愛人契約書
契約書に書かれた条件は、たったひとつ。
「愛を望まないこと」
それに自分の名前を書き込んだ瞬間から、
私は人間じゃなくなった。
彼が欲しい時だけ笑い、
都合の悪い感情は押し殺す、
安く扱える生き物になった。
でも、嬉しかった。
名前を呼ばれるたびに、
唇に触れられるたびに、
私は「存在している」と実感できた。
馬鹿みたいに。
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契約の残りは一週間。
だんだん、彼は呼んでくれなくなった。
会う頻度が減り、メッセージは単語だけ。
既読がつくだけで泣きそうになる。
「邪魔じゃないよね?」
と尋ねた日、彼は笑った。
「君は邪魔にならないのが取り柄だろ?」
褒め言葉のように言われたそれを、
私は本気で喜んだ。
惨めだと分かっていても。
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最終日。
私は一番似合うと思ったワンピースで彼を待った。
寒さで手が震えても、笑顔だけは崩さない。
「今日で終わりにしよう」
彼はコーヒーを飲み干しながら言った。
「契約どおり」
私は頷いた。
喉が潰れて、声が出なかったから。
彼は立ち上がり、
私の頭をひと撫でして言った。
「ありがとう。本当に助かったよ」
助かった。
私は、彼の支えにすらなれなかった。
彼の恋人にも、何者にもなれなかった。
なのに。
時計の針が日付を越えて、
契約が完全に切れた瞬間。
私は席に残され、
飲みかけの冷たいカフェオレと向き合った。
「大好きだったよ」
彼がいない店内で呟く。
自分に聞かせるために。
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帰らなきゃいけないのに、
歩けない。
だって、契約が切れた途端、
私はまた無価値に戻った。
一枚の紙切れに縋りつき、
役に立つ道具のフリをして、
名前を呼ばれたくて笑い続けて。
それでも彼の恋人には、なれなかった。
契約書を胸に抱いて、
私はまたサインする。
次はもっと上手く笑えるように。
大切にされなくても構わない。
蹴られても、利用されても、
捨てられないように。
ねえ。
期限付きでもいい。
使い捨てでもいい。
だから、どうか。
彼の手の中に、私を置いてください。
愛が欲しいなんて、
二度と言わないから。




