名前を呼ばれない女
彼にとって、私は「あの子」だった。
名前を呼ばれたことは、ほとんどない。
「ねぇ」「そっちの子」「あの子」
指さしでも声だけでも、私は彼にとって都合のよい存在だった。
それでも、彼が笑うと嬉しかった。
メールの返信が一言でも来れば、眠れないほど胸が跳ねた。
都合よく呼び出されても、深夜に駅前で待たされても、
「また会えた」その事実だけで満たされた。
彼には恋人がいる。
それでも私は、彼の邪魔をしない距離を保っていたつもりだった。
邪魔にならない位置。
都合よく思い出してもらえる位置。
愛されないけれど嫌われない、薄い影のような場所。
私は自分を賢いと思っていた。
求めすぎない恋は壊れない、と。
季節がひとつ巡ったころ、
彼は言いにくそうに私の前に立った。
「……もう、会うのやめよう」
風が吹いた。
私の手から、持っていた紙袋が滑り落ちる。
誕生日でもなんでもない彼に渡すつもりだった、小さな贈り物。
その時、彼は初めて私の名前を呼んだ。
まっすぐに、はっきりと。
「美紅【みく】、ごめん」
胸が痛むなんて言葉じゃ足りない。
名前を呼ばれた喜びと、
終わりを突きつけられた絶望が同時に押し寄せて、
呼吸の方法を忘れた。
やっと呼んでくれた。
やっと、私を一人の人間として見てくれた。
なのに、どうしてそれが別れの合図なの。
「ありがとう。楽しかったよ」
自分でも信じられないほど明るく笑った。
彼の前で泣いたら、本気で好きだったとバレてしまうから。
彼は去った。
振り返りもしない。
きっと明日には、私の名前も忘れている。
私は、プレゼントが落ちたままの駅前にしゃがみ込む。
風で包装紙がめくれた。
リボンが千切れそうに揺れた。
名前を呼ばれた声が、耳に残り続ける。
あんなに欲しかったことなのに。
こんなに嬉しいのに。
それなのに涙が止まらない。
私は今日、彼にとって初めての「美紅」になった。
そして今日、彼にとって最後の「美紅」になった。
忘れられる前提で好きになった恋。
名前も呼ばれない立場で生きた恋。
救いがなくても、私は確かに恋をしていた。
だから、もう一度だけ。
小さく呟く。
誰にも聞こえないように。
「私を呼んでくれて、ありがとう」




