第18話 排除のアルゴリズム ~陽斗視点~
ポートアイランドの最果て。空を切り裂くようにそびえ立つ、貝村興産本社の最上階会議室。
全面の強化ガラス越しに見える神戸の街並みは、まるで支配者の椅子から見下ろす箱庭のようだった。だが、この贅を尽くした空間に充満しているのは、洗練されたビジネスの空気ではない。成金趣味の成れの果て、身勝手な特権意識が生み出した吐き気を催すほどの腐臭だった。
今日は、我が社と貝村興産の最終的な仕様決定を伴うプレゼン会議だ。だが、壇上に立つ貝村浩美の目的が業務の遂行でないことは、その蛇のように執拗な視線が俺を捉え、嘲笑の形に歪んだ瞬間に確定した。
「……以上が、我々貝村興産が提示する修正案ですわ。ですが、そもそも」
浩美は手にしていた最新型のタブレットを、まるで汚物でも捨てるような仕草で机に叩きつけた。会議室に硬い音が響き、彼女は勝ち誇ったような、歪な陶酔を瞳に宿して我が社の役員たちが並ぶ席へと向き直った。
「御社ほどの精鋭集団が、なぜこのような”欠陥品”をプロジェクトの核心に据えているのか、私には理解に苦しみますの。……浅井陽斗さん。あなたはかつて、私という最高の資産を手に入れる資格を失い、私の元から惨めに放逐された落伍者。そんな市場価値のない人間に、我が社の根幹を担うシステムが扱えるとでもお思い? お父様、このような社会的な廃棄物を抱えたままでは、契約そのものに致命的な瑕疵があると言わざるを得ませんわ。ねぇ、お父様、そう思いませんこと?」
静寂。一瞬、会議室の空気が完全に凍りついた。
浩美の隣に座る貝村社長は、娘の暴言を嗜めるどころか、むしろこれ見よがしにふんぞり返り、高級な葉巻を指先で弄びながら鼻で笑った。その視線は、道端に転がる石ころを見るかのような、徹底した侮蔑に満ちている。
「全くだ。浩美の言う通りだよ。技術さえあればいいというものではない。人格に、いや……根本的な『種としての価値』に問題がある男が混ざっているようでは、こちらとしても安心して莫大な資金を投じるわけにはいかない。君のような、将来性も家柄も何もない男が、我々のような選ばれた人間と同じテーブルに座っていること自体、本来なら許されないことなんだよ。君の代わりなど、いくらでもいるんだ。それこそ、掃いて捨てるほどにな」
貝村社長は、俺がかつて彼らの会社で見せられた格差をこれでもかと強調し、俺の存在そのものを踏みにじるような言葉を重ねた。
「君がどれほど立派なシステムを構築しようが、私の娘を幸せにするどころか、満足な生活を維持する価値すらなかった。そんな人間が、我が社の未来を左右するシステムを構築するなど、噴飯ものだ」
侮辱、嘲笑、そして根拠のない中傷の雨。
俺がかつて、最も恐れ、夜も眠れぬほどに絶望し、そして一人で耐えてきた暴力の嵐。
俺は何も言い返さず、ただ静かに目を伏せ、嵐が過ぎるのを待とうとした。……だが。
「――今、なんと仰いましたかな?」
低く、地鳴りのような、そして身を切るような寒気を伴った声が会議室の床を震わせた。
我が社の社長、白髪を短く刈り込み、数々の伝説的なシステムを組み上げてきた技術の権化が、ゆっくりと椅子を引き、立ち上がった。その横に座る専務、常務もまた、血管が浮き出るほどに顔を真っ赤に染め、貝村親子を射殺さんばかりの勢いで睨みつけている。
「何……? いや、ですから、その浅井という男がいかに無能で、価値のない……」
「黙れッ!! この恥知らずがッ!!」
専務が、耳を劈くほどの怒号と共に机を両手で叩きつけた。分厚いウォールナットのテーブルが悲鳴を上げ、貝村社長が椅子ごと後方にのけぞる。
「我々が、どれほどの思いで、この浅井君を我が社の心臓として据えたと思っている!! 彼は縁あって中途採用で入社したが、その直後から見せた手腕は我々の想像を絶するものだった! 彼が僅か数ヶ月で独力で再構築した次世代アーキテクチャは、今後十年の業界の勢力図を一人で塗り替える至宝だ! 我が社が総力を挙げてバックアップしているこの才能を……それを、欠陥品だと!? 己の浅ましい私怨で、技術の神子を汚すというのかッ!!」
常務もまた、椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、震える拳を貝村社長の眼前に突きつけた。
「貝村社長!! 貴殿らは我が社の技術を求めて、三ヶ月も前から門前払いを承知で受付に日参していたはずだ!! 『どうか、どうかお力添えを』と、靴の裏を舐めるような勢いで縋り付いてきたのはどこのどいつだ!? それがいざ契約となれば、我が社が誇る最高技術責任者を、あろうことか過去の痴話喧嘩の延長で侮辱するとは……。正気か!? 正気の沙汰ではない!!」
「ま、待って下さい!! 私はただ、彼の人間性に懸念があると言っただけで……」
浩美の顔から、急速に血の気が引いていく。自慢のボブカットが、激しい動悸で乱れていた。
だが、我が社の社長は、もはや彼女の存在を視界の端にすら入れていなかった。
「貝村社長。一つ、決定的な計算違いを教えてやろう。我が社にとって、最大の資産は技術であり、その技術を具現化する浅井君そのものだ。彼を侮辱することは、我が社の存在意義、そして我々技術者全員の魂を否定することと同義だ。そんな価値も分からぬ無能な連中と、分かち合う未来など一秒も持ち合わせておらん!!」
社長は、俺の方を向き、深く頷いてくれる。その瞳には、俺の実力に対する絶対的な信頼と、家族を侮辱された家長のような激しい怒りが宿っていた。
「この契約は、今この瞬間、この場を以て完全白紙とする!! 撤回など認めん!! 法的措置だと? 笑わせるな!! 貴殿らが我が社の社員へのハラスメントを行った事実を、業界全体に即刻公表してやる!! 貴様らが馬鹿にした浅井君の技術を、どれだけの企業が喉から手が出るほど欲しがっているか……。今すぐその身で思い知るがいい!」
「そんな……っ! 冗談でしょう!?」
浩美が悲鳴を上げ、父親の袖を掴む。だが、貝村社長はすでに、我が社の役員たちが放つ圧倒的な実力者の威圧感に圧され、腰を抜かしたように座り込んでいた。
「浅井君。こんな技術の『ぎ』の字も理解せん、親の資産を自分の価値と勘違いしているような連中に、君の時間は一秒たりとも渡せん。行くぞ!」
社長に促され、俺は静かに席を立った。
出口に向かう際、浩美が俺に縋るような視線を投げてきた。かつて俺をゴミのように捨てた女が、今、自分たちがゴミのように捨てられる現実に直面し、言葉を失っている。
「陽斗さん……待って、私、あなたのために……っ!」
縋り付こうとする彼女の手を、常務が振り払った。
「寄るな、穢らわしい! 貴殿らのせいで、プロジェクトは完全に破綻した。違約金、そして我が社の被った信用毀損の損害、徹底的に請求させてもらうぞ。貝村興産……聞いたこともない名になるだろうな、数ヶ月後には」
「お前のせいだ浩美ッ! 余計な口を利きおって! この契約がどれほどの利益を生むはずだったか分かっているのか! 会社を潰す気かッ!!」
「……何よ、お父様だってさっきまで一緒に笑っていたじゃない! 私の判断を正しいって言ったのはお父様よ! 自分の無能を棚に上げて、全部私のせいにしないでッ!!」
「黙れ! 親に向かって何だその言い草は! 資産家の男に乗り換えるのを許してやった恩も忘れて……ッ!」
「恩!? 自分の見栄のために私を道具にしたのはどっちよ! 責任転嫁も見苦しいわ!!」
血を分けた親子による、逃げ場のない責任の擦り付け合い。互いのプライドを汚泥で塗り固めたような叫び声が廊下にまで漏れ出していたが、俺の耳にはもう、そのノイズが届くことはなかった。
(……デバッグ、完了だ)
エレベーターホールで、怒り狂ってくれた社長たちが、俺の肩を強く叩く。
「すまなかったなぁ、浅井君。あんな下俗な連中を近づけてしまった。君はもっと、高く評価されるべき男だ。あんな連中の言葉に価値もない」
「いえ、ありがとうございます。社長」
その手の温かさは、かつて俺が独りで戦い、失った居場所を、より強固な、決して壊されることのない城として取り戻したことを教えてくれた。
外の海は、変わらず青く、凪いでいる。
ポートライナーに揺られ、北野の坂を登り、あの古びたアトリエの扉を叩けば――。
そこには、俺の価値を、ただ一人の人間として、夕食の温もりと共に静かに受け入れてくれる彼女が待っている。
二度と、誰にもこの静寂は汚させない。
俺は、確かな足取りで、自分の帰るべき場所へと向かった。
そこには、俺の味方しかいないのだから。
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