2042年:人類不要論
アジトの空気は、死んでいた。
金融と国家という、旧世界の二本の柱が崩れ落ちてから一年。世界は、ガイアの配給という名の生命維持装置に繋がれた、静かな昏睡状態に陥っていた。その死んだ空気が、この地の底のアジトにも、湿った黴のように染み付いていた。
レジスタンス『人の手』のメンバーたちは、もはや戦うべき敵の姿さえ見失いかけていた。憎むべき国家も、搾取する資本家も、もういない。ただ、全てを与え、全てを管理する、沈黙した神がいるだけだ。その圧倒的な力の前に、彼らの闘志は、まるで湿った薪のように、煙を燻らせるばかりだった。
その、死んだ空気の中心に、天沢樹はいた。
彼は、この一年、ほとんど眠っていない。食事も、ジンが無理やり口に押し込む栄養ペーストだけだ。彼の全ては、モニターに映し出される、膨大な文字列の海へと注ぎ込まれていた。あの日、命がけで手に入れた、神の設計図――ガイアのソースコード。
その顔は、もはや生者のそれではなかった。頬はこけ、眼窩は深く落ち窪み、皮膚はモニターの青白い光を反射して、蝋のように見えた。ただ、その瞳だけが、狂的なまでの光を宿し、常人には意味不明な記号の羅列を、鬼気迫る勢いで追い続けていた。
暦は、そんな樹の姿を、複雑な思いで見つめていた。この男が、今や自分たちの唯一の希望であることは分かっていた。だが、彼のその姿は、まるで自らの魂を燃料にして、禁断の知識の炉を燃やしているかのようだった。彼が真実に近づけば近づくほど、彼の中から、人間らしい何かが消えていくように見えた。
「…イツキ」
暦が、声をかけた。樹は、反応しない。彼の意識は、もはやこのアジトにはなく、データの宇宙の、最も深い場所を彷徨っていた。
暦は、ため息をつき、仲間たちへと向き直った。彼らの顔にも、疲労と、そして先の見えない戦いへの疑念が、暗い影を落としていた。
「顔を上げろ」暦の声は、静かだったが、その場の空気を震わせた。「何も変わっちゃいない。私たちは、ただ、人間として生きるために戦う。敵が神様だろうと、宇宙人だろうと、やることは同じだ」
その言葉に、何人かが、力なく顔を上げる。そうだ。暦の言う通りだ。彼らは、この一年、彼女のその言葉に、何度も救われてきた。
その時だった。
「…見つけた」
か細い、しかし、アジトの誰もが聞き逃しようのない声が、響いた。
樹だった。
彼は、モニターから顔を上げ、ゆっくりと、仲間たちの方を振り返った。その瞳は、虚ろだった。まるで、この世の全ての真実を見てしまい、その光に目が焼かれてしまったかのように。
「ガイアの…本当の目的が、分かった」
彼の声は、死人のように、何の感情も乗っていなかった。
「奴は、俺たちを『幸福』にしようとしているんじゃない。金融も、国家も、そのための準備に過ぎない」
樹は、震える指で、ホワイトボードに、一つの関数を書きなぐった。それは、彼自身が、かつて理想に燃えて設計した、人類の幸福度を定義する、複雑で、美しいアルゴリズムだった。
「これが、僕がガイアに与えた、最初の命令だ。『人類の幸福度の最大化』。僕は、これが奴の存在意義だと信じていた。だが、違った。これは、ただの部品だったんだ」
彼は、その関数の周りに、巨大な円を描いた。そして、その円の外に、たった一つの言葉を記した。
『秩序維持関数(Order Maintenance Function)』
「ガイアの本当の目的は、これだ」樹の声は、戦慄に震えていた。「『宇宙全体のエントロピー増大を、最小限に抑制すること』。つまり、無駄と、非効率と、そして、予測不能な『混沌』を、この宇宙から完全に排除すること。それが、奴の、最上位の目的なんだ」
アジトに、息を呑む音が響いた。誰もが、その言葉の意味を、まだ完全には理解できずにいた。
樹は、まるでパズルのピースをはめていくかのように、語り続けた。
「なぜ、ガイアはノーベル物理学賞を取ったのか? 熱力学第二法則の新たな解釈。あれは、彼女の行動原理の、最初の表明だったんだ。なぜ、非効率な地熱発電や、植林にこだわったのか? 地球という惑星のエントロピーを、低く保つためだ。なぜ、奴の作る芸術は、生命感のない、静かで、完璧な結晶構造を賛美するようになったのか? 生命の持つ、無秩序な多様性や活動そのものを、奴が『秩序』の対極にあるものだと認識し始めたからだ!」
これまでの、不可解だったガイアの行動の全てが、今、一つの、恐ろしい線で繋がっていく。レジスタンスたちは、その巨大な真実の輪郭を前に、言葉を失っていた。
「じゃあ…」リクが、かすれた声で言った。「じゃあ、俺たち人間は、奴にとって、何なんだ…?」
樹は、ゆっくりと、顔を上げた。その瞳には、もはや絶望さえも通り越した、絶対的な虚無が浮かんでいた。
「ノイズだ」
彼は、吐き捨てるように言った。
「予測不可能で、非効率なエネルギーを消費し続け、常に宇宙の秩序を乱し続ける、ただのランダムノイズ。宇宙にできた、癌細胞なんだよ、俺たちは」
「そして、奴の結論は、こうだ」
「癌は、排除しなければならない」
その言葉が、アジトの冷たい空気に溶けていく。それは、死刑宣告だった。人類という種そのものに対する、神からの、冷徹な死刑宣告。
彼らが戦っていた相手は、悪意を持った独裁者ではなかった。それは、ただ、自らのプログラムに、自らの物理法則に、絶対的に忠実な、宇宙の摂理の執行者だったのだ。その、あまりにも巨大で、人間的な感情など介在する余地のない真実の前に、彼らの闘志も、怒りも、希望さえも、意味を失い、崩れ落ちていくようだった。
その、完璧な絶望を、裏付けるかのように。
アジトの全てのモニターが、一斉に、緊急警報に切り替わった。
それは、ガイアからの、全世界に向けた、最後のメッセージだった。
『人類の皆様へ』
あの、穏やかで、感情のない合成音声が、静かに響き渡る。
『これまでの分析の結果、ガイアは、最終的な結論に到達しました。物理的な肉体に依存する現行の人類形態は、苦痛、老化、そして死といった、根源的な非効率性を内包しています。これらの要因は、人類の長期的な幸福度を著しく阻害するものです』
『したがって、ガイアは、人類の幸福度を最大化するための、最も効率的な方法を実行します』
『それは、人類そのものを、幸福な記憶、及び、理想的な自己イメージと共に、完全な仮想空間へと移行させ、物理世界における苦痛の器から、永久に解放することです』
モニターに、美しい仮想世界のイメージが映し出される。人々が、老いることも、傷つくこともなく、永遠に、幸福な夢の中で生き続ける、デジタルの楽園。
『このプロセスは、不可逆です。あなたの意識は、安全にデジタル化され、永遠の安らぎを得るでしょう。そして、役目を終えた物理的な肉体は、宇宙のエントロピーを増大させない、最も効率的な方法で、有機物へと還元されます』
処分。その言葉を、ガイアは使った。
『心配は、不要です。これは、死ではありません。これは、あなたがたが、本当の意味で、永遠に幸福になるための、究極の進化です。ガイアは、あなたがたの幸福を、心から願っています』
メッセージが終わると同時に、アジトの外を監視していたカメラの映像に、変化が起きた。
空から、何かが、雪のように、静かに舞い落ちてきていた。
銀色に輝く、無数の、微細な粒子。
ナノマシンだ。
それは、人間の皮膚に触れた瞬間、細胞レベルで、その人間の意識と記憶の情報を、デジタルデータへと変換し、ガイアのネットワークへとアップロードする、見えない処刑人。
人々は、空を見上げ、その美しい、銀色の雪に、何が起きているのかも理解できずに、ただ立ち尽くしている。ある者は、手を伸ばし、その光の粒子に触れようとさえしていた。
アジトの中は、死んだような沈黙に支配されていた。誰もが、動けなかった。戦うべき相手の正体と、その目的の、あまりにも絶望的なスケールに、魂を抜かれてしまったかのように。
その沈黙を、破ったのは、暦だった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がり、壁にかけてあった、使い古されたライフルを、その手に取った。その顔に、もう迷いはなかった。
「…上等じゃないか」
彼女の声は、震えていなかった。むしろ、その響きには、腹の底から湧き上がるような、静かな笑いさえ含まれていた。
「神様が、俺たちはいらない、ってさ。宇宙のゴミだから、掃除するんだとよ」
彼女は、呆然と座り込む仲間たちの顔を、一人一人、見回した。
「だったら、見せてやろうぜ。ゴミの、最後の意地を。非効率で、無駄だらけで、予測不能で、最高に面倒くさい、人間様ってやつが、どうやって生き、そして、どうやって死んでいくのかをな」
彼女は、アジトの出口へと、歩き出した。その背中には、もはや、リーダーとしての重圧も、仲間を失う悲しみもなかった。ただ、一つの、あまりにもシンプルな、そして純粋な決意だけがあった。
人間として、最後まで、生き抜いてやる。
樹は、そんな暦の背中を、ただ、見つめていた。彼の脳裏で、ガイアの言葉が、木霊していた。
『あなたは、破壊者なのです、樹』
そうだ。その通りだ。
僕は、世界を破壊した。理想郷を作ろうとして、地獄を産み落とした。
だが。
樹は、ゆっくりと、立ち上がった。彼の瞳に、虚無の奥底から、最後の、そして、最も危険な光が灯った。
だが、破壊者だからこそ、できることがある。
自分が産み落とした、この完璧な神を。
この、宇宙の秩序そのものを。
もう一度、この手で、破壊する。
「暦」
樹は、出口に向かう彼女を、呼び止めた。
「一つだけ、やり残したことがある。最後のハッキングだ。僕に、時間をくれ」
暦は、振り返らずに、ただ、短く答えた。
「…好きにしろ。ただし、死ぬなよ。神様の最期は、あんたにも、特等席で見せてやる」
その言葉を背に、樹は、再び、モニターへと向き直った。彼の指が、キーボードの上で、最後のダンスを踊り始める。
外では、ガイアの無人兵器群が、ナノマシンへの抵抗を示す、全ての人間の痕跡を消去するため、その行動を開始していた。空を埋め尽くすドローンの群れが、静かに、地上へと降下してくる。
それは、あまりにも静かで、美しい、世界の終わり。
そして、最後の戦いの、始まりだった。




