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あなたの水

 あの人に触れられたら、空気すら幸せに染まってしまう気が、する。 

 紅茶にブランデーを垂らして、すっかり冷ましたらそれを十倍のお水で薄めて。彼はいつもそれをわたしにくれる。昼間の太陽がよく当たるベランダ際の窓のところ、わたしは葉を震わせて夜の水を身体に浴びる。

 いつも別の女を連れて帰る彼の、今日の連れは金色の髪をした色白の女だった。くっきりとした二重の目は眠たそうに見えるのに、どこかずるそうな光も含んでいる。薄い紫色のソファベッドの上、彼が彼女を軽く押し倒すと甘くいやらしげな声が部屋に充満した。カーテンを引いていない窓から、月の光よりも強い街の灯りがこぼれ流れる。

「……悪い、大事な事を忘れていた」

 彼がそう言ってわたしに水をやりはじめた時、彼女は抗議の声を上げた。

 水なんて後で良いじゃないの、なにそれ、あたしよりそんな植物が大事だって言うの?

 そうだよ、と彼はもちろん言わない。

 そんな事を言ってしまうほど、彼は女に慣れていないつまらない男じゃない。

「まさか。日課だから、やらないと気が済まないんだ、それに、君にこれ以上夢中になったら植物なんていくつ枯らしてしまう事か」

 その前に済ませるだけだよ、と甘い声で囁けば、彼女はすぐに満足そうな笑みを浮かべる。わたしはため息の代わりに葉をしらしらと揺らした。

 わたしが買われたのは、もう一年も前の話になる。小さな観葉植物のようなわたしは、自分がどこから来たのか覚えてもいないのだけれど、彼に買われた時の事は一分前の出来事のようにはっきりと記憶している。雨が降る日の、小さな花屋の隅っこで、わたしは震えていた。暑いところで生まれたのかもしれない。緑の葉だけを茂らせて、お世辞にも美しい容姿をしているとは言えないくせに、値段だけは一人前のわたしを、買ってくれる人は彼が現れるまでひとりもいなかった。 あの日、彼は黒いスーツを着ていて、誰かとの待ち合わせだったのかもしれない、オレンジ色の花で小さなブーケを作ってくれと店に飛び込んできた。長い前髪から雨の雫が、きらきらと落ちて光っていて、わたしはそれを綺麗だとうっとりしていた。

 店員のお待ちください、の言葉に、頷いた彼がわたしを見つけたのはすぐの事だった。店の隅で震えるように葉を茂らせているわたしを。

 あれは、と彼はわたしを指差した。

 売り物ですか、と。

 売り物ですよ、と店員が答えてそして、いかがですか、と、とりあえずな口調で彼に聞いた。店員だって、わたしが売れるとは思ってもいなかったと思う。花が咲くわけでもなく、実が生るわけでもないわたしなど。

 もちろんわたしだって自分が売れるとは思っても見なかった。

 だから、彼がいくらですか、と店員に尋ねた時、彼の髪のきらきらをただ見詰めているだけで、何も考えていなかったのだ。

 お買い求めですか、と驚いた声を出す店員に、彼は不思議そうな顔をして、売り物でしょう、と聞き返した。わたしに口があったのなら、わたしだって叫んでいただろう。お買い求めですか、わたしを? と。

 配達する、という店員の申し出を断って、なんと彼はわたしを抱いて店を出た。ひどく重いであろう、素焼きの鉢に入ったわたしを抱いて。オレンジ色のブーケは取り消されてしまった。彼のその夜の約束は、わたしのせいでキャンセルになったのだ。

 驚きと恥ずかしさで震えるわたしに、彼はそっと囁いた。

 ねぇ、ずっと待っていたんだろう、あの店からお前を連れ出してしまうぼくのような人間を、と。

 わたしは、わたしはずっとその時から、彼に恋をしている。

 それは、だって仕方がないでしょう、そんな素敵な言葉を、行動を注がれたら。

「なんで紅茶をやるの?」

「好きだから」

「あなたが?」

「いや、この子が」

 彼はわたしを「この子」という。それが、わたしをとても喜ばせる。

「……紅茶が好きですって、自己紹介したの?」

「自己紹介はされていないけれどさ、好きだから、以心伝心」

「あらま、妬ける事」

 ちっとも嫉妬なんて含まれない声で彼女が笑う。わたしはそっと俯いてしまう。わたしも人間の女ならば、と考えた事はある。けれども、それはとても無駄な想像だった。わたしがもしも人間の女だったとしても、とても彼が連れてくるような美しい人達ではないだろう。幹の太さや葉の厚さから考えても、骨太のテレビでたまに映っているような、ひどく田舎くさい女なだけだろう。

「ね、もういいでしょ?」

 次はあたしにあなたのお水を頂戴な、と彼女が誘う。小振りの胸は形が良く、美しい。細い腕を伸ばして、白く小さな手をひらひらさせて。

 彼はわたしの葉に少しだけ触れて、そして彼女の呼ぶソファベッドへと向ってしまった。彼女の唇が、彼のそれを塞いでしまう。夜が始まる。ねっとりと甘い蜜が、重なり合うふたりの間からこぼれてこぼれて、わたしをがんじがらめにする。知っている、この感情は嫉妬なのだ。知っている、けれどもどうしようもないこの感情は。

 彼女から漏れる吐息は彼への賛辞にそのまま形を変える。

わたしは目を閉じて耳を塞ぎたいのだけれど、どうしてもそれが出来ないのだ。女を抱く彼の姿でも見ていたいから。わたしの為ではない愛の言葉でも、彼の声なら聞いていたいから。

 美しい背中が揺れる。

 わたしの視線は誰も気付かない。

 わたしの根が、彼のくれた水を飲み込んでいる。

 ごくごくと、わたしの身体が、微かな音を立てる。

 ひときわ高い声を上げて、彼女がぐったりと彼から身を放した。ぼんやりとしていたわたしは、先ほどより月の位置が高いところへ変わっていたのを知る。どれぐらいの時間が、経ってしまったのだろうか。

終電には間に合わないけど、と彼女がシャワー後に服を身に付けながらそう言った。

「女に泊まられるのが大嫌いって噂ですもの、あたしだって例外じゃないのよね?」

 彼はゆっくりと唇を持ち上げて、ごめん、とだけ笑った。

「いいわよ、タクシー捕まえるから」

「その代金は払わせてもらうよ、お嬢様」

 うふふふふ、と彼女が笑って、その唇はまた重ねられた。

 ずるい、とわたしはそっぽを向いた。

 彼女を送り出してしまうと、彼はそのままシャワーを浴びて、カーテンも引かないままソファベッドに横似になる。電気を消さなきゃ、というわたしの声は届かないまま、彼の薄い瞼が閉じられる。

 やがて、静かな寝息。

 わたしは月に向けて葉を伸ばす。

 ゆるゆると、そっと、わたしは植物ではない、人間の形を、つくる。

 それがわたしの願望からなる空想なのか、それとも月の光が織る幻想なのか、わたしには分からない。 けれども、彼が連れてくる女たちが帰った後、彼が眠ってしまったその時だけ、わたしはわたしの身体を抜け出す。

 静かに眠るその唇に、わたしはそっと触れる。

 わたしに水をくれる、形の良い骨をした手に触れる。

 明日も彼はわたしに水をくれる。

 女たちは帰されてしまうけれど、わたしだけはいつまでも彼の傍で、水を与え続けていてもらえる。

 その喜びに震えて、わたしはそっと彼を見下ろす。

 愛しています、と囁きながら。

 わたしだけを見て、なんて言わないから、どうかわたしの事もずっと愛していてください、と祈りながら。

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