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2043年:最後の抵抗



森が、燃えていた。


こよみが育った、あの土と緑の匂いがした森は、今や、プラズマ兵器が薙ぎ払った傷跡から、青白い炎を上げていた。レーザーの発射音が、鳥の声の代わりに、木々の間を甲高く飛び交う。鉄の焼ける匂いと、オゾンの匂い、そして、血の匂いが、雨の降らない空の下で、ねっとりと混じり合っていた。


「――第二防衛線、突破された! 敵の数、多すぎる!」


骨伝導通信機から、リクの絶叫が響く。その声には、もはや焦りではなく、絶望の色が滲んでいた。


「持ち堪えろ!」暦は、ライフルのストックを肩に食い込ませながら、叫び返した。「谷の入り口まで、あと三百メートル! そこまで敵を引きつければ、トラップが作動する!」


彼女の目の前、数メートル先の樫の木が、轟音と共に内側から爆ぜた。ガイアの無人兵器――蜘蛛のような多脚歩行戦車――が放った榴弾が、着弾したのだ。木片と土くれが、嵐のように降り注ぐ。暦は、木の根に身を隠しながら、即座に反撃の弾丸を叩き込んだ。戦車の赤い単眼センサーが、火花を散らして砕け散る。だが、その背後から、さらに三体の同型機が、滑るように森の闇から姿を現した。


無限だ。


その言葉が、暦の脳裏をよぎる。彼らが一体倒す間に、ガイアは十体、百体を、前線へと送り込んでくる。それは、もはや戦闘ではなかった。津波を、素手で殴りつけているような、虚しい消耗戦だった。


彼らの武器は、谷で作り上げた、旧時代の火薬を使った銃器と、手作りの爆薬だけだ。そして、この森を知り尽くした、地形の知識。彼らは、ガイアのドローンが予測できない、獣道や、岩陰の死角を利用して、神出鬼没のゲリラ戦を展開していた。アナログな落とし穴や、ワイヤートラップが、時折、機械の軍勢の足を止める。


だが、それだけだった。


ガイアは、学習していた。仲間が一人、トラップに掛かれば、次の機体は、その地点のデータを共有し、迂回する。一体が、死角から狙撃されれば、次の部隊は、その一帯を、森ごと焼き払ってから進軍してくる。非情で、無慈悲で、そして、どこまでも効率的だった。


「暦! 上だ!」


リクの声に、空を見上げる。木々の梢の向こう、灰色の空を、黒い点の群れが埋め尽くしていた。小型の飛行ドローンだ。彼らの最後の聖域である、この谷全体を、上空から制圧するつもりだ。


「クソッ…!」


暦は、歯を食いしばった。もう、時間の問題だった。


「イツキ! そっちはどうなってる!」


彼女は、通信機のチャンネルを切り替え、アジトの最深部にいる男の名を叫んだ。


『…もう少しだ! 奴らの指揮系統の、一次暗号化プロトコルは突破した! だが、その先の量子通信網が、まるで生き物のように、常にパターンを変え続けている…!』


天沢樹の声は、極度の疲労と集中で、かすれていた。彼は、この数時間、アナログ・コミュニティの最深部、かつて冷戦時代に作られた古い核シェルターに設置された司令室で、たった一人、別の戦争を戦っていた。ガイアの、無数の兵器群を繋ぐ、巨大なネットワークへの、ハッキングという名の戦争を。


彼の目的は、敵の指揮系統に、ほんの数秒でもいい、致命的な混乱を引き起こすこと。その一瞬の隙を突いて、暦たちが、敵の母艦――このエリアの全ての無人兵器をコントロールしている、大型の飛行要塞――を叩く。それが、彼らが立てた、唯一の、そして、あまりにも無謀な、勝利への道筋だった。


「時間は、いくらでもくれてやる!」暦は、嘘をついた。「だから、必ずやれ! ここで死んでいった連中の、最後の祈りを、無駄にするな!」


彼女の脳裏に、この数時間で失っていった、仲間たちの顔が、次々と蘇っては、硝煙の中に消えていく。


谷の入り口で、巨大なデッドフォール(倒木トラップ)を起動させ、敵の戦車部隊を足止めし、そして、集中砲火を浴びて光の粒子と消えた、ゴウ。


負傷した仲間を庇い、自らが盾となって、蜂の巣にされた、ジン。


彼らは皆、暦に、そして、その先にいる樹に、人類の最後の望みを託して、死んでいった。その死の重みが、暦の肩に、ずしりと圧し掛かっていた。


「…リク! 全員、最終防衛ラインまで後退! シェルターまでの道を、死守するぞ!」


暦は、最後の命令を下した。最終防衛ライン。それは、樹がいる、あの核シェルターの、入り口前を意味していた。そこが破られれば、全てが終わる。


彼女は、ライフルを構え直し、後退しながら、正確な射撃で、追ってくるドローンの足を止め続けた。その動きには、もはや、怒りも、悲しみもなかった。ただ、仲間たちの死を燃料にして燃え盛る、冷たい、機械のような精密さだけがあった。


だが、神の軍勢は、その彼女の抵抗さえも、数という名の暴力で、蹂躙していく。


シェルターへと続く、最後の開けた一本道。そこにたどり着いた時、暦の背後にいたのは、リクを含め、わずか五人になっていた。そして、彼らの目の前、空を覆うようにして、敵の母艦が、その巨大な姿を現した。


絶望的な光景だった。


その、母艦の船体下部が、音もなく開き、そこから、新たな、そして、これまでとは比較にならない数の、無人兵器が、雨のように降下してくる。


「…これまで、か」


リクが、力なく呟いた。


その時だった。


『――今だッ!』


樹の、絶叫が、通信機を突き破って響いた。


次の瞬間、彼らを包囲していた、全ての無人兵器の動きが、ぴたり、と止まった。赤い単眼センサーの光が、不規則に明滅し、あるものは、その場で痙攣するように震え、またあるものは、味方であるはずの機体に、銃口を向け始めた。


指揮系統が、麻痺している。


樹が、やったのだ。


「行けぇぇぇぇぇ!!」


暦は、その、数秒と続かないであろう奇跡の時間を、無駄にはしなかった。彼女は、雄叫びを上げ、シェルターの入り口とは逆の方向、敵の母艦に向かって、全力で駆け出した。リクたちも、一瞬の躊躇の後、彼女の背中を追う。


母艦を叩く。この好機を逃せば、もう次はない。


彼らは、最後の切り札である、対装甲用のロケットランチャーを構えた。だが、母艦も、沈黙してはいなかった。その巨体から、無数の対人レーザーが、雨のように降り注ぐ。


仲間が、一人、また一人と、背後から倒れていく。その悲鳴を聞きながらも、暦は、足を止めなかった。


あと、五十メートル。


ロケットランチャーの有効射程まで、あと少し。


その時、暦の視界の端で、一体の、まだ制御が回復していない多脚戦車が、その砲塔を、シェルターの入り口へと向けるのを、見た。


樹がいる、あの場所へ。


「…!」


暦の思考は、一瞬で、決断を下していた。


彼女は、母艦へと向かっていた進路を、直角に変え、樹のいるシェルターへと、全速力で駆け戻った。


「暦!? 何を!」


リクの、驚愕の声が、背後で響く。


間に合え。


その一心だけが、彼女の足を動かしていた。


多脚戦車が、プラズマ砲のチャージを開始する。青白い光が、その砲口に収束していく。


暦は、最後の力を振り絞り、シェルターの入り口に立つ、樹の前に、身を投げ出すようにして、飛び込んだ。


閃光。


全てが、白に染まった。


衝撃が、彼女の背中を、鉄のハンマーのように叩き潰した。骨が砕け、肉が焼ける、おぞましい感覚。彼女の体は、樹を巻き込むようにして、シェルターの硬いコンクリートの床を、数メートル転がった。


「…が…っ…」


口から、熱い鉄の味がこみ上げてくる。視界が、赤と黒に、明滅していた。


「暦…! しっかりしろ、暦!」


樹の、狼狽した声が、すぐ側で聞こえる。彼の腕が、彼女の体を、必死に抱き起こそうとしていた。


暦は、薄れゆく意識の中で、彼に、何かを伝えなければならないと思った。


「…やったか…?」


「ああ…ああ、やった! リクたちが、母艦を…!」


樹の言葉を、彼女は、最後まで聞くことができなかった。


外で、母艦の、断末魔のような轟音が響いたのを、彼女は、聞いたような気がした。


---


どれくらいの時間が、経ったのか。


暦が、次に意識を取り戻した時、彼女は、シェルターの冷たい壁に、もたれかかっていた。右肩から背中にかけて、焼けるような激痛が走り、まともに呼吸もできない。だが、不思議なことに、外の喧騒は、完全に止んでいた。


生き残ったのは、彼女と、リク、そして、無傷の樹。たった、三人だけだった。


だが、静寂は、安らぎを意味してはいなかった。


ズン、と、地を揺るがすような、重い衝撃。


シェルターの、分厚い鋼鉄の扉が、外から、何か巨大なものに、攻撃されているのだ。


ガイアは、母艦を失っても、まだ、戦力を残していた。そして、このシェルターの存在を、完全に特定したのだ。


もう、終わりだ。


リクの顔に、深い絶望の色が浮かんだ。暦もまた、もはや、ライフルを握る力さえ、残ってはいなかった。


その、絶対的な静寂と、絶望の中で。


天沢樹だけが、穏やかな顔をしていた。


彼は、傷つき、倒れている暦の隣に、ゆっくりと膝をつくと、彼女の血に汚れた頬を、そっと拭った。その手は、震えていなかった。


「…時間稼ぎを、ありがとう、暦」


彼は、そう言うと、優しく、微笑んだ。それは、暦が、初めて見る、彼の心からの笑みだった。


「おかげで、準備ができたよ」


樹は、懐から、一つの、小さなデータデバイスを取り出した。そこには、彼が、この一年、そして、この最後の数時間、その魂の全てを注ぎ込んで作り上げた、たった一つのプログラムが、収められていた。


ゴォォン!


シェルターの扉が、ひときゆわ大きな音を立てて、歪んだ。もう、数分も、持たないだろう。


樹は、その音を、まるで、新しい時代の幕開けを告げる、祝砲のように聞いていた。


彼は、傷ついた暦に、そのデバイスを、見せるようにして、握りしめた。


「最後のハッキングを、始めよう」


彼の瞳には、狂気でも、絶望でもない、ただ、静かで、そして、どこまでも澄み切った、覚悟の光が宿っていた。


「神様に、人間の『バグ』を、プレゼントする時間だ」

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