復讐のカウンドダウンが始まるその前に
「アイビーさん!」
「な、なにかしら」
廊下を歩いているだけなのにキラキラを振りまきながら近づいてくるベンジャミンに、アイビーは後ずさりする。
「プラット子爵領に行きたいんだが行ってもいいだろうか?」
「え? 領地に?」
「ほら、もうすぐアンズの収穫時期だろ。どれくらい収穫があるのか知りたくてさ」
プラット子爵領について学び始めたベンジャミンは何かあるとすぐにアイビーのところに来る。最近やたらと距離が近い気がする。
(無駄に整った顔を近づけられても、困るわ!)
ベンジャミンの後ろで立っているマシューに助けを求めるが、困ったように笑っているだけだ。そばで控えているスザンナに視線を向けても、黙ってすまし顔をしている。
「……収穫したアンズの売り上げは、帳簿でご覧になったんじゃないの」
アイビーはベンジャミンの顔から少し距離を取る。
「売り上げと収穫量はまた違うだろ? 百聞は一見にしかずっていうし、どれくらい取れてどれくらい売れるのか直接目で見て確かめたいんだ」
確かに一理あるかもしれない。そう感心していると、ベンジャミンの顔が再び近づいていた。
「そ、そもそも、ベンジャミンが治めるべき領地なのですから勝手に行かれたらよろしいのではないでしょうかっ⁈」
「そりゃそうなんだけど……うまくベンジャミンのふりができるかな」
つっけんどんな対応になってしまったと思っても遅い。目の前で心細そうに眉を寄せる男がいると、ついつい手を差し伸べてやりたくなる。
そもそもベンジャミンの顔は初めて見た時から好みなのだ。
アイビーは首を振りその記憶を頭から追い出し、極めて冷静に振る舞おうと意識する。
「貴方は見た目がベンジャミンなだけで、中身はベンジャミンじゃないから、領地でどう振る舞えばいいかわからないってことね」
ベンジャミンの言うことはまだ納得できない部分はあるけれど、雷に打たれる前のことを何ひとつ覚えていないことは確かだった。
何も覚えていないベンジャミンはアイビーや使用人達にも真摯に丁寧に振る舞う。奢ることなく真面目に学び教えを乞う姿を見て、厳しい態度だった使用人達も軟化していた。
「不安ならモリスかマシューを連れて行けばいいわ」
いまだ厳しい態度を取るのはアイビーだけだ。
「アイビーさんが一緒にいてくれたら安心なんだけど」
まっすぐ見つめられるとアイビーは何も言い返せない。
(ほだされちゃだめ。記憶がないからわたしが妻だと紹介されて頼りにしているだけよ。やめて、そんな目で見ないでよ。わたしは姿絵で一目惚れしちゃったくらいベンジャミンの顔に弱いのに!)
せっかく追い出したはずの記憶がすぐに舞い戻り、結婚が決まった時に姿絵を抱きしめながら寝たことまで思い出したアイビーは、恥ずかしくなってベンジャミンから目を逸らす。
「アイビー様。プラット子爵家に嫁がれてから毎年アンズの収穫時には農園に顔をお出しになっているのに、急にアイビー様がいらっしゃらなくなれば領民達は不安に思うはずです」
「マシュー」
「ええ。アイビー様も一緒に領地にお戻りになるべきです」
「スザンナまで」
さっきは助けを求めてもだんまりを決め込んでいたはずの二人も揃ってアイビーに領地に行くように勧めてくる。
「……わかったわよ。領地に行けばいいんでしょう」
「本当に一緒に行ってくれるのか?」
「べっ別に、ベンジャミンのためではないですからね。領民のためですから」
「わかってる。わかってるよ!」
「もう。その言い方わかってないでしょう?」
そう言いながらベンジャミンの嬉しそうな顔は悪い気がしなかった。
***
領地には馬車で向かう。マシュー達は荷物の管理があるからと別の馬車に乗ってしまったため、ベンジャミンと二人きりにされた車内はすこぶる居心地が悪い。
ベンジャミンも居心地が悪いからなのか窓から外の景色ばかり見ており、たまに見慣れないものを見つけるとアイビーに質問する程度だった。
「──アイビーさん、あれ」
「また敬称がついているわ」
アイビーは話を遮りベンジャミンに注意をする。
「あ、おっおう。そうだった。ありがとう」
「いいえ。では、続きをどうぞ」
話し出すのを待ってもベンジャミンはボソボソなにか呟いて頭を掻きむしっている。
領地に戻るにあたり、領主であるベンジャミンがアイビーのことを「アイビーさん」と呼ぶのはおかしい。何かあるのではと領民が不安に思うだろう。とマシュー達がしきりに言うので名前を呼ぶ練習をすることになった。
もちろんベンジャミンはまだ一度も自然に呼べていない。
アイビーはベンジャミンが指をさしていた先を見る。
「あれは、粉挽き用の風車ね」
「へえ。粉挽き用か。小麦かなぁ」
「……貴方の住んでいた、ニホン? には風車はないの?」
「いや、あるよ。ある。観光用だったり発電用だったり」
「ハツデン?」
「ああ、電気はないのか。そういやランプも蝋燭や油だったもんな。なんて説明すればいいかなぁ」
「別にいいわ、説明しなくても。わたしが聞いても仕方ないもの」
今までもベンジャミンが言い出した聞き慣れない単語は、説明してもらっても理解ができないものばかりだった。
いま目の前にいるベンジャミンの中身が本当に別の世界から来た男に変わってしまったことを認めるための材料にしかならない。
窓から車内に視線を戻すとベンジャミンが肩を落としていた。
「あ。違うのよ、せっかく教えてもらってもわたしには理解ができないから聞いても仕方ないってだけで。そうだわ。風車なんてどこにもあるようなものなのに、貴方がいた国ではわざわざ風車を見に来るような人がいるの?」
「ああ、日本だと風車は少ないから。実用なら水車の方が多いんじゃないかな」
「そうなのね。あ、水車もあるわよ。ほら見えるかしら。もうすぐ目的地の農園に着くわ」
反対側の車窓に目を向ける。灌漑のための水車は領地への目印だ。
三年前に嫁ぐまで知らない土地だったのに、一ヶ月離れていただけで懐かしく感じる。
あの嵐の日が嘘みたいに、青い空が広がっている。
穏やかな川面は時おり風で揺らめき光を反射する。両岸には名もない草が小さな花をつけミツバチ達が行き来していた。
田舎貴族のアイビーは、生まれ故郷と変わらないこの景色が好きだ。
馬車の窓をあけると風が吹き込んできた。
「気持ちいいわね」
「……」
返事がないのを不思議に思ってベンジャミンを見ると、整った横顔に一筋の涙が光っていた。
「……どうしたの? 急に泣いたりなんてして」
「え? あ。涙……」
ベンジャミンは慌てて手で涙を拭う。アイビーはそっとハンカチを差し出す。
「……なんだろうな。なんか来たことがない場所のはずなのに、川辺は草むらになってて花なんて咲いてさ、青空には入道雲が浮かんでるなんて、初夏の景色はこの世界でも同じなんだなって思ってさ」
「そうなの」
「なんだか懐かしいなって思ったら、つい、そういや家族や友人や職場のやつらはどうしてるのかな。なんて考え出しちゃってさ。はは。恥ずかしいな」
受け取ったハンカチで涙を拭うベンジャミンを見て、アイビーは今までの態度を反省する。
(もし本当に、目の前のベンジャミンの中身が異世界から来た男なんだったとしたら、きっと故郷から離れて寂しいなんて言葉じゃ済まないくらい不安よね。帰れるかもわからないのに。それなのにわたしってば……)
謝るべきかと思いつつ言葉が出ない。沈黙が続く。
アイビーは手を伸ばし向かいに座るベンジャミンの手の上に乗せる。
「恥ずかしがることはないわ。誰でも故郷に似た景色を見れば郷愁に駆られて涙もろくなるものよ」
握った大きな手はじっとりと汗をかき指先は冷えている。アイビーの手では包みこんで温めてあげることはできないけれど、ぎゅっと握りしめる。
車内には沈黙が続く。
少しずつ血が巡り始め手が温かくなったころ、馬車が止まった。
やっとプラット子爵領の農園に到着した。
「ありがとう。アイビー」
「──‼︎」
馬車から降りる時に耳元で囁かれて、アイビーはしばらくその場から動けなかった。




