デノーテ、赤ん坊を渡される
シフォン家の二階の自室の窓辺に置かれた、お気に入りのソファに座って本を読んでいた領主の妻のデノーテが、丘の下にある正門から入ってくる馬車に気づいた。
ーーあら、今日はお客さまの予定があったかしらね?
手元にあった訪問者リストに目を走らせたデノーテの顔が訝しがる。
ーー急な予約でも入っていたのかしら?
「マーサ、馬車が入って来てるわよ」
メイド長のマーサに声を掛けたが、返事が無い。
ーーどうしたのかしら。お客さまなら失礼になるのに。
この平原には四つの丘があって、それぞれに領主の館が建っている。
中でもシフォン家の屋敷は、国中で最も景色がいいと言われている丘の上にあった。
南には高い山を正面に抱き、その裾野は深い森と湖が東西に広がっている。
北側を見ると、屏風と呼ばれている高い崖のような山に囲まれ、その山越しに氷河で覆われた山脈が目に入る。
足元の麓には、緑の平原と、四つの丘に建つ領主の館と、その周囲に広がる街並みが見える。
それだけでも美しい景色なのだが、シフォン家の屋敷に造られている庭園の美しさと、丘のすそ野に広がる菜園の野菜の美味しさは、訪れたことのある誰もが褒め称えていた。
それらは代々の当主が作庭や園芸に力を入れて来た賜物で、それを求めて来訪を願う貴族や裕福な者たちが後を絶たなかった。
そんな彼らの期待に応えるために、領主のバッセと妻のデノーテは、屋敷を解放して毎日のように客を迎え入れていた。
当然ながら、それはシフォン家の財政を途方もなく豊かにしていた。
馬車に乗っているのは、そんなお客に違いないとデノーテは思ったのだ。
デノーテは椅子から立ち上がると、もっとよく見ようと窓辺に歩み寄り、バルコニーに出た。
そこはデノーテのお気に入りの場所で、そこから、少し離れて右横に建つ白い石造りの尖塔や、丘に広がる庭園を見渡すことが出来る。
今を盛りとバラの咲き誇る庭園と、緑の野菜で埋る菜園の間の石畳を走り抜けて坂を上がって来たのは、主のバッセが乗った馬車だった。
ーーあら、旦那さまだわ。
安心したデノーテの顔がほころぶ。
バッセの帰宅は久しぶりだった。
「タンカ、旦那さまがお帰りになったわよ」
浮き浮きした声で執事のタンカに声を掛けたが、こちらも返事が無い。
ーー皆どうしたのかしら。しょうがないわね。
デノーテは溜め息をつくと、自分が迎えようと階下に降りていき、玄関先で馬車が到着するのを待った。
黒いドレス姿の、濃いグレーの髪とエメラルド色の目をしたデノーテが、馬車から降りて来たバッセに近寄り、笑顔で迎える。
「おかえりなさいませ」
「うん?」
デノーテが迎えに出てくるとは思っていなかったバッセは躊躇ってしまった。
キョロキョロと執事のタンカの姿を探すが、なぜか今日は姿が見えない。
そんなバッセの手に、一歳くらいの女の子が抱かれているのにデノーテが気づいた。
「あら、その子は?」
いつもなら執事のタンカに手渡すのだが、そこにはデノーテしかいなかった。
観念したバッセは無理矢理デノーテに女の子を抱かせ、つっけんどんに声を掛ける。
「約束だったので引き取ってやって来た」
「タンカに渡してやってくれればいい。後のことはあいつが心得ている。何、いつものことだ」
「もう乳離れをしていると聞いているから、これまで通りでいいはずだ」
「えっ、どういうことでしょうか?」
受け取りはしたものの、驚いて問いかけたデノーテには何も答えず、バッセは背を向けて歩き出した。
そして誰に聞かせるともなく、ぶつぶつ何かを言いながら屋敷に入って行った。
「あの娘め、”聖女の証”を持っていると言うから、子を産ませたのにーー」
そして如何にも残念そうに顔をしかめて、吐き出すように続けた。
「この子にも”聖女の証”の兆候は無かった」
ーーまたいつもの犠牲者という訳ね。
”聖女の証”を持つ子供欲しさに、少しでも聖女の片鱗がある娘にバッセが手を付けていることは有名で、デノーテの耳にも入って来ていた。
デノーテはハァとため息をつき、慌ててバッセの後を追いかけて居間に入ると、意見を始めた。
「”聖女の証”があるかどうかは、五歳で行う”聖女検定の儀”までわからないと思いますがーー」
デノーテの言葉を最後まで聞こうとせず、足を停めて振り返ったバッセが大きな声でその言葉を遮った。
「生まれつき精霊の力が大きい娘なら、生まれた時にも光が舞うと聞いているぞ」
「お前だってそうだったのではないか?」
そう言って、シフォン家の特徴である紫色の瞳でデノーテを見つめて、これ以上文句は言わせないという素振りを見せる。
デノーテが生まれた時の光り輝く様を見た父親が、これで次の王家は我がモードネス家に決まりだと、喜びを抑えきれず、全ての領民を集めて二晩通して誕生祝いの宴を催したくらいだ。
この国の王位は、王位継承権のある家で精霊の力が一番強い娘のいる家にと決められている。
当時、生まれた時に光り輝いた女の子はデノーテの他にも二人いた。
その二人はシバー家の姉妹だったが、その姉のエレノアの力が認められて、今はシャンツ王家の王妃になっている。
王家になり損ねたデノーテの父親の落胆ぶりは大きかった。
しかも多額の借金までして、王家になる準備を進めていたのだ。
当然、返す当てが無くなったと知った貸主たちは、すぐにでも借金を返済するよう要求して来た。
そんな中で、デノーテがシフォン家のバッセと婚姻すると聞いた口さがない者たちが、王位を失して落胆した父親が娘をシフォン家に売り払ったと囃し立てた。
実はデノーテとバッセは元より相思相愛の仲だったので、そんな噂などは気にも留めていなかったが、最近のバッセの行動を見ていると、流石のデノーテも心が揺れることもある。
デノーテは背すじを伸ばし、自分を奮い立たせるようにして答えた。
「はい、それはそうですがーーそれも五歳になれば、はっきりすることではありませんか?」
精霊の力を持っているかどうかは、五歳になると行われる”聖女の証”の儀式でわかる。
だが、バッセはデノーテから目をそらして、吐き捨てるように言った。
「それでは遅過ぎる。五歳になるまで待てるか」
「私の娘が大きな精霊の力を持っているという確証を一刻も早く知って安心したいのだ」
「私にはシフォン家の王位継承権を確実に次の代に引き継ぐ使命がある。私の代で途切れさせるなど、もってのほかなのだ」
それは、事ある度にバッセから言い聞かされて来ていた言葉だった。




