シフォン家の長男アスク
ジャンヌがシフォン家にやって来たその頃、シフォン家の一人息子のアスクが癇癪を起して泣きわめいていた。
メイドたちがどうなだめようと、お構いなしに暴れている。
部屋のカーテンは引きちぎられ、テーブルの上にあった花瓶も床に落ちて割れていた。
アスクは一人息子として甘やかされて育っていたためか、少しでも気に入らないことがあると暴れるようになっていた。
こうなると、なだめることが出来るのは母のデノーテだけだった。
マルセルをジャンヌに任せて部屋に入って来たデノーテが、アスクの背中を軽く叩きながら抱いてやると、しばらくして癇癪は収まった。
デノーテが優しくアスクに尋ねる。
「あらあら、アスク、どうしたのかしら?」
「こいつがーー」
アスクがメイドの一人を指差して叫んだ。
「この家の跡継ぎで、この国の王さま候補の僕に、メイドのくせして命令してくるんだ」
「この青い服を着ろと言うんだ。僕はあの赤いのが気に入ってたのに」
「あら、それは災難だったわね。じゃ、あの娘は後でお仕置きをしておくわ」
「でも、この青い服もステキじゃない。お母さんは好きだけどね」
デノーテはそう言うと、アスクに指差されたメイドの方を向いてウインクすると大きな声で怒鳴りつけた。
「何してるの!早く赤い服を持っておいで!」
その声にびっくりしたのはアスクだった。
「お母さんが好きだと言うならーー僕、青い服を着てもいいな」
「あら、そうなの? あなたは本当にお母さん思いなのね。ありがとう」
アスクに見えないように、メイドに向かってもう一度ウインクしたデノーテが言った。
「青い服がいいそうよ」
そしてメイドに向かってまた大きな声で怒鳴った。
「あなた!後で私の部屋にいらっしゃい。アスクを困らせたお仕置きをするわよ!」
お仕置きと言われて泣きべそでもかくかと思われたメイドは、笑顔を隠すのに苦労していた。
お仕置きとは小遣いがもらえることだったのだ。
「アスク、お母さんはあの娘をお仕置きしてくるわね。あなた、一緒に来なさい!」
そう言うと、デノーテは部屋を後にして自室に戻っていった。
ウキウキと後ろについて来たメイドに小遣いを渡して気持ちが落ち着くと、椅子に座り、本の続きを読み始めた。
余りに気持ちが昂っていたからか、デノーテはマルセルとジャンヌの処遇を執事のタンカに伝えることを、すっかり忘れてしまっていた。
それから何日か過ぎたころ、いつものように窓から景色を眺めていたデノーテは尖塔のそばで一人の女の子が洗濯物を干しているのを見つけた。
シフォン家のメイドの服を着ているが、デノーテには見覚えが無かった。
誰だろうと気になって見ていると、尖塔の入り口のドアの陰から、ようやく歩けるようになった女の子が、おぼつかない足取りで洗濯物を干している女の子のそばに近寄って行った。
とても仲の良い姉妹のように見えるが、この子にも見覚えが無かった。
部屋にいたメイドにデノーテは尋ねた。
「あの子たちは何者なの?」
メイドは窓のそばまで歩いて行き、外を見て納得の表情を浮かべると、事も無げに言った。
「あれは、旦那さまが連れて来られたマルセルさまと、メイド見習いのジャンヌですね」
「ご存じじゃなかったのですか?」
訝しげにデノーテに問いかける。
デノーテはようやく思い出した。
ーーそう言えば、あの子たちのことをタンカに話すのを忘れていたわ。旦那さまからもそうしろと言われていたのに。
「ああ、あの子たちね。マルセルーーとーージャンヌーーでしょう」
「はい、マルセルさまは、もうしゃべれるようにおなりです。とてもご聡明ですよ。まだ二歳にもならないのに、簡単な本ならもう理解できるとか」
「そう、バッセに似たのかしらね」
「あっ、余計なことを申し上げて申し訳ありません」
「いいのよ。気にしないで」
メイドが謝ったのは、今もってアスクの癇癪は直らず、時々屋敷中の皆を困らせていたからだった。
ーーあれから一ヶ月以上になるけど、あの子たち、どうやって生活してたんだろう。
ーー自分は何も指示していないし、バッセも私に任せると言ったきり、家には顔も出してない。
ーー下手をしたら、飢えて死んでたかも知れないじゃない。
デノーテはブルッと身震いして呟いた。
「保護者失格だわね」
「えっ」
「いえ、気にしないで。それであの子たち、どうやって生活しているのかしら」
「今はジャンヌが私たちと同じ賄を尖塔に運んでいるようですね」
「あとの世話は全部ジャンヌが一人でしているみたいです」
「賄を食べている?」
「あっ、勝手に食べ物を分けて申し訳ありません」
「いいのよ。気を使ってくれていて助かるわ。あの子たちのことはーー」
「今まで通り、あなたたちに任せるわ」
「はい、執事のタンカさんにそうお伝えしておきます」
デノーテはホッとため息をついた。
このところ、アスクの世話に明け暮れて、他の事を考える余裕が全く無かったのだ。
ーーそれにしても、十歳にも満たない女の子が、一人で赤子を育てられるなんて信じられない。
ーー心配した私がバカみたいじゃない。
ーーバッセは”聖女の証”を持つ娘を求めて奔走。私はアスクのお守り。シフォン家がうまくいっているのが不思議な位だわ。
アスクを生んだ後、デノーテは子供に恵まれなかった。
それでも長男を生んだことで、シフォン家を存続させる責任は果たしたと思っていた。
後はデノーテのような”聖女の証”を持つ娘をアスクの嫁にすればいいだけの話である。
ところが、バッセはデノーテ以外の女性との間に生まれる”聖女の証”を持つ女の子を欲しがった。
バッセが何を考えているのか、デノーテにはわからなかった。
それよりも、もしそんな子が見つかった場合、シフォン家は誰が継ぐのだろうかと考えると、大きな不安が押し寄せてきた。
アスクのためを思うと耐えられず、アスクを溺愛することで自分の気持ちを抑えるしかなかった。
ーー他に考える余裕は無いわ。もう、放っておくしかないわね。
これを境に、デノーテの頭から尖塔に住むマルセルとジャンヌのことはすっかり消えてしまう。




