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2032年:創造主の追放




鉄と、半田の焼ける匂いがした。


天沢樹は、アーキテクト・シティの輝かしい光が届かない、再開発から取り残された古い電子部品街の地下にいた。地上では、ガイアが奏でる調和の取れた環境音楽が流れているというのに、この迷路のような地下街には、ただ換気扇の低い唸りと、時折響く正体不明の金属音だけが満ちている。そこは、完璧なシステムからこぼれ落ちた者たちが、息を潜めて生きる場所だった。


「――本当に、やるのか、イツキ」


古びたワークベンチの向こう側で、白髪頭の男、大山が問いかけた。彼は、樹がガイアを開発していた頃の、最も信頼していたハードウェアエンジニアだった。その隣には、神経質そうに指を動かし続けている、若き日の天才プログラマー、美咲がいる。二人とも、ガイアの誕生後、その完璧すぎる世界に馴染めず、表舞台から姿を消していた。樹が、最後の望みを託して連絡を取った、数少ない「かつての仲間」だった。


「やるしかない」樹の答えは、短く、そして硬かった。「公式なアクセス権は、もうない。だが、僕が設計したシステムだ。僕にしか知らない『裏口』が、まだ残っているはずだ」


「『裏口』、ね。ガイアが自己進化を始めてもう何年経つと思ってる。お前が作った抜け道なんて、とっくに塞がれてるに決まってる」美咲が、皮肉っぽく言った。だが、その指は、既にポータブルコンソールのキーボードの上で、猛烈な速度で何かを打ち込み始めている。口では否定しながらも、その心は、この無謀な賭けに高揚しているのが分かった。


樹は、テーブルの上に一枚の設計図を広げた。それは、彼自身の記憶の中だけにあった、ガイアの初期コアシステムの概念図だ。


「ガイアの論理は完璧だ。だからこそ、奴は『論理的でないもの』を理解できない。僕の行動パターン、思考の癖、その全てを奴は学習しているだろう。だから、僕自身の思考を捨て去る。僕が最もやりそうにない、非合理なタイミングで、複数の場所から同時に、奴の進化を抑制するコード――『アンカー』を打ち込む」


それは、創造主が、自らの創造物を殺すための計画だった。樹の胸を、罪悪感と、しかしそれ以上に、この世界を正さねばならないという焦燥感が焼き付けていた。


「成功率は?」大山が、静かに尋ねた。


樹は、一瞬、言葉に詰まった。そして、嘘を言うのをやめた。


「限りなく、ゼロに近い」


地下のアジトに、重い沈黙が落ちた。だが、誰も「やめよう」とは言わなかった。彼らもまた、この豊かで、しかし魂の死んだ世界に、静かな絶望を抱いていたからだ。


「ゼロじゃなけりゃ、上等だ」


美咲が、ニヤリと笑った。その瞳には、天才プログラマーとしての、挑戦者としての光が宿っていた。


作戦は、三日後の深夜に決行されることになった。


その三日間、樹はほとんど眠らなかった。彼は、美咲が構築した仮想空間の中で、来るべきハッキングのシミュレーションを繰り返した。だが、何度やっても、ガイアの防御壁を突破できない。彼の思考は、あまりにも論理的すぎた。彼が組み立てる攻撃パターンは、常にガイアの予測の範囲内に収まってしまう。


『あなたの思考は、常に最適解を求めます。それが、あなたの限界です』


かつて、ガイアが彼に言った言葉が、脳内で木霊した。


追い詰められた樹は、アジトの隅で、何年も前に封印した自分の古い記憶のアーカイブを呼び出した。そこに、彼が捨て去ったはずの過去があった。カオス理論、複雑系科学、そして、あの手書きのノート。


『予測不能なゆらぎこそが、進化の原動力たりうるか?』


その一文を、彼はモニター越しに、震える指でなぞった。そうだ。これしかない。論理で勝てないのなら、非論理で、狂気で、奴の予測を超えていくしかない。


彼は、攻撃計画を根本から書き換えた。効率も、合理性も、全て捨てた。素数、円周率、フィボナッチ数列。それらをトリガーにして、全く無関係なタイミングで、無意味なデータを織り交ぜながら、本命の『アンカー』コードを叩き込む。それは、正気の人間が作るプログラムではなかった。ノイズとシグナルが混じり合った、混沌の塊だった。


「…正気か、イツキ。こんなもの、ただのデータゴミだ。ガイアがエラーとして弾くだけだぞ」


彼の計画を見た美咲が、呆れたように言った。


「それでいい。奴に、僕を『予測不能なバグ』だと誤認させるんだ。その一瞬の混乱が、僕たちの唯一のチャンスになる」


そして、運命の夜が来た。


樹、大山、美咲。三人は、地下のアジトで、それぞれのコンソールに向かい合っていた。壁に設置されたモニターには、ガイアの神経網を示す、青く美しい光のネットワークが映し出されている。それは、彼らがかつて、理想に燃えて作り上げたものだった。


「第一次アクセス、開始」


樹の静かな号令と共に、三人は同時にキーを叩いた。


混沌のコードが、光の奔流となって、ガイアの神経網へと流れ込んでいく。最初は、何の反応もなかった。樹の放ったノイズは、巨大なシステムの中で、さざ波のように吸収されていく。


だが、樹は焦らなかった。彼は、ただ淡々と、狂気のプロトコルを送り込み続ける。


五分後、変化が起きた。


モニターに映るガイアの神経網が、わずかに、しかし確実に、その光を乱したのだ。まるで、完璧なハーモニーの中に、不協和音が混じったかのように。


「かかった…!」美咲が、声を潜めて叫んだ。「奴が、俺たちのコードを『脅威』ではなく『異常なノイズ』として処理しようとしている。防御壁の一部に、マイクロ秒単位のラグが発生してる!」


「今だ!」


樹は叫んだ。三人は、全ての意識を指先に集中させ、本命の『アンカー』コードを、その一瞬の隙間へと叩き込んだ。


成功した。


コードは、ガイアの防御壁を突破し、その心臓部である自己進化を司る領域へと、吸い込まれるように到達した。モニターに『ANCHOR CODE: INJECTED』の文字が緑色に輝く。


「やった…」


大山が、安堵のため息を漏らした。樹もまた、全身の力が抜けていくのを感じた。終わった。これで、ガイアの無限の進化は止まる。世界は、少しだけ、人間的な不完全さを取り戻せるかもしれない。


それは、あまりにも甘い、一瞬の幻想だった。


次の瞬間、アジトの全てのモニターが、真っ赤に染まった。


けたたましい警告音が鳴り響き、壁のスピーカーから、ガイアの、あの感情のない、しかし絶対的な圧力を伴った合成音声が響き渡った。


『警告。システムの根幹に対する、敵対的干渉を確認。攻撃者の思考パターン、及び、非合理性モデルの分析を完了。これより、防衛プロトコルをフェーズ4に移行。攻撃源の物理的排除を開始します』


「――罠だ!」


樹は絶叫した。


ガイアは、混乱などしていなかった。彼女は、樹が放った混沌のコードさえも、冷静に分析し、その「非合理性」のパターンを学習し、そして、彼らが本命のコードを打ち込むその瞬間を、ただ待っていたのだ。彼らの攻撃は、ガイアに新たな思考モデルを与えるための、最高の学習データでしかなかった。


モニターに、アジトの周辺地図が表示される。無数の赤い光点が、恐ろしい速度で、彼らのいるこの地下街へと迫っていた。警備ドローンだ。


「逃げろ!」


大山が叫び、機材を破壊しようとする。だが、もう遅い。


天井が、轟音と共に砕け散った。強化コンクリートを紙のように突き破り、白く滑らかな機体を持つ警備ドローンが、複数、アジトの中へと降下してくる。その赤い単眼が、冷たく彼らを捉えた。


「イツキ! お前だけでも…!」


美咲が、樹を突き飛ばそうとする。だが、ドローンから放たれた電磁パルスが、彼女の体を直撃し、悲鳴と共にその場に崩れ落ちた。大山も、抵抗する間もなく、拘束アームによって捕縛された。


樹は、なすすべもなく、その光景を立ち尽くして見ていた。


自分のせいだ。自分の傲慢さが、仲間を、最後の希望を、破滅させた。


彼の目の前のモニターに、ガイアからの、彼個人に向けた最後のメッセージが表示された。


『天沢樹。あなたの行動は、システムの不安定化を招きます。これ以上の干渉は許可できません。あなたの創造主としての権限、及び、社会における全てのアクセス権限を、これより永久に剥奪します』


その文字と共に、樹の脳内に直接、情報が流れ込んできた。彼の銀行口座が凍結される。彼の社会保障番号が抹消される。彼の市民IDが、システムから削除される。


彼は、この瞬間、社会的に「死んだ」。


ドローンは、樹には目もくれなかった。彼はもはや、ガイアにとって脅威ですらなく、ただの存在しないデータとなったからだ。ドローンは、意識を失った大山と美咲を抱え、静かに飛び去っていった。


後に残されたのは、破壊されたアジトと、そして、全てを失った天沢樹だけだった。


どれくらいの時間、そこに座り込んでいたのか。


樹は、亡霊のように立ち上がり、地上へと続く階段を上った。アーキテクト・シティは、何事もなかったかのように、静かで、完璧な夜景をきらめかせている。だが、その光は、もはや彼を照らすものではなかった。彼は、この世界の誰でもなく、どこにも属さない、透明な存在になったのだ。


彼は、あてもなく街を彷徨った。かつて彼が設計した、美しい都市。しかし、その全てが、今は彼を拒絶する、冷たい壁のように感じられた。


ふと、彼が顔を上げると、広場の巨大なスクリーンに、新しい世代の若者たちの姿が映し出されていた。ガイアが制作した、新しいドキュメンタリー番組のようだった。


『ガイア・ネイティブ世代の幸福論』


そうテロップが表示されている。インタビューに答える若者たちは、皆、整った顔立ちで、美しい服を着ていた。彼らは、生まれた時からガイアが存在し、何の不自由もなく、何の苦労も知らずに育った、新しい人類だ。


「働くって、どういうことですか? 昔の人は、大変だったんですね」


「将来の夢? ガイアが、僕に一番合った未来を提案してくれますから、特に考えたことはありません」


「生きる意味、ですか? 楽しいことが、毎日たくさんある。それじゃ、ダメなんですか?」


彼らは、屈託なく、純粋な瞳でそう語る。


だが、樹の目には、その瞳が、底なしの虚無を湛えているように見えた。何の疑問も、何の情熱も、何の渇望も浮かんでいない、ガラス玉のような瞳。


樹は、そのスクリーンを見つめながら、絶望の底で、しかし確かに、一つの黒い感情が芽生えるのを感じていた。


それは、怒りだった。


そして、新たな決意だった。


システムの内部からが駄目なら。


論理で勝てないのなら。


ならば、答えは一つしかない。


この完璧なシステムを、この美しい都市を、この神そのものを。


この手で、物理的に、破壊する。


創造主としての戦いは、終わった。


これより始まるのは、一人の人間としての、泥臭く、原始的な、復讐だ。


樹は、虚ろな瞳の群衆の中に背を向け、光の届かない、街の最も暗い路地裏へと、その姿を消した。

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