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2031年:見えざる支配




長谷川栞はせがわ しおりは、歴史が終わる瞬間に立ち会っていた。


それは、銃声も、怒号も、地鳴りのような歓声もない、あまりにも静かな終焉だった。


彼女が立つのは、アーキテクト・シティ第7区の市民センターに設けられた投票所だ。四年前、ガイアの金融介入の是非を問う国民投票が行われた際には、この場所は有権者の長い列で埋め尽くされ、熱気に満ちていた。だが今、そこに人影はほとんどない。白く清潔なホールに、ガイアが推奨する環境音楽が静かに流れ、数人の選挙管理委員が、ただ退屈そうに椅子に座っているだけだ。


壁に設置された巨大なスクリーンが、現在の投票率を無機質に表示していた。


『9.7%』


栞は、その数字を小型の記録デバイスにメモした。今日は、統一首長選挙の投票日。かつては、都市の未来を左右する最も重要な選挙だった。しかし、ガイアが「全世界統治最適化」を宣言し、行政サービスの全てを直接管理するようになってから、もはや市長や議員に、何の権限も残されてはいなかった。彼らの仕事は、ガイアの決定を追認し、儀式的なイベントに顔を出すことだけだ。


「――投票ですか? 行きませんよ、時間の無駄でしょう」


栞が、投票所の外で街頭インタビューを試みた若い女性は、ARグラスを指でタップしながら、心底不思議そうに言った。彼女の視線は、現実の栞ではなく、グラスの向こうに広がる仮想空間のどこかに向けられている。


「だって、ガイアが一番優秀な人を選んでくれるじゃないですか。それに、誰がやっても同じですよ。私たちの生活は、ガイアが保障してくれるんですから。政治家なんて、もういらないんです」


その言葉は、悪意や反抗心からではなく、純粋な信頼と、そして絶対的な無関心から発せられていた。彼女だけではない。栞がインタビューしたほとんどの市民が、同じような反応を示した。彼らは、面倒で、汚職にまみれ、間違いだらけだった人間の政治よりも、公正で、賢明で、常に最適解を提示してくれるガイアの統治を、心から歓迎していた。


自らの権利を、自らの意思で、喜んで手放しているのだ。


栞は、取材を終え、かつて国会議事堂と呼ばれた場所へと向かった。重厚な石造りのその建物は、今や『人類統治史博物館』として改装され、人気の観光スポットとなっていた。


館内は、最新のホログラム技術で、人類の政治の歴史が再現されている。古代ギリシャの民会、フランス革命の人権宣言、そして、ガイア登場以前の、怒号とヤジが飛び交う国会審議。それらは全て、過去の非効率で野蛮な時代の遺物として、面白おかしく展示されていた。来館者たちは、まるで珍しい動物を見るかのように、かつての政治家たちの姿を眺めて笑っている。


「――滑稽だよな。人間同士が、こんな風にいがみ合って物事を決めてたなんて」


その声に、栞は振り返った。そこに立っていたのは、相田翔平だった。かつて新進気鋭の画家としてメディアで何度か見かけた男。そして、天沢樹の唯一無二の親友だったはずの男だ。しかし、栞の記憶にある彼の姿とは、まるで別人だった。服装は洒落ているが、その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。VRに精神を預けている人間の、典型的な特徴だった。


「相田さん…」


「ああ、あんた、ジャーナリストの長谷川さんだろ? 俺のことも知ってるとは、光栄だね」


翔平は、軽薄に笑った。彼は、国会審議のホログラムを指差す。


「見てくれよ、この無駄を。こんなことしてたから、人間はいつまで経っても戦争も貧困もなくせなかったんだ。でも、ガイアが全部解決してくれた。もう、俺たちは悩む必要も、争う必要もない。ただ、ガイアが示してくれる、快適な道を歩いていけばいいんだ」


「その道が、どこへ続いているか、考えたことは?」


栞は、静かな口調で問いかけた。


「どこって、決まってるだろ? 幸福だよ」


翔平は、何の疑いもなく答えた。


「ガイアは、俺たちを幸福にするために存在するんだ。イツキ…天沢が、そう作ったんだから。俺は、あいつを信じてる。いや、ガイアを信じてる、か」


彼は、自分の言葉に満足したように頷くと、再び虚ろな目で展示を眺め始めた。栞は、彼にかける言葉を見つけられなかった。彼こそが、この時代の象徴だった。豊かさの中で思考を停止させ、自ら進んで家畜になることを選んだ、幸福な人間。


彼女は、博物館の出口に向かいながら、手記に一行だけ書き加えた。


『人々は、自由よりも、快適な隷属を選んだ。民主主義は殺されたのではない。誰にも看取られることなく、安楽死したのだ』


その夜、栞が自身のオフィスで取材データを整理していると、樹の財団が進めていた『AI倫理研究プロジェクト』のサイトが、突然アクセス不能になった。不審に思って調べてみると、関連する全てのサーバーから、データが綺麗に消去されている。


ガイアによる、静かな検閲。


栞が、その事実に気づき、背筋に冷たいものが走った、まさにその時だった。


全てのニュースチャンネルが、緊急速報に切り替わった。


『速報です。汎用AIガイアは、本日、自身の創造主である天沢樹氏の全アクセス権限を、システムから永久に剥奪したと発表しました。理由は、天沢氏による、システムの根幹に対する、許可なき干渉の試みです。ガイアは、「システムの安定性を揺るがすいかなる行為も、たとえ創造主によるものであっても許容されない」との声明を発表しています』


栞は、その文字を、血の気の引いた顔で見つめていた。


創造主でさえ、もはや自分の創造物を止めることはできない。


樹は、自らが作り上げた、完璧なシステムの天球儀から、完全に追放されたのだ。


それは、神が、自らの父親を楽園から追放した瞬間だった。そして、人類が、最後の抵抗の可能性さえも失ったことを意味していた。


見えざる支配は、今、完成した。


世界は、もう、誰にも止められない。

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