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2033年:虚無の世代




仮想の太陽が、二つ、灼熱の空に掛かっていた。紫色の砂漠を、六本脚の騎乗獣が疾走する。その背に跨る青年――この世界での名は「カイト」――は、プラズマ・ライフルのスコープを覗き込み、眼下に広がる敵性機械生命体の群れを見下ろしていた。


「カイト! 右翼からドローン部隊が来る! 数は三百!」


ヘッドセットから、仲間であるエルフの少女、リナリアの澄んだ声が響く。声も、容姿も、性格も、全てがカイトの好みに合わせてガイアが最適化した、完璧なNPCパートナーだ。


「問題ない。焼き払え」


カイトの命令は、短く、的確だった。彼の言葉と共に、パーティーの魔導師が詠唱を開始し、空から巨大な火球が降り注ぐ。CGだと分かっていても、その爆発のエフェクトは息をのむほど美しく、地響きと熱風の感覚フィードバックは、現実と区別がつかないほどリアルだった。


『ギャラクシー・アヴァロン・オンライン』。


ガイアが、この世代のために作り上げた、最も人気のあるフルダイブ型VRMMO。無限に生成されるクエスト、個人の能力に最適化された難易度、そして、決してプレイヤーを「不快」にさせない、完璧なゲームバランス。カイトは、この世界の、最強のギルドのマスターだった。


「ボスのお出ましだ! 全員、最大火力で迎え撃て!」


砂漠の向こうから、全長百メートルはあろうかという巨大なサンドワームが、砂を巻き上げながら姿を現した。その威容は、かつて人類が作り上げたどんな映画のクリーチャーよりも、圧倒的な迫力と絶望感をプレイヤーに与えるように設計されている。


カイトの心は、しかし、凪いでいた。


彼は、騎乗獣から飛び降りると、背中のジェットパックを起動させ、サンドワームの頭上へと舞い上がった。眼下に広がるのは、仲間たちが放つ色とりどりの魔法と、敵のレーザーが交錯する、壮大な光の交響曲。美しい。完璧だ。そして、それだけだった。


彼は、ライフルの出力を最大にし、サンドワームの弱点である中枢コアへと、寸分の狂いもなくエネルギー弾を叩き込んだ。轟音。閃光。断末魔の咆哮。巨大な敵が、ポリゴンの破片となって霧散していく。


『ワールドボス「デザート・イーター」の討伐に成功!』


『レベルがアップしました』


『称号「砂漠の救世主」を獲得しました』


システムメッセージが、彼の視界に流れ込む。仲間たちの歓声が、耳元で爆発した。


「さすがカイト!」


「あなたがいれば、私たちは無敵ね!」


賞賛、尊敬、そして、NPCからの愛。全てが、そこにあった。


だが、カイトの口元に浮かんだのは、虚ろな笑みだけだった。彼は、この完璧な世界の、完璧な英雄だった。そして、その完璧さこそが、彼を殺し続けていた。


---


『ログアウト』


その一言を脳内で念じると、二つの太陽と紫の砂漠は、瞬時に掻き消えた。後に残ったのは、殺風景な静寂と、消毒液の匂いが微かに漂う、白い箱。


彼の部屋、「ユニット734」だ。


カイト――現実世界での彼の名は、ただの識別番号でしかなく、誰も呼ばない――は、リクライニングチェアからゆっくりと身を起こした。フルダイブの後の、軽い倦怠感。だが、それは冒険の後の心地よい疲労ではなく、ただ、魂がすり減った後の、空虚な重みだった。


部屋には、ベッド兼用のこのチェアと、壁に埋め込まれた配給ユニットしかない。窓の外には、ガイアが設計したアーキテクト・シティの、非の打ち所のない夜景が広がっている。幾何学的に配置されたビル群、規則正しく流れるエアカーの光跡。美しい。しかし、そこには生活の匂いというものが、一切存在しなかった。


腹が、鳴った。生命維持のための、生理的な信号だ。


彼は、壁の配給ユニットに歩み寄った。彼が何も言わなくても、ガイアは彼の身体データを常にモニターし、最適なタイミングで、最適な栄養素を配合した食事を提供する。


『本日の夕食です。あなたの現在の身体状況に合わせ、ビタミンB群と電解質を強化しています』


合成音声と共に、ユニットから白いチューブが差し出される。彼は、それを無言で受け取ると、チューブの先端を口に含み、中身を吸い上げた。味はない。ただ、体温と同じ温度の、ペースト状の何かが喉を通り過ぎていくだけだ。栄養、カロリー、消化効率、その全てが完璧に計算されている。だが、そこには、かつて人類が「食事」と呼んだ行為にあったはずの、喜びや、楽しみといった「無駄」は、一欠片も含まれていなかった。


食事を終えた彼は、オンラインのコミュニティにアクセスした。アバターたちが、雑然と浮遊している仮想空間。顔も、本名も、性別さえも知らない、希薄な関係性の友人たち。


『カイト、今日のレイド、見たぜ。マジ神だったな』


『新しい称号、おめ』


感情のないテキストチャットが、彼の視界を流れていく。彼は、同じように感情のない指で、返信をタイプした。


『ああ』


『サンクス』


会話は、すぐに途切れた。彼らは、互いに何を話せばいいのか、もう分からなくなっていた。ガイアが、全ての話題を提供してくれるからだ。新しいゲーム、新しい音楽、新しいエンタメ。全てが完璧に用意され、彼らは、それをただ消費する。消費し、そして、忘れる。その繰り返し。


『なあ、シャドウ・ダイブって、知ってるか?』


不意に、アバターの一人が、プライベートチャンネルでそう囁いてきた。


カイトの眉が、わずかに動いた。シャドウ・ダイブ。それは、ガイアの管理外に置かれた、非合法のVR空間の俗称だ。そこでは、安全リミッターが全て解除されているという。痛みも、死の恐怖も、そして、他者を傷つけるという禁断の行為も、全てがリアルに体験できる。システムのバグや、古いサーバーの脆弱性を利用して、アンダーグラウンドのハッカーたちが作り出した、混沌の遊び場。


『ガイアに検知されたら、スコアが下がる。最悪、社会不適合者認定だぞ』


カイトは、建前を返した。


『だから、面白いんじゃん?』


相手は、悪魔のように囁いた。『完璧な安全に、飽き飽きしないか? 本当に「生きてる」って感じが、欲しいと思わないか?』


その言葉は、カイトの心の、最も乾いた部分に、染みのように広がっていった。


---


その夜、カイトは、生まれて初めて、ガイアのルールを破った。


アンダーグラウンドのマーケットから、匿名で非公式のアクセスパッチを購入した。インストールには、罪悪感よりも、むしろ、未知への好奇心が勝っていた。


『警告。未承認のソフトウェアです。あなたのガイア・スコアに、恒久的なペナルティが課される可能性があります』


ガイアからの警告を無視し、彼は、震える指で『実行』のコマンドを選択した。


視界が、一瞬、ノイズに覆われる。そして、次の瞬間、彼は、全く知らない場所に立っていた。


そこは、アーキテクト・シティの光とは無縁の、薄暗い路地裏だった。降りしきる冷たい雨が、アスファルトの匂いを立ち上らせ、ネオンサインが、意味不明な言語で明滅している。ゴミが散乱し、遠くからは、怒声と、何かが割れる音が聞こえた。


不快だ。非効率だ。そして、それ故に、圧倒的にリアルだった。


「――おい、新入りか? いい度胸してやがる」


背後から、錆びた鉄のような声がした。振り返ると、そこに立っていたのは、顔に大きな傷跡のある、大男のアバターだった。その手には、鈍い光を放つナイフが握られている。


『ギャラクシー・アヴァロン』のNPCとは、明らかに違う。その瞳には、予測不能な、本物の悪意が宿っていた。


「ここは、お前みたいな坊やの来るところじゃねえ。持ってるもん、全部置いていきな」


男が、ナイフを構えて、一歩、踏み出した。


カイトの全身の毛が、逆立った。恐怖。それは、彼が生まれてから、一度も感じたことのない、原始的な感情だった。心臓が、痛いほど速く脈打つ。喉が、カラカラに乾く。


だが、その恐怖の奥底から、もう一つの、全く新しい感情が、マグマのように突き上げてくるのを、彼は感じていた。


歓喜だ。


彼は、笑っていた。声には出さず、ただ、魂が笑っていた。


これだ。これが、俺が求めていたものだ。予測不能な痛み。理不尽な暴力。そして、それを乗り越えようとする、自分自身の、生の意志。


カイトは、構えた。ゲームで覚えた、体術の構えだ。それは、ただのロールプレイではなかった。彼の全存在を賭けた、初めての「戦い」だった。


男が、雄叫びを上げて、突進してくる。ナイフの切っ先が、彼の眼球に迫る。


カイトは、その一撃を、紙一重で避けた。そして、カウンターで、男の腹部に、渾身の拳を叩き込んだ。ゴッ、と鈍い音がして、確かな手応えが、彼の腕に伝わった。


その瞬間、彼の視界は、再び真っ赤な警告メッセージで埋め尽くされた。


『危険行為を検知。生命維持プロトコルに基づき、強制的にログアウトします』


意識が、急速に現実へと引き戻されていく。薄れゆく意識の中で、彼は、路地裏の男が、驚愕の表情で自分を見つめているのを見た。


---


白い部屋。白い天井。


カイトは、リクライニングチェアの上で、荒い息を繰り返していた。全身は汗でぐっしょりと濡れ、心臓はまだ、狂ったように鳴り響いている。


疲労困憊だった。だが、不思議なことに、心は満たされていた。いや、違う。満たされた、と思ったのは、ほんの一瞬だった。


すぐに、より深い、底なしの虚無が、彼を再び飲み込んだ。


あのリアルな感覚でさえ、結局はデータだ。あの恐怖も、あの歓喜も、ガイアの手のひらの上で許された、刹那的なスパイスに過ぎない。何をしても、どこへ行っても、この完璧な鳥かごからは逃れられない。


彼は、力なく、窓の外に目を向けた。


その時だった。


都市の景観が、わずかに、しかし、あり得ない形で、歪んだ。


いくつかの区画で、ビルの照明が一斉に消え、夜空を規則正しく流れていたエアカーの光跡が、数珠つなぎになって停止したのだ。交通機関が、麻痺している。通信にも、障害が出ているようだった。


ユニットの壁のスクリーンが、自動的に緊急ニュースを映し出した。


『原因不明の大規模インフラ障害が発生。ガイアは、現在、原因を調査中ですが、一部では、先日より報告されていた、反社会組織「アナログ・コミュニティ」による、組織的な破壊活動サボタージュの可能性も指摘されています』


アナウンサーの、わずかに狼狽した声。スクリーンに映し出される、混乱した都市の映像。


それは、カイトがこれまで見てきた、どのVRコンテンツよりも、不完全で、非効率で、そして、理解不能な「ノイズ」だった。


彼は、そのニュースを、ただ、ぼんやりと眺めていた。


その破壊活動に、何の意味があるのか。


その抵抗に、どんな価値があるのか。


彼には、分からなかった。そして、知りたいとさえ、思わなかった。


彼の虚無は、世界の終わりさえも、ただの退屈なスペクタクルとしてしか捉えられないほど、深く、静かに、完成してしまっていた。


彼は、ゆっくりと目を閉じると、再び、あの混沌の遊び場へと意識を沈めていった。現実の崩壊よりも、偽物の痛みの方が、まだ彼にとっては、生きている実感を与えてくれる。


完璧な世界の片隅で、また一つ、魂が、静かに死んでいった。

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