思い込みはほどほどに
その人は、一心不乱に読んでいた。
新しいおもちゃを貰った子供のように、目を輝かせて。嬉しくてたまらないという風に。
箱の表と裏を一通り読んでしまうと、次は中の説明書を引っぱり出し、視線は端から端までを動く。
心底楽しそうに、読んでいる。
風邪薬の外箱の説明書きと、説明書をだ。
いったい何がそんなに面白いんだろう?
学校帰りの電車の中、かばんから箱が飛び出してその人の足元に転がった。すみません、と断った私が拾うより早く、私と同じ制服を着た男の人の腕が拾い上げたんだ。
それで、金銀財宝でも見つけたような、嬉しそうな顔で読み始めたってわけ。
「あの、すみません」
その人が説明書を読み終えるのを待って、私は声をかけた。
「拾って頂いて、ありがとうございます」
「ん?」
至福のため息をついたその顔が、こっちを向いて。茶色の目が私と説明書を交互に見た。
「あぁ、これは君のだったのか。ごめん、面白かったからつい夢中になっちゃって」
「面白い? これが……ですか?」
私は箱を受け取ってじっくりと観察した。家から持ってきた、ごく普通の風邪薬。
「その風邪薬は一度も見た事なかったから」
箱の記述はお馴染みのものだ。十五歳以上一回二錠、食後三十分以内に服用。主な有効成分はアセトアミノフェンとエテンザミドで、風邪の諸症状を緩和するとある。アレルギーや喘息持ちの人は服用に注意とか、服用後に車の運転は厳禁だとか。
中の説明書も似たようなものだ。いくら見た事がないからって、風邪薬なんてどれも書いてある事は同じだろう。
「何も面白そうな事はなさそうですけど?」
「いや、持ってきた本が読み終わったから。何か他にないかと思って、探していたんだ」
「それでこの箱を読もうと?」
「うん。ちょうど転がってきたから」
そこで電車が駅に止まって、ぱらぱらと人が乗ってくる。隣に立った人が雑誌を広げた途端、彼の視線が私から脇にそれる。
「何もなかったらどうするんですか?」
「そんな事態はあまり想像したくないけど、中吊り広告とか、外の看板とかを読むな」
「教科書とかはお持ちでないんですか?」
「持ってるけど、もう何回も読んじゃったからあまり満たされないし、定期の裏とか時刻表も読んだし」
風邪薬の箱。説明書。教科書。定期の裏。
時刻表に中吊り広告、看板。
私の質問に答えている間も、なんとかして隣人に気づかれず雑誌の中身を読めないかと、彼は悪戦苦闘していた。
「あー、そっか。これが……」
雑誌に夢中で私の呟きにちっとも気づかない彼は、活字中毒と呼ばれる類の人間だろう。しかも、かなり重症の。
お酒や煙草がないと生きていけない人達のように、この人は活字がないとダメなのだ。
私だって読書はする。でも、看板や説明書は娯楽を主目的に作られたものじゃないから、読んでも情報以上のものは何も感じない。だけど彼にとっては字を読めさえすれば、それがなんだろうと関係ないに違いない。呼吸や食事と同じように、活字を補給するんじゃないだろうか?
「あの、こういう本はお好きですか?」
人の雑誌を盗み見るなんて、あまり褒められた事じゃない。私はそう思ってかばんから本を出した。修行しなくちゃ、と思って持ち歩いている料理の本だ。
「え、いいの?」
本を受け取った彼は、きらきらした目で私を見ている。口はぽかんと開いて、よだれでもたれそうな感じだ。でもそれは、表紙のオムライスが美味しそうだからじゃないだろう。
私の家に犬はいないけど、ご飯を前に『おあずけ』をしたら、こんな顔をするのかな?
「私が降りるまででよろしければ、どうぞ」
「ありがとう!」
そう言うが早いか、彼はすぐさま本を開いた。前書きに目次や著者の紹介、なんてところもきっちり読んで、次から次へとページをめくる。写真が中心で文字はそう多くないけど、それにしたって驚異的な速さだ。
それから、十数分。
私が次の駅で降りると告げる頃には、本はその八割ほどまで読み進められていた。
「もうそんな時間か。あと少しだったのにな」
「ほんとですね」
名残惜しそうに返された本を、私はかばんの中にしまった。
「今日は本当にどうもありがとう」
「どういたしまして」
差し出された手と握手をし、電車を降りる。
手を振って見送ってくれた彼は、何となく飼い主に尻尾をふる犬に似ている気がして。
ちょっと、かわいかった。
◆
次の日の昼休み。友達と中庭の木陰でお弁当を広げつつ、昨日の事を聞いてみた。
「恵理ちゃんって本が大好きでしょ? 読みたい時に手元になかったらどうするの?」
犬みたいなあの人ほどじゃないけれど、読書が日常である彼女も、結構な本の虫だから。
「うーん……駅だったら、旅行のパンフレットとか貰って読むよ。タダだし面白いし。後は配ってるティッシュとかかなぁ」
「そ、そんなものまで読むの?」
「うん。いろんな事書いてあるもん。でもどうしたの? いきなりそんな事聞いて」
不思議そうな顔の彼女に、重度の活字中毒症患者に本を貸したことを話した。
「うわー、その人絶対彩っちに感謝してるよ。活字の飢えを満たしてくれたんだもの。ねぇねぇ、それで、どんな人だった?」
「どんなって、髪と目が茶色で、同じ制服だってことくらいしか」
恵理の目の輝きは、まるで何かに飢えているかのようだった。一体なんだろう?
「そういえば、校章の形は二年生だったかな」
「うぅーむ」
そう言うと、恵理は腕組みをして考え始めたので、私はお弁当食べようと箸を手にした。
「その人は多分文芸部の先輩じゃないかなぁ。名前は確か、行成清三郎っていうはず」
「へぇー、文芸部ねぇ。そう言えば恵理ちゃんも入ってたっけ。あの人にぴったりかも」
私の言葉に恵理は口の端だけで笑う、いやな感じの笑みを浮べた。
「なんか少女漫画みたいだよねっ」
「どこが」
「ピンク色のロマンにあふれてるよねっ」
「私は青とか緑の方が好きなんだけど」
「結論を言わせて頂きますと、一目ぼれしたんじゃないのー? って事なんだけど」
得意そうな恵理に、私はがくっと体の力が抜けるのを感じた。惚れた、だって?
「誰が、誰に」
「ぴちぴちの十六歳乙女である葛篭彩ちゃんが、活字中毒の十七歳、行成先輩に」
「……ばっかじゃないの? さっきの話をどう聞けば、そういう結論になるわけ? あれは――そうだな、お腹ぺこぺこの野良犬に餌やったみたいなもんじゃない」
「犬とはいい事言うね、彩っち! あの人は活字の延長として外界を認識してるよーなとこがあるから、彩っちの事もごはんくれた人としてきっと覚えてるよ。一回活字をあげれば半年くらいは忘れないんじゃないかなぁ」
「ほんとに犬っぽいね……」
「だって、三日飼えば恩を忘れないとか言うでしょ。それでね、きっと先輩はぁー……」
私の抗議も何のその、恵理はどんどん勝手な空想を膨らませていく。思えば、この子は昔からいろいろ空想する事が多かった。本好きだからかな?
「そうと決まればさっそく文芸部へ行こ!」
「何が決まったのよ何が」
「今なら行成先輩も部室で昼食タイムのはずだし、二人の劇的な再会をお膳立てー」
「いや別に、頼んでないんだけど!」
私は恵理に無理矢理引っぱられて、文芸部部室への道を歩く事になった。
◆
「こんにちわー! 指宿でーす!」
こう挨拶した恵理が勢いよく部室の引き戸を開けても、誰の返事もなかった。
部屋が無人というわけじゃない。数人いる男女はみんながみんな読書中で、反応といったらちらりと視線がくるくらいだっただけ。
恵理はずんずん部室の奥に進み、大きな本で顔が隠れている生徒に声をかけた。
「いきなり先輩いきなりせんぱーい」
「僕の苗字はいきなりじゃなくて、ゆきなりだよ。クイーン好きの一年生」
聞き覚えのある声に、私の昨日の記憶が呼び起こされる。犬みたいなあの人だ!
「だって本読んでる時は、こう呼ばないと先輩気づかないもん。あ、そうそう行成先輩、昨日ここにいる葛篭彩ちゃんに、本を貸してもらったんでしょう? 覚えてますか?」
「そうだっけ?」
恵理の言葉に、そこで初めて行成先輩は、読んでいた百科事典から目を上げて私を見た。本当に、読めさえすればなんでもいいらしい。
「あーそう言えば、確か料理の本を読ませてくれたっけ。あの時はどうもありがとう!」
彼は少し考え込んでいたと思うと、さっきまでの無関心が嘘のように私の手を取って、満面の笑みで上下にぶんぶんと振った。
その後は事情を知った他の部員の皆さんに「素晴らしい!」「なんていい人なんでしょう!」「ありがたや」などなど、あらん限りの賛辞の言葉を頂き、なんだか親近感のこもった目で見られた。この人達もさっきは本に夢中だったのに。それで、私は確信した。
文芸部というのは犬の集まりなのだ、と。
「あ、そうだ。昨日の本のお礼には足りないかもしれないけど、良かったらどうぞ」
「は、はぁ」
先輩は色とりどりできらびやかなお弁当があるテーブルに、私を招いてくれた。
おかずは、赤や黄色のピーマンを使った肉詰め。イカのトマト炒め。ポテトサラダ。
それは嫌味なほどによく出来たお弁当だった。でも恵理に連行されてお昼がまだだったので、頂くことにする。折角だし。
「お、おいしー……っ」
ピーマンの歯ごたえの中から、じわっとうまみが口に広がる。イカのぷりぷり感とトマトの酸っぱさは見事なまでの調和をなし、ポテトサラダは舌の上でさらりとほどけた。
「これ、もしかして先輩がお作りに? 冷凍じゃないみたいですけど」
私がごちそうさまを言うと、先輩は少し驚いたみたいだった。
「気に入ってもらえてよかった。……でもよく分かったね、冷凍じゃないって」
「それは当然ですよー。だって彩っちは洋食屋さんの娘だから、舌が肥えてるんだもん」
「べ、別にそんな大した事じゃないですよ」
恵理が先輩にとても余計な一言を言った。
「そうか、だから昨日も料理の本を持ってたんだね。将来の為に今から修行しているのか、すごいなぁ」
「きっと料理がお上手なんでしょうね」
「ふわふわオムレツとかもできるのかなぁ」
「俺はカレーライスの方が好きだぜ」
「彩っちってば、料理漫画みたいにすっごい料理とか研究してるんだろーなー」
「うーむ、それは興味深いな」
部員さん達に余計な事を喋りまくる恵理を、もう黙れ、という視線で睨みつけたけど、本人は気づきもしない。脳みそが半分空想の世界に浸かっているくせに、アイコンタクトに対する勘は皆無らしい。使えない奴め。
恵理の一言を皮切りに、皆の間では私の料理に対する根も葉もない噂が飛び交って、勝手に盛り上がっている。もうこうなってしまったら最後、私に出来るのは逃げる事だけだ。
「ねぇ、葛篭さん、だっけ。ちょっと君に頼みたい事が――」
「あの! 私ちょっと急用を思い出しましたので、失礼させて頂きます!」
先輩の言葉なんて待っていられない。一刻も早く部室を出ようとした私の耳に、のん気な小悪魔の台詞が聞こえてくる。
「ねぇ彩っち、今日はお昼ここで食べようよ。みんなで食べた方がおいしいよー?」
「え、でも、私さっき行成先輩のお弁当を頂いたし、もう十分満足っていうか」
「君のようなすごい人とお昼を一緒にできないのは残念だけど、急用ならしょうがないね」
腕にしがみついてくる恵理をひっぺがそうともがく私に、助け舟が出された。
「すみません、どうしても行かなくちゃならなくて」
先輩の言葉に、渋々ながら恵理は私の腕を離した。助かった!
「もしよかったら、だけど。文芸部で君のお店にお伺いしてもいいかな? みんなすっかりその気になってるし、僕もプロの料理を食べさせてもらって勉強したいんだ」
助かったと思ったけど、それはとんだ勘違いだった。……もうだめだ。私には、逃げる事すらできない。部員達の眼差しが私を射る。
笑顔だ、笑顔。接客業は笑顔が命だ。ずっと店の手伝いをしてきたのは伊達じゃない。
「いやですね、お客さんを断るわけないじゃないですか。定休日は水曜日なので、それ以外でしたらいつでもどうぞ」
「よかった、ありがとう」
先輩の笑顔も、今の私には重荷でしかない。
「父と母にも話しておきますね。きっと喜ぶと思いますよ」
「急にこんな事を頼んじゃって、ごめんね」
「いえ」
それから私は、笑顔で手を振る文芸部の皆さんに見送られて、部室を後にした。
ああ、もう……最悪だ。
◆
「それで、文芸部の皆さんがウチに来る事になったってわけ?」
「……そう」
二週間後の開校記念日。文芸部の面々は、我が家にブランチを食べにやってくる。
私の話に、母さんは一つため息をついた。
「まぁ、あなたが実際に料理する訳じゃないしね。実は料理が苦手だー、なんてばれるような事にはならないでしょう」
「そうだと、いいんだけど」
私は確かに洋食屋の一人娘だ。お店は好きだし、継ぎたいと思わないわけじゃない。
だけど、苦手なものは苦手なんだ。
これが普通の、父親が会社員の家にでも生まれていたなら。料理が苦手だなんて漫画によくいる女の子の、これまたよくありそうな可愛らしい欠点になっていたかもしれない。
でも、洋食屋の娘に生まれてしまった身としては、この欠点は致命的だ。
「この事はお父さんにも話しておくからね」
「えぇー」
「確かにあなたが料理苦手になったのは、お父さんのせいだけど。そんな顔しないの」
「分かってるけど……」
「それに、悪いと思って野菜がメインの料理、いろいろ教えてくれたじゃない」
「それは――あんな事しといて謝罪が何もなかったら、それこそ父親失格っていうか」
別に、料理が全く出来ないわけじゃない。
肉とか魚介類とか、そういうナマモノが気持ち悪くてたまらなくて、触る事もできないから料理も不可能ってだけだ。
元々、私はナマモノがあまり好きじゃなかった。好き嫌いはよくないという信念の父さんはそれを矯正しようとしたけど、逆効果に終わったってわけ。幼き日の私を父さんは数々の怪談話で脅かしまくって、その胸に消えぬ傷跡を刻み込んだんだ。
いわく、魚を残すと頭や目玉だけになっても追いかけてくるとか。肉を残すと動物達が殺された恨みで襲いかかってくるぞ、とか。
今でもたまにうなされる。鶏肉のブツブツが! 魚の目玉が! 鱗のぬるぬる感がっ!
「それで、どうするの? 料理しないでお店の手伝いだけする?」
「そうする……」
だって仕方ないじゃない、苦手なんだもの。
◆
「こんにちわー!」
「いらっしゃいませ」
運命のその日。ドアベルが来客を告げ、元気よく挨拶する恵理を先頭に文芸部の人達がぞろぞろと入ってくる。さて、仕事をしないとね。
「ご注文をお伺いしてもよろしいですか?」
「うーん、彩っちのお薦めとかある?」
「この角切り野菜のスープなどはいかがでしょう。あっさりした飲み口で、見た目でも楽しんで頂けると思いますよ」
いつも通り、お薦めのメニューをいくつか挙げて、ちょっとした説明も付け加えておく。
「じゃあ私はそのスープとハヤシライス!」
「僕もそのスープと、このパスタを」
「はい、かしこまりました」
恵理と先輩、他の人の注文を書きとめて、厨房に走った。
「彩っち、このスープ美味しいね!」
「ありがとうございます」
私が運んだ料理を文芸部の面々は美味しそうに食べてくれた。でも、先輩は何か難しい顔でスープを口に運んでいる。
「あの、もしかして」
「ああ、いや、そういうわけじゃないんだ。おいしいよ、このスープもパスタも」
「あ、ありがとうございます。先輩のような料理の上手な人にそう言って頂けると光栄です! でも、何を気にされていたのですか?」
おいしいよ、だって! でも少し気になったので、難しい顔の理由を聞いてみた。
「このスープは野菜のうまみとベーコンの塩味が絶妙だけど、他にも何か、隠し味が入ってると思うんだ。何だろうと思って考えているんだけど、どうしても分からなくて」
先輩はそう言ってまたスープを口に運び、首を傾げた。……そういう事か。
「隠し味と言ったら……しいたけの出汁でしょうか」
父さんがこのスープを作るのを何回も見たから知っている。うちの秘密の隠し味だ。私の言葉に先輩は考え込み、また一口、スープを飲んだ。
「しいたけだったのか、それは気づかなかった。さすがにお店の料理は違うなぁ」
「もしかして、このスープを作ったの彩っちだったりするの? 作り方とか材料とかよく知ってるみたいだし」
「ばっ、何言ってるの? いくらなんでも子供の私が作ったものをお客様に出す訳がないじゃないの! ちょっと手伝っただけよ」
恵理は何も知らなそうな顔をして、時々核心をつく一言を言ったりする。どうせこのスープにかけられた私の労力なんて微々たるものだ。私にはこんな、肉を使った料理なんてとても作れない。料理上手になんかなれない。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったし、勉強になったよ。ありがとう」
食べ終わった先輩に握手を求められたので、私は手を差し出して彼のそれを握った。
いろいろあったけど、喜んでもらえてよかった。私は少し嬉しくなって、ほっと一安心した。
「さすがはレストランの娘さんだ!」
……なのに、この一言は余計だ。
◆
翌日。料理の修業をしたいから付き合って欲しいと母さんに頼むと、変な顔をされた。
「いつまでもこのままでいいわけないじゃない。何とかして苦手を克服しなくちゃ」
「あらあら。今まで料理に触れないようにしてたのに、珍しいこと」
「別にそんな事ないよ。修行自体は、前から考えてた事だし」
「何か心境の変化でもあったの?」
「だから何もないって。それより母さん、つきあってくれるの、くれないの?」
洋食屋の娘が一般人より料理が下手だなんて、それはいかがなものかと思っただけだ。
「ふふっ、じゃあ今からさっそく始めましょうか。びしばし行くわよ」
母さんはくすっと笑って私の部屋から出て行った。最近はいろんな人に笑われるなぁ。
「まず基本のおさらいからはじめましょう」
「う、うん」
食材がナマモノ以外であれば、私だって普通に触れて、料理する事は出来る。原型を留めない程に調理済みなら、食べるのも平気だ。
修行に選んだものは、あの日先輩と恵理が飲んだスープ。私にとっては因縁の料理だ。
「いい? 野菜のスープを作るときは――」
お母さんの後について、私は包丁を動かす。
野菜を切り、下ごしらえして、後はバターで炒めて煮るだけ。この具にいつも作ってあるスープストックを入れて煮れば、お客さんを待たせずにスープを作る事ができる。お手軽で私の腕が入る余地はあまり無いけど、その辺は気にしない。苦手を克服する為の関門もちゃんと入れてある。
「さ、がんばって、彩ちゃん」
「うぅ……めっちゃ肉ぅ! って感じの形なんですけど……」
その関門の名前は、ベーコン。
一般家庭で使うのは薄切りのパック詰めだろうけど、店のはいかんせん業務用だ。でかい上にいかにも肉そのままの形をしている。
このままでは大きすぎるので、調理用に少し切り取らなければならない……んだけど。
赤身が、脂身がぁっ! 見ているだけでぞくぞく鳥肌がたってくる。相手は豚肉なのに。
「彩ちゃん、包丁震えてるわよ」
「わかってるよ!」
包丁を握る右手を左手で押さえつけても、だめ。持つ刃物が震えるなんて、これじゃ変質者だ。そのうち足が生えて私に飛びかかってきたらどうしよう……なんて、ベーコン相手に誰が考えるっていうんだ。ばかばかしい。
私の目の前にあるものはベーコンだ。
人名なんかじゃなくて、豚の脇腹肉を保存の為に塩漬けにして燻製にした、加工食品だ。
たべものだ、たべものだ、たべものなんだ。
食べ物は包丁で切らないといけない。
右手をただ下ろせばいいだけじゃない。
さぁ、包丁をしっかり持って。ベーコンという名の食べ物を切るんだ!
「はぁっ!」
無造作に、ただ振り下ろしただけの包丁は。
すぱん、とベーコンを切り離した。
「やった、やったじゃないの彩ちゃん!」
大喜びしてる母さんと、まな板の上のベーコンを見ていると。なんかこう、じわーっと湧き上がってくるものがある。
「や、やった……私、やったの?」
「そうよ、やったのよ、ついに!」
なんとか難関は克服できたが、油断はできない。まだ肉に触るのはちょっと怖いけど、私は毎日包丁を握った。とにかくいつもスープを作り、どうにか料理は形になるようになってきた。
◆
「ねぇ……彩っち」
「なに」
「もしかして、もしかして、だけど。こないだお店に皆で行ったの、イヤだった?」
ある日のお昼時、恵理が心配そうな顔で私に聞いてきた。修行修行の毎日で、私は疲れた顔をしているみたい。でも、もうこの話題には触れないで欲しかった。
「そんな事ないよ。お店に来てもらえるのはいいことじゃない」
「だって、その、私が小学生の頃、同じクラスにお家が喫茶店してる子がいたんだけど。その子に『店には来ないで』って頼まれた事があったのを思い出したの。知ってる人が来ると気まずかったりするのかなぁ、と思って」
「そんな事言ったら、客商売はやっていけないじゃない。それに私は小学生じゃないもの」
「だって他に彩っちの機嫌悪くなりそうな事思いつかないし、お家の事言ったのは私だし、もしそうだったら悪いなって思って……」
歯切れの悪い言い方で、下を向いたままの恵理の態度がちょっとムカつく。ああもう、イライラして我慢できない!
「あのね、私の機嫌がもし悪いとしたら、それは店にあんた達が来た事じゃなくて、洋食屋の娘なら料理出来て当然って思われてるのが嫌なの! パン屋さんの子だったらパンが作れないといけないの? 楽器屋さんの子だったら音楽が得意じゃないとダメで、本屋さんの子だったら本好きじゃなくちゃいけないわけ? まったく、ふざけないでよね!」
気がついたら、私の口はそんな言葉を吐いていた。あーあ、言ってしまった、ついに。今まで隠して来たのに、自分からばらしてしまった。でも、もうどうでもいい気がしてきた。
私のやけくその告白を聞いた恵理は、なぜか口をぽかんとあけている。
「ゆ、行成先輩……」
恵理の呟きに、血の気が引いた。まさか、まさか! 祈るような思いで後ろを振り向くと、そこには。
「えと、ご、ごめん。昼休み君たちはここにいるって聞いて、その」
とてつもなく気まずそうな顔をして、紙袋を持った先輩が立っていた。
……聞かれた。聞かれた! 一番聞かれたくない人に、聞かれた!
「ちょ、ちょっと待って!」
「いやです!」
お弁当を抱えたまま逃げ出そうとした私の手は、がしっ、と先輩に掴まれて、芝生に座らされてしまった。
「ごめん、そんな強く掴むつもりじゃなかったんだけど……」
「料理がお上手な先輩には、私の気持ちなんて分からないです!」
きつく掴まれた手首をさすっていると、近くに座った行成先輩に謝られた。ふん、もうどうにでもなれ。
「いや、その……僕も警察官の息子だけど、だからって喧嘩が強いわけじゃないし……むしろそういう事は苦手だから。君の気持ちもわからない訳じゃ、ないと思うよ」
「そ、そうだったんですか?」
「まぁ、僕は誤解された事はないけどね」
確かに、先輩の体格はがっしりしているとは言いがたい。コーヒー片手に本を読むのがお似合いだ。
「知らなかった事とはいえ、僕の誤解で君をそんなに苦しめていたなんてすまなかった。ごめん」
「ごめんね、彩っち。私もてっきり料理が上手いのかと思ってた。本当にごめんなさい」
しおらしい二人の態度に、まぁ許してあげてもいいか、という気分になってくる。
「二人とも、これをどうぞ」
「なーに?」
「これは……この前のスープだね」
修行で沢山作りすぎたスープは、学校に持って来て私が飲んでいる。それを二人にも飲んでもらう事にした。
「別に、もう気にしてませんから。それに私が料理を苦手なのは――」
私が料理を苦手になった理由と、その症状も、話しておこうと思った。
「なるほどね。駄目なのはナマモノだけで、他は平気なのか。じゃあこのスープのベーコンとか、とても苦労しただろうね」
「そっかー。だからあの時さすがはレストランの、って言われて、彩っちの眉間にしわが寄ってたのかぁ。でもこれ、美味しいよ?」
恵理の台詞を聞いた先輩が青ざめたので、私は気にしてないともう一度言わなければならなかった。全くもう、この子はいつも余計な事を言う。
「お詫びと言っては難だけど、料理で僕に出来る事があれば、力にならせてくれる?」
「ほ、ほんとですか?」
「あぁ。どうせ暇だから、いつでも呼んでくれていいよ。あ、そうそう、本当はこれを届けに来たんだ。昨日のお礼に」
思わぬ先輩の申し出に私が驚いていると、彼は私に持っていた紙袋を差し出した。
「作ったのは僕だけど、文芸部からって事にしてくれないかな? みんな悪気はなかったと思うんだ」
「だからもう気にしてませんってば」
「……ありがとう」
私は紙袋を受け取って、部室に帰る先輩の後姿を見送った。中にはクッキーが入っている。
「彩っち、良かったね!」
にこにこ嬉しそうな恵理の顔が癪に障るので、目の前でクッキーを食べてみる。
「……おいし」
悔しい事に、先輩の作ったクッキーはとても美味しかった。
「はぁ・・・・・・私の修行、まだ全然足りないみたい」
「えーっ? 料理を美味しくするには修行だけじゃなくてさぁ」
「だけじゃなくて、って何よ」
「ううん? 何でもない」
まぁ、いいか。
私は恵理から奪ったクッキーを口に放り込み、思わせぶりな言い方をどうやってとっちめてやるかを考えることにした。