンドの肩まで届こう程の髪を乱暴に掻き回した。その拍子でつけていた黒の眼帯が僅かにずれるが、そんなことなど気にも止めない。分けられた前髪から覗く左目を細めると、リヴィーは心配すんなよと小さく洩らした。

「姫さんを連れ去ったのがどの海賊団かなんて、俺ぁ知りゃあしねぇよ。でも俺達なんざ、まだまだ若造だぜ? しかもすっげぇ少数。捕まえたところで何の特にもなんねぇって」

「けどよ、お前らってば最近やけに有名じゃねぇか。『海族バフリーらしい海賊パイレーツ』ってな」

 そう言うなり親父はやって来た双子を見、それから再度リヴィーを見やった。

 海族バフリーとは海賊とは違い正当な航海や公益を目的とする、いわば人畜無害な海の民だ。

 確かにリヴィー海賊団とは名ばかりで、海賊と名乗っていながらも未だ悪事を働いたことがない。のんべんだらりと航海をする姿は、まるで海族バフリーそのものだ。

 もっとも海賊旗ジョリーロジャーを掲げている時点で、世間では一応、海賊として見られてはいるらしい。だが海賊旗ジョリーロジャーをつけようと言いだしたのはリヴィーの独断で、それもどちらかと言えば用心のためだ。

 何しろ海族バフリーは海賊と同じ土俵にいるがために、最も彼らの標的になりやすい。海賊に狙われて海の藻屑もくずとなった海族バフリーなど、もうどれほどの数になるだろうか。その数は幾つとも知れていない。それに元々、海賊とは自分より弱い立場の者を襲う習性がある。利益を得るためには、それは当たり前のことなのだ。

 それ故に海賊は海賊旗ジョリーロジャーを見ても、彼らは特にぶつかり合うこともしやしないのだ。野蛮な輩同士で戦い、そこで何かを得たとしても、多大な犠牲を負う確立のほうが圧倒的に高いからだ。

 そこに生じる利益は、ほぼ皆無。そんな無益な戦になど、利益を求める海賊が進んで応じるであろうか。余程のことが起こらない限り、その戦渦せんかに巻き込まれる心配はない。

 だからリヴィー曰く、この大海原で姿を晦ますにはもってこいの道具だったというわけだ。この海賊旗ジョリーロジャーが。

 フッと笑った親父は双子の片割れに樽を担がせると、その尻をパシンと叩いた。その顔はもう先の荘厳さをたたえている。

「ま、一応用心だけはしておけ。……って、海賊共に肩を持つのもおかしな話だけどな」

「ははっ、確かにな」

 ここに料金置いとくぜ。と金を置くと、リヴィーはカウンターを両の手で押し、きびすを返していった。双子達は店を出て行こうとするリヴィーの後についていく。

「世話になったな」

 それだけ言うと振り返ることもなく、リヴィーは部下と共に港の方へと向かっていった。

 珍しく面白い海賊だったという親父の声を、聞くこともなく。


 リアン・ヴィス・ジュニティー・クルス第三王女が行方不明になって、もう二年と半分の年月が流れた。

 大きな島とそれを取り巻く数多の孤島からなるバリス王国には大きな山がなく、その土地柄か海賊ばかりが生まれていた。『悪いことをする奴は、きっと将来海賊になる』とまで言われるほど、その存在は盗人よりも悪名高い。だからだろう。リアン王女の失踪には、きっと海賊がかかわっている。そう巷で囁かれているのは。

 しかし真実はまだ何一つとして解ってはいない。目撃者だと名乗る者は蟻の如く現れ、一様に王女は海賊共に攫われたのだと口を揃えているのだが、それが面白いほどに、どの海賊団なのかさえ一致しないのだ。――いや、そもそもにして目撃者が口を揃えて「忘れた」等と言葉を濁すものだから、真相がはっきりしないというだけなのだが。

 リアンを攫った犯人がいるのかさえ本当は解らない。犯行文や何か王女を攫ったとされる証拠があれば捜査も進むのだが、生憎犯行文はおろか、靴跡の一つさえ見つかっていないという始末。王女の家出ではないのかとの声も多かれ少なかれ囁かれてはいるのだが、これが何とも不可思議な事件なのだ。

 また姿を晦ませたのがリアン王女であることが、何よりもいけなかった。何しろ彼女はこの国の王女であり、王位継承者という身だ。

 というのも面白いことに、王家には必ずオッドアイの子息が生まれてくる。古よりこのバリス王国で、オッドアイとは国を守る者にのみ与えられる、最もとうといものとされていた。それ所以、王位継承権は必ずこの双眸を持った者にのみに受け継がれるのである。

 王位継承者であり婚儀を間近に控えられた者が突然いなくなったとなれば、それは国民も揃って騒ぎ立てるに決まっているであろう。後継者がいないだなんて、国家的問題も甚だしい。国中を震え上がらせるには十分な威力をも持ちえている。

 そうか。リアン王女がいなくなって、そんな大層なことになっていたのか……。

 爽やかな潮風を浴びていたリヴィーは遠くを眺めながら、ふとそんなことを思った。

 そりゃそうだよな。一国のお偉いさんがどこかに消えたんだもんなぁ。しかもこの国には海賊くらいしか野蛮な輩はいない。疑われてなんぼじゃねぇか。

 自然とこぼれるため息を隠そうともせずに、リヴィーはそのまま甲板に寝転んだ。

 木製の船体は太陽の熱を存分に吸い取っていて、背中は芯から温まるかのようだ。もっとも常夏の国だから、そんなものはただの有難迷惑にしかならないのだが、それもしかたあるまい。

 まっさらな空から目を背け小さく唸り声を上げると、リヴィーはごろんと一つ寝返りを打った。はてさて。どうすれば敵に回した王家から逃れられるだろうか……。

「おーう、リヴィーちゃん。そんな所にいると踏んじまうぞー?」

 すると頭上からは間の抜けた声が降ってくる。あ? と首を捻れば、そこには長い真紅の髪がなびいていた。そのせいで表情こそよく見えないが、海と同じ色をした碧い空を彩り照らすように、紅い髪の合間からは輝かしい陽光が僅かに漏れている。

 瞼の上に腕を乗せながら、リヴィーはめんどくさそうに身体ごと捻った。

「いーやーだー。踏んだら殴るー。ぜってぇ殴るー」

「殴るなんて言うなよー。船長のくせにつれないなぁ、もうっ」

 そう言うなり、赤毛の青年はギューッとリヴィーに抱きついてきたのだ。

「うるせェ! てか抱きつくなよローラン! 一体何のマネだ!」

 リヴィーはおもいきり不満を撒き散らすが、何か思案する風にローランは唸り声を上げ、

「んー。しいて言うならさ、やっぱり夜這い?」

「このド阿呆、まだ昼間だ!! ……っじゃなくてッ。何危険なこと口走ってんだよ!」

 ローランに抱きつかれたリヴィーは顔を真っ青にしながら、じたばたともがき苦しむ。だがそれも長身のローランの前ではまるで、猫に捕らえられたネズミもいいところ。無駄な抵抗とはまさにこのことだ。

 それを思い知ったのか、リヴィーはもがくのを止めると、代わりに覆い被さるローランの頬をギィッとひっ抓んだ。

「テメェ、このクソ」

「いやん。口の悪いコト」

「今すぐ離れろ。これ船長命令」

「だってリヴィーちゃん……」

 しかし当のローランはまったくもって聞く耳を持とうとしない。イラッときたリヴィーは再度もがくと、空いていたもう一方の手をローランの頬に伸ばした。

「ハァ? 何言っているんですかゴルァ。寝てもいないのに何寝言ほざいていやがるんですか?」

「れもはぁ、……っれいらいッ、いらいっれ!」

 ついにはその手をも使い、リヴィーはローランの両頬を抓みだした。「痛い」と連呼するローランを飽くまで無視して、リヴィーは伸びるところまで彼の頬を引き伸ばしてやる。

「さあ観念しな。お前はもう俺を放す以外、何のすべも持たねぇんだよ」

「りうぃーらん〜」

 とはいえローランにはそれも逆効果なようだ。両の頬を抓まれ呂律が回らないながらも、なお喋ろうと試みている。

 こいつは蛇かよッ!! と胸奥で叫びながら、リヴィーは更にその指先に力をこめた。

「にゃろうッ! まだ放す気ねェのか」

 ギャーギャーと半ば取っ組み合いながら二人は騒ぎ立てる。ただ決してボロくはないからとて、ここは船の上。つまり海上なのだ。船が震えているのは、何も波のせいだけではないのだろう。

 それに体力自慢の者が二人揃って暴れているのだ。嫌でもよからぬ破壊音が、そこかしこで聞こえてくる。コバルトブルーに澄み切った空の下、どうしようもない男共を見ながら、ウミネコがみゃーと鳴いていった。

「今日はおめぇの飯なんてないからな! 一人でひもじい思いしていろよ!」

「ひょいまッ……!? 酷いリヴィーちゃん! てか今、モロに舌噛んだんですけどぉぉぉぉぉ!」

「船の上で暴れるからだよ、バーカ!」

「うそ、何で俺だけ!? もしや神のご贔屓ひいきか」

 リヴィーちゃんご贔屓なのか、コノヤロー! とローランは叫ぶ。

 ……が、叫んでいる途中にローランの言葉はまたもや遮られたのだ。

「さァ、そこの邪魔な剣士さん。とっとと船長から離れろや」

 片手にティーセットを乗せながら、青年はローランの背中を蹴り飛ばす。

 巻いた深緑のバンダナの下からは、朝露に濡れたかの如き輝きを放つ短い黒髪を覗かせている。葡萄酒ぶどうしゅを思わせる切れ長の双眸を不快に細めながら、青年はローランの背に足を乗せたままケッと呟いた。

「聞こえないんですか、剣士ローランさん。難聴ですか? それとも歳ですか?」

「二十三で、お前より一つ若いんですけどね。それとも何。もしかして記憶障害だったんですか? 調理師兼剣士のドリーチェさん」

「おう、悪いな。これでも記憶は正常なんだわ。それに俺ァ、お前より頭がいいと誇っているもんでね」

 お前と違って剣だけが取り得じゃねぇんだよ。

 足をそのままにしゃがみ込みながら、ドリーチェはにんまりと微笑を浮かべた。

 また当のリヴィーは二人がそうこうしている間に、ローランの下から抜け出す。養分でも吸い取られたかのような疲労色をその顔に浮かべると、二、三歩ふらつきながら歩き、その場にへたり込んでしまった。肩でする息は、どこか荒い。

「阿呆な阿呆なローランさん。神のお告げだ、今すぐくたばれ」

「んな残酷な神様がこの世にいるかよ! ……ってかリヴィーちゃん、いつの間にッ」

 ずっと背中を踏みつけられながらの口論をしていたローランは、今気付いたとばかりに眼前にいるリヴィーの姿に目を丸くした。

「やっぱりお前はただの阿呆だ、阿呆剣士だ」

 だが一方、その凛々しく荘厳な風貌に似合わぬほどの高笑いをドリーチェは上げている。と、彼はローランをひょいと跨ぐと、リヴィーの前へと舞い降りた。

 あまりに軽やかすぎるその動作。ティーセットのぶつかり合う音もない優雅な雰囲気は、一時前とはまるで違う。

「リヴィー。白薔薇マリアローズのハーブティーを持ってきた。少し気を休めるといい」

 海上を吹き抜けていく風よりもなお爽やかなドリーチェの声色。

「あ……ああ。ありがとう」

 斜め前方で倒れているローランの方を見ていたリヴィーは、舞い降りてきたドリーチェの姿にはっとして、慌てて白薔薇マリアローズのハーブティーを受け取った。途端、しつこくないほどの甘い白薔薇マリアローズの芳香が鼻腔をくすぐってくる。香りと同じく甘すぎないそれをリヴィーはちびちびと飲み始めた。

 しかしそうも経たずにリヴィーは頭を掻きながら、しっくりこないとカップから口を離す。そして実に言い難そうに、その口を開いたのだ。

「その、さ。いつまでそうしているつもりなんだ?」

「何が?」

「何て言うか、その……ローランさん?」

 尻上がりのリヴィーの声に、聞き返したドリーチェはリヴィーの視線の指す先を同じように見つめた。

 そこには未だ寝転がったままの、赤いロン毛男の姿が一つ。『くたばった』というよりもむしろ『いじけた』といった方が表現的に合っているかもしれない。意気消沈とばかりに脱力している。しかしそんな負のオーラを全身に纏っていながらも、見える姿はだらしのない四つん這い。窓ガラスにへばり付いたカエルと同じようなものなのだ。

 そのせいでローラン自身が痛々しいのかそうではないのかが、最早不明確になっていた。少なくとも存在的には意図ざれずとも、途轍もなく目立っていることだけは確かであろう。

 ティーカップを片手に船縁へと寄りかかっていたリヴィーは、一度ドリーチェへと視線をやり――ティーカップを手渡すと、ゆっくりとローランを前にしゃがみ込んだ。

「お前さ、いつまで不貞寝しているんだよ?」

「……お日様が布団被るまで」

 するとどこか悲しそうに、リヴィーは「そう」と瞳を細める。

 さわさわと髪を揺らしていく潮風。さざなみの微かな音を聞きながら、リヴィーは一度その隻眼をゆっくりと瞑り――

「ドリーチェ。やっぱこいつ飯抜きな」

 よっこい、と腰を上げると、リヴィーはドリーチェに向かってそう言ったのだ。

「うわっ、ヒドッ!」

「なんだよお前。お天道様沈むまで不貞寝しているんだろ」

 思わずガバッと飛び起きたローランに対し、リヴィーは間髪いれずにそう答える。

 勿論夜まで不貞寝をしている気など毛頭なかったローランは、リヴィーのその素直に受け入れる心に愕然とした。

「今さっきのは言葉の綾! 解る? これの意味解ります?」

「リヴィー」

「あ、悪いな持っていてもらって」

「聞けよ、お前ら!!」

 どこまでもローランを無視し、更には悠長にティーカップを渡し受け取っている二人の姿を見て、ローランは思わず「あー、もう!」と叫んだ。

「いじめか! 新たなるいじめなのか!」

「嫌だよそんなの。軍に捕まっちまう」

「海賊ってだけで十分捕まるって!」

「え〜っ」

 あからさまに嫌そうな表情をリヴィーは惜しむことなく曝け出す。と、そのまま首だけでローランの方へと振り向いたのだ。

「『え〜』じゃないって。これ常識」

「って、常識外の集団にそんな常識言われてもな……」

「だばらっしゃい!!」

 確かにこの世の中。海賊というだけで十分『常識』からは逸している。

 ドリーチェの言葉に顔を赤く染めると、恥ずかしさのあまり、ローランは奇妙な手振りを添えながら叫んだ。

 だが当のドリーチェはのん気にハーブティーをまた一つ注いでいる。ホレとそれを未だ平静を取り戻していないローランに渡すと、ドリーチェはぐるっと船内を見回した。

 クルーの少ないリヴィー海賊団だ。見たところであと三人いるうちの一人――航海士の少年、グリスしか今は姿が見えない。双子はどうやら船室でお昼寝といったところか。

 よく見れば雨風に加え海水にまで曝されてきた船は、二年と少しの年季が見え隠れしている。そして船体の中央には動力源ともいえる大きな帆は中央で、風を受けてはふんわりと膨らんでいた。またその上には、海賊の誇りである海賊旗ジョリーロジャーが悠然とはためいている。

 リヴィー海賊団の海賊旗ジョリーロジャーは、下地に黒。しかし中心に大きく描かれているのは、白い骸骨マークではない。両刃の剣と羊歯シダの子葉。それらがクロスするようにして、大きく白く描かれている。海賊どもが喜んで描く骸と思しき文様は、何一つとして見当たらなかった。

 本当に彼らは、海族らしい海賊なのだ。

 元々は別の海賊団にいたドリーチェだからこそ、それを真に感じることができる。そしてこの海賊団の良さも。

 一つ微笑を浮かべながら、ドリーチェはふっと船体に背中を預けた。それから船頭近くにいるグリスに視線を向ける。和やかにその瞳を細めると、ドリーチェは息を吸い込んだ。

「グリス。お前も茶ァ飲むか?」

 すると沖を眺めていたグリスが小走りに駆け寄ってくる。

 ハーブティーを飲んでいたリヴィーはその姿を見て、思わずへへっと微笑んだ。

「急がなくてもドリーチェは逃げねぇよ。どっかの誰かさんとは違うから」

「うわー。リヴィーちゃんってば酷い」

 こいつと親指を向けられたローランは、間の抜けた声を垂れ流す。

「いえ、そんなことはどうでもいいのですが」

 だがそんな和やかさとは裏腹に、グリスは緊張した雰囲気を纏っていた。そんなこと扱いをされたローランは軽くしょげながら、年下二人の話し合いに視線を向ける。

「何かいたのか?」

「一時の方角、沖に海軍らしき船体が」

「ちょうど真横か……」

 十時の方角に向かっているから何とか逃げ切れるとは思うが、万が一のことがあれば元も子もないだろう。

 確かにこの海賊団はほぼ剣士で構成されているが、どう足掻いてもクルーはたったの六人しかいないのだ。こちらの腕がいくら立ったところで、海軍という大人数相手では不利になる。目に見えて解る結果だ。となればやはり、逃げるが勝ち、か。

 ドリーチェに再度カップを渡してから、リヴィーは水平線を見渡した。

「この辺りに島――できれば無人島でもあるか?」

「そうですね。八時と九時の方角の間ですが、最果ての孤島・カンビアなら」

 グリスはそう言うと、島のある方角を指差した。そこには水平線上、僅かに山のような砂色の突起が突き出ている。

 進行方向をあまり反れず、しかも海軍とはほぼ真反対の方角か……。一度海軍へと目配せしたリヴィーは、カツンと靴底を甲板に打ち付けるとその顔いっぱいに悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ローラン。あの双子どもを起こしてきてくれ。――さっさととんずらしようじゃねぇか。海軍さんとはな」



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