イライラ感
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ずっと朝から夜遅くまで仕事場にいて妙にイライラ感が募ることがある。俺は今勤めている会社で社長職に収まっているのだが、最近精神的な病気かもしれないと思い、街の心療内科を受診した。このイライラ感は何が原因なのか分からなかったが、多分職場で掛かるストレスが一番大きいだろうと思っている。今の会社に勤務し始めてから十年になり、やっと先代の社長から社長職を受け継いで今の地位にいた。ただ、会社社長というのは実にきついのである。部下たちを管理するのがどれだけ大変なのかは誰でも分かっているのだった。トップとして社に居続ける以上、疲労するのは目に見えている。それに俺自身、プライベートでは夜遅くまで飲んでいて、帰宅するのは午前零時前だった。何も愚痴を言いたいわけじゃない。だけどしんどいのに変わりはなかった。ゆっくりする時間が欲しい。休日は共働きの妻の涼香がいてくれて、一緒に食事を取ったりしながらも、やはり疲れた感じは抜けなかった。心療内科に行ったことは涼香には内緒にするつもりでいたのだが、二度目の通院日の前日、急に「保険証が必要だから用意してて」と言ってしまったので、勘付いた彼女が、
「どこか悪いの?」
と訊いてきた。
「ああ、ちょっと通院してるんだ。いろいろあって」
「あなたの部屋掃除してたら、薬の入った袋が置いてあったから、ちょっと変に思ってたんだけど」
「別に気にしないでいいよ。大病してるわけじゃないから」
「そう」
涼香はそれ以上、何も聞いてこなかった。俺もこういったことはあまり詮索されたくなかったので突っ込んで言うつもりはない。二回目に病院に掛かった、つい先日のことを脳裏にくっきりと思い出しながら……。
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「やはり診立て通り軽い欝ですね」
「欝……ですか?」
「ええ。ただ長岡さんの場合、軽めで済んでます。重篤な方は他に大勢いらっしゃいますので」
「そうですか」
半ば予想していた通りだった。一般的にストレス性の欝は分かり辛いという。俺も最初は何をしていいのか分からなかった。まあ、別に施す策はこれと言ってなかったのだが、抗うつ剤や安定剤、それに睡眠導入剤などを処方された。服薬しさえすれば、しばらくは落ち着くだろうと聞いていたからだ。ドクターは女医で、こういった男性のストレス系の病気に関しても熟知しているようだ。診察後、立ち上がって一礼し、カウンセリングルームの外へと歩き出す。疲れているときは安静にするのが一番いい。いくら普段から社内では電話が鳴りっぱなしで、ファックスやコピー機、プリンターなどが絶えず作動し続け、どうしようもないぐらい疲れるにしても……。会社の社長というのは激務なのである。特に俺が勤めているところなど中小企業である分、部下たちを管理するのが大変だ。普通に一日詰めていても末端までは指示が行かない。もちろん指図するのは俺の下にいる副社長の岡田だったが……。果たして鬱病であることを悟られないように出来るか……?それが当面の課題となりそうだった。その日受付で診察料を支払い、処方箋薬局で調剤してもらって薬を受け取ってから帰る。ゆっくりと街を歩いていき、自宅マンションへと舞い戻った。涼香は昼間いなかったので、キーホールにキーを差し込み、開錠して中へと入る。さすがに溜まっていた疲労がドッと出て、手洗いとうがいをすると、自室のベッドに潜り込み眠った。ほんの小一時間眠って目が覚めてしまった後、起き出す。カバンから無線式の携帯用のノートパソコンを取り出し、立ち上げた。疲れた頭でも作らなければならない書類は山ほどある。仕事に追われ、ちゃんと時間の管理をしながら、パソコンのキーを叩く。この状態がずっと続くのだ。だけど帰宅してからコップに一杯牛乳を飲み、薬を一回分服用すると、イライラ感が取れた。これはおそらく抗うつ剤と安定剤の作用だろう。効いているということだ。マシーンをいったんセーフモードにして自室を出、キッチンでホットコーヒーを一杯淹れる。そしてカップを持ち、部屋に戻ると、室内を歩き回りながら考え事をしていた。これは自宅にいるときの癖なのだ。何かを考えるときはどうしても体の一部が動いてしまう。キーを叩くときでも両方の手がほぼ同時に動くのだし、オフィスで書面を書いているときでもボールペンを握りながら、ペン先でトントンと机を叩いてしまう。ずっと走り続けてきた。少し骨休めをしてもいいのかもしれない。もちろん一日何もせずに、ということはないのだが、あまり考え事をせずに、ぼんやりと過ごせるものならそうしてみたかった。これが欝に対する絶好の対処法だと思っていて。明日は仕事を休むことにした。
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二度目に病院に行った日の翌日の夕方、涼香がバッグとスーパーの袋を両手に持って帰ってきたので、
「お帰り」
と言った。彼女は買ってきていた食材をキッチンに置き、冷蔵庫の中に整理して仕舞い込むと、
「泰雄、落ち着いてるわね」
と言う。俺はパソコンの画面に見入りながら、
「ああ、疲れも幾分収まるよ。一日仕事休んでゆっくりしてると」
と返す。「欝なんでしょ?」と言われたときは正直驚いた。涼香は俺の症状を見抜いていたのだ。
「何で知ってるの?」
「あたしも昔、泰雄が今飲んでるような薬を兄が服用してたことを見て知ってたの。横文字が並ぶ抗うつ剤とか安定剤とか」
「じゃあ君は俺のことを理解してくれてるんだね?」
「ええ。別に偏見で見るつもりはないわ。返って旦那がそんな病気持ってると、助けてあげないとって思っちゃうぐらい」
「ありがとう」
起き上がり彼女を抱く。硬くきついぐらい。抱き返されたので抱く手をもっと強くする。純粋に愛せていると思った。互いに同じ世代にいるのだが、こうまでストレートにパートナーに愛情を注げることはまずない。抱き合い続けた。ゆっくりと。そしてそれが終わった後、自然とベッドに倒れ込む。体を重ね合うごとに愛が深まる。互いに夫婦として永遠を誓い合っているのだから尚更だ。
その後のことは言うまでもない。ベッドの上で涼香と性行為しながら、ずっと変わらずに愛し合い続ける。何も怖がることはなかった。彼女は俺の精神病に対する理解があってそれで今こうして抱き合えているのだ。行為は一定時間続き、十分満たされた。互いに愛し愛されで、こういった関係にまで来ている。職場では常に緊張感が続き、ストレスで欝になっていても涼香は俺を愛してくれていた。これから先、何も恐れることはないだろう。抱き合って愛情を確かめられているのだから……。そして薬を服用しながらも、また明日からは通常通り出勤だ。葛藤ばかりじゃないのだし、職場でも疲れれば合間に休むと済む話なのだから……。何も怖くはない。涼香も自分の仕事をしながら、そっと見守ってくれているのだし……。
(了)