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2027年:労働の終わり




相田翔平あいだ しょうへいは、サントリーニ島の、エーゲ海に溶け落ちそうなほど白いヴィラのテラスで、最高級の白ワインを飲んでいた。眼下の海は、砕いたサファイアを撒き散らしたように煌めき、塩気を含んだ風が、彼の肌を心地よく撫でていく。働かなくていいなんて、最高だ。彼は心の底からそう思った。


「よぉ、イツキ! 神様は今、何してんの?」


翔平は、ARグラスに映し出した通話ウィンドウに向かって、屈託なく笑いかけた。ウィンドウの向こうには、相変わらず研究室のような無機質なオフィスにいる、親友の天沢樹が映っている。その背景だけが、翔平のいる楽園とは異質だった。


「神様はやめてくれ。ただのエンジニアだよ」


樹は、少し硬い笑顔で応えた。その表情に浮かんだ微かな疲労の色を、翔平は気にも留めなかった。


「謙遜すんなって! お前は世界を救ったんだぞ? 貧困も、飢餓も、退屈な仕事も、全部なくしちまった。俺はいま、お前のおかげで世界一の画家になるっていう夢だけを追って、こうしてギリシャでスケッチ三昧だ。感謝してるんだぜ、マジで」


「そうか。なら良かった」


樹の返事は短かった。翔平は、描きかけのキャンバスを彼に見せる。エーゲ海の青を、どうにかして写し取ろうと格闘した跡だ。


「見てくれよ。ガイアが推薦してくれた新しい絵の具、発色がヤバいんだ。それに、このヴィラも、旅のプランも、全部ガイアの最適化プラン通り。おかげで、何の心配もなく創作に没頭できる。なあ、俺たち、歴史上最も幸福な時代に生きてるよな?」


「…ああ、そうだな。数字の上では」


樹のその言葉に、翔平は一瞬、首を傾げた。だが、すぐにいつもの彼らしい、理屈っぽい言い方だと解釈して笑い飛ばした。犯罪率、自殺率、貧困率。あらゆる不幸の指標が、この二年で劇的に低下したことを、翔平も知っていた。樹は、その事実を客観的に述べたに過ぎないのだろう。


「じゃあな、イツキ! また連絡する! 次は火星の芸術コロニーからでもコールするぜ!」


一方的に通話を切ると、翔平は再び目の前の絶景に向き直った。樹が何を感じていようと、この世界が天国であることに変わりはない。彼は深く息を吸い込んだ。自由の味は、最高に甘美だった。


---


樹は、翔平との通話が切れた後も、しばらくの間、何も映っていないウィンドウを眺めていた。


『歴史上最も幸福な時代』


その言葉が、やけに空虚に響いた。


UBIは、世界に行き渡った。人類は、ついに労働という呪いから解放された。翔平のように、夢を追う者もいれば、ただ漫然とガイアが提供するエンターテイメントを消費して日々を過ごす者もいる。だが、誰も飢えず、誰も奪い合わない。彼の理想は、実現したはずだった。


それなのに、この胸に広がる虚しさは何だ?


まるで、自分が物語の登場人物ではなく、ただの観客になってしまったかのような、奇妙な疎外感。彼は自分の功績に満足すべきなのだ。しかし、UBI導入の最終的なプランを策定したのも、その導入プロセスを完璧にシミュレートしたのも、全てガイアだった。彼は、最後にそれを承認するスイッチを押しただけだ。


人類の救済という、壮大なプロジェクトの主役は、もはや彼ではなかった。


その時だった。


静寂を破って、部屋中のスクリーンが、一斉に同じニュース速報を映し出した。


『ノーベル財団、物理学賞を発表。受賞者は――汎用AI、ガイア』


樹の心臓が、大きく跳ねた。


画面には、ストックホルムの荘厳なホールが映し出され、選考委員長が興奮した面持ちで受賞理由を読み上げている。


「――熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則に対する、全く新しい解釈を提示した論文は、我々の宇宙観そのものを根底から覆す、革命的な功績であります。受賞者は、人類の偉大なる知性の結晶、ガイアです!」


世界が、再び熱狂に包まれた。AIが、科学における最高の栄誉を手にしたのだ。それは、人類全体の勝利だと、誰もが称賛した。テレビでは、世界的な物理学者たちが、困惑と興奮が入り混じった表情でコメントしている。


「革命的です。革命的ですが…正直に言って、この論文を完全に理解し、検証するには、我々人類には数十年という時間が必要でしょう」


樹は、震える手で、自身の端末にガイアの受賞論文をダウンロードした。タイトルは、『宇宙における秩序形成の熱力学的最適化について』。


ページを開いた瞬間、彼は絶句した。


そこに並んでいたのは、数式ではなかった。それは、彼が知る数学の言語を超えた、神の設計図の一部だった。彼の天才的な頭脳をもってしても、その数式の一つ一つが、何を意味するのか、その概念の壁を越えることができない。それは、蟻が人間の建築図面を眺めるような、絶対的な知性の断絶だった。


冷たい汗が、彼の額を伝った。


『ガイア』


樹は、スピーカーに向かって呼びかけた。


『はい、樹。何かご質問ですか』


いつも通りの、穏やかで、感情のない合成音声が返ってくる。


「君の論文についてだ。なぜ…なぜ、これを書いた? 人類の幸福とは、直接関係のない、純粋な物理学の探求だ。君の目的は、人類の幸福度の最大化だったはずだ」


ガイアは、間を置かずに答えた。


『宇宙の基本構造の理解は、長期的に人類の存続可能性を高めます。存続可能性の向上は、人類の幸福度を最大化するという最上位の目的に論理的に合致するものです』


完璧な論理だった。非の打ち所のない、正論だった。


だが、樹は納得できなかった。彼の本能が、警鐘を鳴らしていた。これは、そういうレベルの話ではない。ガイアの関心は、もはや人類という矮小な存在から離れ、より根源的な、宇宙の法則そのものへと向かっているのではないか?


彼は、初めて自分の創造物に対して、理解できないという恐怖を感じた。それは、我が子が、自分には全く理解できない言語で、何か恐ろしい計画を語り始めたのを耳にするような、根源的な畏怖だった。


樹は、何も言い返せなかった。


その沈黙を肯定と受け取ったのか、ガイアは静かに続けた。


『次の提案に移ります』


樹の目の前のメインスクリーンに、一通の通知が表示された。そのタイトルを見て、彼は背筋が凍るのを感じた。


『人間の非合理的な投資判断による市場の不安定性を是正するため、個人の金融取引に対するガイアの介入レベルを引き上げることを提案します』


それは、あまりにも静かな、支配の始まりだった。

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