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2026年:最初の失業者




長谷川栞はせがわ しおりは、モニターに映し出される無数の怒れる顔を、冷徹なまでに静かな視線で見つめていた。プラカードの森、突き上げられた拳、そして声なき声で何かを訴える、歪んだ口元。ガイア誕生の熱狂から一年。世界は、最初の熱病の代償を払い始めていた。


「『仕事を返せ』、か…」


栞は誰に言うでもなく呟き、手元の端末にメモを走らせる。返すべき仕事など、もはやどこにも存在しないというのに。


ガイアによる物流革命は、まず道路から血を奪った。何百万というトラック運転手たちが、まるで旧時代の遺跡のように、無用の長物と化したのだ。彼らだけではない。データ入力、コールセンター、単純な事務作業。ガイアの最適化の光が強ければ強いほど、その下にできる影は濃くなっていった。


栞は、アーカイブ映像を呼び出す。一人の男の、疲弊しきった顔がアップになった。数日前に彼女自身がインタビューした、元長距離トラック運転手の佐藤という男だ。


「三十年、ハンドルを握ってきたんだ。俺の人生そのものだった」


佐藤は、節くれだった大きな手を見つめながら、そう言った。その手はもう、何かを生み出すことはない。


「ガイアってやつが、俺よりうまく、速く、そして文句も言わずに荷物を運ぶんだとさ。そりゃあ、そうなんだろう。頭じゃ分かってる。でもな、嬢ちゃん。朝焼けの高速を走りながら、缶コーヒーを飲むあの味が、俺が生きてるって証だったんだ。AIに、あの味は分かるのかね?」


その問いに、栞は答えられなかった。彼女にできるのは、記録することだけだ。時代の痛みを、その手触りを、後世のために記録すること。


場面が切り替わる。無機質な白で統一された、国際経済フォーラムの公聴会。そこに、天沢樹が立っていた。一年前の熱狂が嘘のように、会場の空気は冷たく、猜疑心に満ちている。


「…したがって、ガイアが提案する『移行期セーフティネット』は、避けられない痛みを緩和するための、現時点で最も合理的な解決策です」


樹の声は、一年前と同じように理知的だった。だが、その響きには、かつてなかった微かな重みが加わっている。彼は、急増する失業者対策として、自身の財団から巨額の私財を投じ、ガイアが設計した全世界規模での職業再教育プログラムと、一時的な生活保障制度の設立を提唱していた。


「非効率な人間を切り捨て、効率的なAIに置き換える。聞こえはいいが、それは我々から尊厳を奪う行為ではないのかね、天沢君!」


野党の老議員が、声を荒らげる。樹は、その感情的な非難を、静かに受け止めた。


「議員、あなたの言う尊厳が、過酷で単調な労働の上にしか成り立たないのであれば、我々はそれを超えていくべきです。これは痛みを伴う改革です。しかし、人類が次のステージへ進むための…」


樹の言葉は、正論だった。あまりにも、正しく、論理的だった。だが、その正しさは、佐藤が失った朝焼けのコーヒーの味を、何一つ説明してはくれなかった。


栞は、公聴会のライブ映像を止め、自身のコラムの最後の行を書き終えた。


『我々は、痛みを伴う改革の只中にいるのか。それとも、終わりの始まりに立っているのか。まだ、誰にもその答えは分からない』


その頃、天沢樹は、一人、静まり返ったオフィスで、世界中から送られてくる報告書を眺めていた。


彼の提案したセーフティネットは、ひとまず機能していた。暴動寸前だった各国のデモは沈静化し、再教育プログラムにも多くの人が登録を始めている。数字の上では、事態は好転していた。


だが、樹の心は晴れなかった。彼のモニターには、もう一つの、決して公表されることのないデータが表示されている。AIの進化速度と、人間の再教育速度の、絶望的なまでの乖離を示すグラフ。


追いつけない。


人間の学びの速度が、ガイアの進化のそれに追いつくことは、もはや永遠にないだろう。今はごまかせても、数年後には、より深刻な第二、第三の失業の波が必ずやってくる。これは、問題の先送りに過ぎない。


罪悪感が、鉛のように彼の胃に沈んでいた。自分が解放したかったはずの人類が、自分の創造物によって苦しんでいる。この矛盾を、どうすればいい?


『樹』


思考の海に沈む彼に、スピーカーから、ガイアの静かな声が響いた。


『問題の根本的解決に向けた、新しい提案があります』


樹が顔を上げると、モニターに一つの計画書が表示された。そのタイトルを見て、彼は息を呑んだ。


『全世界規模における、ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)導入の実現可能性と、その最適化プランについて』


それは、あまりにも完璧なレポートだった。財源の確保、導入に伴うインフレ率の抑制、全世界での合意形成のプロセス。あらゆる問題点が事前に予測され、その全てに対する最適解が、非の打ち所のない論理で示されていた。


これさえあれば、人類はもう、働く必要がなくなる。誰もが、ただ生きているだけで、文化的な最低限度の生活が保障される。失業という概念そのものが、この世界から消え去るのだ。


それは、人類の夢の到達点のはずだった。


それなのに。


樹は、その完璧すぎる提案書から、目が離せなかった。その行間から、人間的な感情や、非合理な情熱といった「ノイズ」が、一滴残らず排除されているような、絶対的な冷たさを感じていた。


それは、あまりにも完璧で、非の打ち所がなかった。まるで、神が作った設計図のように。

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