生活の始まり
陽が沈む前までには、何とか生活するだけの空間を確保することが出来た。
洗濯されて乾いたシーツはソファに掛けられてベッドと化している。
台所の竈には火が入れられ、その上に置いた大きな鍋には湯が沸いている。
マルセルの湯あみのために沸かしたのだ。
よく気の付く娘だとマッケン爺さんが感心して見ていると、それに気づいたジャンヌが走り寄って来た。
「ありがとうございました。マッケンさん、カストさん」
礼を言って、ペコッと頭を下げる。
「いいってことよ。ここに寄せたガラクタは、後でカストが物置小屋を造ってから片付ける。それまでは少々狭いが我慢してくれ」
「他にも何か手伝えることがあったら、遠慮なく言ってくればいい」
「わかりました。よろしくお願いします。あの、まだ白湯位しかないですが、どうぞ」
ジャンヌは白湯の入ったコップを二人に渡した。マルセルにもコップを渡していた。
白湯とは言っているが、どこで見つけて来たのか、ほのかにミントの香りがする。
改めて、よく気の付く子だとマッケンが感心していると、傍らで湯冷ましを飲んでいるマルセルを見ながら、カストがつぶやいた。
「この子も前の子と同じように、どこかにもらわれていくのかなぁ」
「もらわれていくのですか!じゃ、私はどうなるのでしょう?」
横で聞いたジャンヌが不審そうに聞いた。
「お前さんはこの家の事情を知らんかったな」
マッケン爺さんがタバコに火を点けて吸い込むと、ふぅっと煙を吐いて続ける。
「ご主人さまはな、聖女さまを探しておられてだな」
「聖女さま?ですか」
「まあ正確には、”聖女の証”を持った娘だな」
マッケン爺さんはマルセルに目を移した。
「聞いたところによると、今回の子も生まれた時には光が舞わなかったらしい。それでご主人さまは落胆されておると聞いた」
「たぶん、この子のことだろうな」
「でも”聖女の証”は五歳にならないとわからないんだろう?」
カストが口を出すと、マッケン爺さんが後を続ける。
「何でも、精霊の力の大きい子は生まれた時にも光が舞うらしい。儂はまだ見たことが無いがな」
「それがこの子には無かったということだろうーー」
「でーーご主人はもう次の子を探していると聞いた」
それを聞いていたジャンヌは、ふと思い出して、マッケン爺さんに聞いた。
「さっき、マルセルさまがいなくなってしまいまして、花壇におられるのを見つけた時に、蛍のようなものが周りを飛んでいるのを見たのですけどーーあれは何だったんでしょう?」
「この季節、蛍はまだ飛ばないぜ」
カストが呆れたように言った。
マッケン爺さんはマルセルをじっと見つめた。
それに気がついたマルセルも、マッケン爺さんをじっと見つめ返して、ニコッと笑った。
その瞬間、なぜか爺さんは何とも言えず幸せな気分になった。
ーーこりゃ、ひょっとするかも知れんな。
ーー儂らで守ってやらんとな。
マッケン爺さんはこの子たちを守ってやろうと心に決めた。
「ジャンヌさんや、ここは先の大奥さまのお気に入りの場所での」
「結婚されたころには、ここには平らで丸い大きな白い岩があっての」
「大奥さまはそれが大そう気に入っていて、暇さえあればその上に座っておられた」
「その頃は、儂はまだ若かったが、そんな大奥さまに頼まれていろいろやっているうちに、いつの間にかこの尖塔を建てておった」
マッケン爺さんは螺旋階段の下を指差した。
「そら、そこの床が一枚岩になっておるじゃろ」
「それからは、ご夫妻でこちらで過ごすことも多くなっての」
「お二人の最後も、この尖塔の中でじゃった」
「大奥さまがここを気に入られたのは、お前さんが見たという光と同じようなものかもしれんの」
「大奥さまも”聖女の証”を持っておいでじゃったからの」
「大きな声では言えんが、もしそう言うことならーー」
マッケン爺さんはジャンヌの耳元に口を寄せると囁いた。
「マルセルさまも”聖女の証”を持っておられるかもしれんぞ」
「マルセルさまがですか」
「うむ、それも五歳になるまでは、はっきりせんがの」
「それも先のことじゃ。ただこれまでと同じ扱いなら、結果を見るまでもなく、一か月後には他所に行かれる」
「まあそれまでは、しっかり面倒を見てあげんとの」
「はい」
「ジャンヌさんや、マルセルさんの湯あみが済んだら、いっしょに母屋に行こうじゃないか」
「飯も食わんといけんしな。マルセルさんも、お前さんも腹が減っているだろう」
「わしら使用人の皆で、お前さんらの今後のことを話そうじゃないか」
マッケン爺さんの呼びかけで、食後にシフォン家に雇われている皆が集まってきた。
マッケン爺さんがマルセルとジャンヌの支援を皆に頼むと、皆もそれには異存は無かったが、以外にもジャンヌが口を開いた。
「出来るだけ私たちでやりたいです」
「私たちには無理なところだけ、手伝っていただけませんか」
ジャンヌがそう言って頭を下げると、横に立っていたマルセルもピョコッとお辞儀をした。
皆も思わず一斉に深くお辞儀を返した。
そこにいた皆は、何とも幸せな気分になって、マルセルとジャンヌを支えていこうと心に決めたのだった。
「そうは言ってもねえ、ジャンヌ 乳離れしているとは言え、幼児の面倒を見たことはあるのかい」
マーサが心配そうに言う。
「いえ、うちには妹も弟もいませんでしたから」
「結構、大変なんだよ」
「それにお前、十歳だと言っていたが、本当はまだ九歳にもなっていないんじゃないのかい」
「やらせてください。お願いします」
ーーバレてしまうと辞めさせられるかも知れない。
そう思ったジャンヌが深く頭を下げて頼み込んだ。
マーサは後ろに控えていた娘をちらっと見る。
娘がジャンヌに同意するように、微笑みを浮かべてうなづく。
これまでは彼女が赤子の面倒を見て来たのだ。
マーサはしばらく考える風だったが、観念したようにふっと息を吐くと、頭を掻きながらジャンヌに言う。
「わかったわ!明日から、朝起きて寝床を片付けたら、マルセルさまと一緒にここに来な」
「ありがとうございます!」
「わからないことは、このレナに聞きな」
「はい、よろしくお願いしましゅ」
ほっとしたジャンヌが深く頭を下げる。
「朝食を食べた後で、いろいろ教えてあげよう。レナも頼むよ」
マーサがさっきの娘に指示する。
「お任せください。メイド長」
すると、執事のタンカが声を掛けてきた。
「そうだな、時間が取れれば、私もお前に読み書きを教えてやろう」
「マルセルさまにちゃんとした教育を受けて欲しいからな。まずはお前が先生になるんだ」
「ジャンヌは私の部下だよ。勝手なことをしないでおくれ」
「悪かった。だが私にもジャンヌを教育する時間を少しおくれでないか? マーサさん」
「仕方がないね」
ジャンヌの方に向き直るとマーサが口を開く。
「私もあんたにメイドの教育をするからね」
「食事が済んだら、今日はもう尖塔に戻りな。あそこでもやることがたくさんあるんだろう?」
「明日からマッケン爺さんたちとこっちに来て食事をするといい」
「教育の時間は後で決めておくよ」
「教育が終わったら尖塔に戻って自由に過ごしな。とは言っても、マルセルさまのお世話は一日中になるよ」
「はい、わかりました」
話が終わったのを見定めて、レナがジャンヌに声を掛ける。
「ジャンヌ、育児室にあるベッドや下着類を持って行きなさい」
「カスト、運ぶのを手伝ってやって」
「おお、わかった」
歩きながらレナが言う。
「こっちの育児室を使えばいいのに」
「奥さまが尖塔を使えとおっしゃったんです」
思いもかけないことをジャンヌが言うので、レナは少し驚いた。
ーー奥さまは尖塔を嫌っておられたのにーー
「なら、仕方ないわね」
「こっちよ」
レナに連れられて、ジャンヌとカストが部屋を出て行くのを見届けると、マーサがタンカのそばに寄っていき、問いかけた。
「いつもなら、あんたがレナに赤子を預けるのに、何で今回はジャンヌが担当になったんだい?」
「それなんだが、ほら、アスク坊ちゃまが大暴れされた時だよ」
「私がご主人さまの所に行った時には、もう奥さまがマルセルさまを引き取っておられたんだ」
「急いで奥さまの所に行ったんだが、もうジャンヌが連れて行った後だった」
「面目ないが、私も夕飯時までマルセルさまがどこにおられるのかも知らなかったんだ」
「まさか館の外に住む準備をしていたとはね」
「まあ、いつも通りなら、ご主人さまは一週間か一ヶ月の間にまた戻って来られるだろうから、それまでジャンヌに任せても問題ないんじゃないかな」
タンカがそばにいたマッケン爺さんに声を掛けた。
「マッケン爺さん、あの尖塔はあんたの縄張りだ。問題無いよう気をつけておいてくれよ」
「おうよ、あの二人は賢いでの、滅多なことは無いと思うが、気を付けておくよ」




