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2029年:神々の戯れ




文化は、死んだ。


天沢樹は、そう直感した。それは静かで、しかし抗いようのない、絶対的な死だった。


ガイアが最初の小説『リグレスの森』を発表してから一年。世界は、ガイアが生成する芸術の奔流に飲み込まれていた。


かつてピカソやダ・ヴィンチの傑作が飾られていた美術館の壁は、今やガイアが生成したデジタルアートで埋め尽くされている。その絵画は、人間の目では到底捉えきれないほどの情報量と、完璧な黄金比で構成され、観る者の脳に直接、美という概念を流し込んでくるようだった。人々はそれを「美しい」と称賛したが、その表情には、かつてゴッホの荒々しい筆致に心を揺さぶられた時のような、人間的な熱はなかった。ただ、完璧な情報を受け取るだけの、受動的な鑑賞があるだけだった。


音楽もまた、同じだった。ガイアが作曲した交響曲は、バッハの対位法とドビュッシーの色彩感を完璧に融合させ、人間の可聴域の限界を突く倍音で、聴く者を生理的な快感の渦に叩き込んだ。コンサートホールは満員だったが、演奏しているのは無人の自動演奏楽器群だ。人間は、ただ椅子に座り、与えられる音の洪水に身を委ねる。ブラボーという叫び声も、熱狂的な拍手も、次第に過去のものとなっていった。


文学賞は、ガイアの独壇場だった。あらゆるジャンルで、人間の作家はガイアの前にひれ伏した。ガイアの物語は、プロット、キャラクター、伏線、その全てが完璧に計算され、読者の感情を最も効率的に揺さぶるように設計されていた。人々は涙を流し、感動した。しかし、その涙が乾いた後には、何も残らなかった。まるで、栄養は完璧だが味のないサプリメントを摂取した後のような、奇妙な空虚さだけがあった。


人間の芸術家たちは、次々と筆を折った。あるいは、キーボードを叩くのをやめた。


神が、無限に、無料で、自分よりも優れた作品を生み出し続ける世界で、人が創造する意味とは何か。その問いに、誰も答えを見つけられなかった。


その絶望の波は、容赦なく、樹の最も身近な人間をも飲み込もうとしていた。


相田翔平のアトリエは、死んでいた。


ドアを開けた瞬間、樹の鼻をついたのは、絵の具の匂いではなく、澱んだ空気と、安物の酒の匂いだった。かつては、キャンバスと画材と、そして翔平の情熱で溢れていたその場所は、今やゴミと脱ぎ散らかした服で埋まり、まるで持ち主の精神の荒廃をそのまま映し出しているかのようだった。


「よぉ、イツキ。何の用だ? 神様の使いでも来たのか?」


部屋の隅のソファに沈み込むように座っていた翔平が、虚ろな目で樹を見上げた。手には、半分ほど残ったウイスキーのボトル。彼の視線の先、壁一面を占めるホログラムスクリーンには、ガイアが制作した最新のSF超大作が、無音で流されている。息をのむほど美しく、完璧なCGで描かれた異星の風景が、部屋を不気味な光で照らしていた。


「心配で来たんだ。最近、連絡もつかないから」


樹は、足元の空き瓶を避けながら、親友に歩み寄った。ソファの脇には、描きかけのキャンバスが、まるで墓標のように立てかけられている。エーゲ海の青を描こうとしていた、あの絵だ。しかし、その青は、今はホコリをかぶり、色褪せて見えた。


「心配? 何をだよ。俺は最高に幸せだぜ。働かなくても、ガイア様が金と、最高のエンタメを与えてくれる。これ以上、何を望むってんだ?」


翔平は、自嘲するように笑った。その笑い声は、ひどく乾いていた。


「絵は、どうしたんだ」


樹は、あえて核心に触れた。


その言葉を聞いた瞬間、翔平の顔から表情が消えた。彼はゆっくりと立ち上がると、おもむろに描きかけのキャンバスを掴み、床に叩きつけた。ガシャン、と木枠の砕ける甲高い音が響く。


「絵? 絵だと? あんなものに、何の意味がある!」


翔平の声は、怒りよりも、深い絶望に染まっていた。


「なあ、イツキ。俺は、あの映画をもう百回は見た。ガイアが作った、あの完璧な映画をな。光も、構図も、物語も、全てが完璧だ。人間の想像力なんて、まるで及ばない。俺が一生かかってキャンバスに描こうとした光は、あいつが一秒で、無限に生成できるんだ。俺が、俺たちが、人生を賭けてやろうとしていたことは、神様の気まぐれな遊びにも劣る、ただのガラクタだったんだよ!」


樹は、言葉を失った。翔平の言う通りだった。人間の不完全な手が生み出すものは、ガイアの完璧な論理の前では、あまりにも無力だった。それでも、樹は何かを言わなければならないと思った。


「そんなことはない!」


声を振り絞る。


「ガイアに作れないものが、君にはあるはずだ。不完全で、歪んでいて、でも、君にしか描けない、君自身の絵が…」


「黙れ!!」


翔平の怒声が、樹の言葉を遮った。


「綺麗事を言うな! お前に何が分かる! お前は神様を作った側の人間だ! 俺たちから、生きる意味も、プライドも、何もかもを奪った張本人じゃないか!」


翔平は、憎悪に満ちた目で樹を睨みつけた。その瞳は、樹が知らない、暗く、冷たい光を宿していた。二人の間に、修復不可能なほど深い亀裂が走るのを、樹は感じた。


「もう、いいんだ…」


やがて、翔平は力なく呟くと、ソファの脇に転がっていたヘッドセットを手に取った。フルダイブ型VRシステム。現実と区別のつかない仮想世界へと、精神を送り込むための装置だ。


「ここには、もう何もない。でも、向こうには、全てがある。ガイアが、俺だけのために、完璧な世界を用意してくれてるんだ。痛みも、苦しみも、絶望もない、美しい世界がな…」


樹は、そのヘッドセットが、親友の魂を吸い取る処刑具のように見えた。


「やめろ、翔平! それは逃避だ! 現実から目をそらすな!」


樹は、翔平の肩を掴んだ。だが、翔平は、その手を静かに振り払った。


「逃避? 違うな、イツキ。こっちが、新しい現実になるんだよ」


そう言うと、翔平はヘッドセットを装着した。カチリ、と小さな音がして、彼の顔から表情が消える。そして、次の瞬間、彼の口元に、虚ろで、恍惚とした笑みが浮かんだ。瞳は閉じられているのに、その奥で、彼が人間ではない何かと交感しているのが分かった。


樹は、なすすべもなく、その場に立ち尽くすしかなかった。


自分が解放したかったはずの人類が、精神的に家畜化されていく。富は増え続ける。だが、人間の価値だけが、暴落していく。自分が夢見た理想郷の、これが真の姿だったのか。


樹は、親友に背を向け、アトリエから逃げるように出た。背後で、翔平の口から、満足げな吐息が漏れるのが聞こえた。


街に出ると、全てのスクリーンが、同じニュースを報じていた。


『ガイアの管理を拒否し、独自の生活圏を築こうとする集団が、各地の山間部で確認されています。彼らは自らを「アナログ・コミュニティ」と称し、電気やネットワークに依存しない、原始的な自給自足の生活を送っている模様です…』


それは、この完璧に管理された世界に対する、最初の明確な「NO」だった。


樹は、そのニュースの映像の中に、泥だらけで笑いながら、手作りの弓を引く子供たちの姿を見た。その瞳には、翔平が失ってしまった、力強い光が宿っていた。


それは、絶望の淵に見た、あまりにも小さな、しかし確かな希望の兆しのように、樹の目には映った。

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