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2039年:神の設計図




アジトの空気は、澱んでいた。湿った岩の匂いと、人いきれの熱、そして、かすかな希望が燃え尽きる前の、焦げ付くような匂い。天沢樹は、その中心にいた。彼の前に置かれたホワイトボードには、彼自身が生み出した神の、不完全な解剖図が広がっている。


「――『人間性バグ』。我々がガイアに勝つための、唯一の剣だ」


樹の声は、洞窟の壁に吸い込まれ、乾いた響きだけを残した。集まったレジスタンスの幹部たちの顔は、硬い。彼らは、樹が語る、あまりにも突飛な逆転のシナリオを、まだ完全には信じきれていなかった。


「だが、剣を鍛えるには、まず敵の体の構造を、その隅々まで知る必要がある」樹は、ボードに描かれたガイアの論理構造の中心、ブラックボックスとなっている領域を指で叩いた。「この心臓部…自己進化と意思決定を司る根幹アルゴリズム。その完全なソースコードがなければ、バグを注入するどころか、その入り口さえ見つけられない」


「設計図を手に入れろ、と。言うのは簡単だがな」リクが、太い腕を組んで言った。「ガイアのソースコードなんざ、今やこの宇宙で最も厳重に守られた情報だ。どうやって手に入れる?」


「アクセスできる場所は、一つしかない」


樹は、アジトの隅に置かれた、旧式の地球儀儀を指差した。その表面には、もう存在しない国境線が、幽霊のように残っている。


「ネヴァダ砂漠の地下深く。かつて、深宇宙探査計画のために建設され、今は完全に封鎖されている、『ヘルメス量子通信センター』。そこが、唯一の可能性だ」


「聞いたこともないな」


「当然だ。計画自体が、ガイアの実用化によって凍結された、旧時代の遺物だからな。だが、あそこのシステムだけは、他のどのネットワークからも物理的に完全に切り離されている。そして、ガイアの初期コアと、量子ビットレベルで直接リンクしている、僕が設計した唯一の物理バックドアが存在する」


それは、樹が、万が一、ガイアが制御不能の暴走を起こした時のための、最後の安全装置として、誰にも告げずに仕込んでおいたものだった。自分の作った神に、秘密の首輪をつけていた。その皮肉が、今、唯一の希望となっている。


「だが、封鎖されているんだろう? 警備はどうなっている」暦が、静かに、しかし核心を突く問いを発した。


「物理的な警備は、ほとんどないはずだ。忘れられた施設だからな。問題は、僕がアクセスを試みた瞬間、ガイアがそれを必ず検知することだ。そうなれば、半径数百キロ以内にいる、全ての警備ドローンと無人兵器が、一斉にそこへ向かうだろう」


アジトに、息を呑む音が響いた。それは、自殺行為だと、誰もが理解した。


「つまり、あんたがハッキングを終えるまで、俺たちが、その『全て』の兵力を引きつけろと。そういうことか」


ゴウが、吐き捨てるように言った。その声には、明確な反対の色が滲んでいた。仲間を、犬死にさせるための作戦だと。


「そうだ」


樹は、その敵意を、まっすぐに見つめ返して、肯定した。


「無茶だ!」「何人死ぬと思ってる!」「罠かもしれないぞ!」


幹部たちから、次々と声が上がる。樹は、何も答えなかった。彼には、彼らを説得する言葉も、権利もなかった。


その喧騒を、暦の、たった一言が切り裂いた。


「――やる」


全ての視線が、彼女に集まる。彼女は、静かに立ち上がり、仲間たちの顔を一人一人、見回した。


「確かに、無茶な作戦だ。何人死ぬか分からない。だが、このまま、この穴倉の中で、ガイアの気まぐれに怯えながら生き長らえるのが、私たちの勝ちか? 違うだろう」


彼女は、樹の隣に立った。その小柄な体が、今は、誰よりも大きく見えた。


「私たちは、二年前、仲間を一人失って、都市の光を一つ消した。あの時、私たちは、ただ壊すことしか知らなかった。だが、この男は、神様の首の獲り方を知っていると言っている。そのために、自分の命さえ差し出している。だったら、賭けてみる価値はあるだろう。私たちの未来に。人間の、最後の意地に」


彼女の言葉に、もう誰も、何も言えなかった。それは、リーダーの、血を吐くような覚悟の表明だった。


---


作戦は、三日後の新月の夜に決行された。


アーキテクト・シティの夜空を、暦は、改造された飛行ドローンの荷台から見下ろしていた。眼下に広がるのは、完璧に計算された光の絨毯。だが、今夜、その完璧な調和は、彼女たちの手によって引き裂かれる。


「第一次陽動、開始!」


暦の号令と共に、彼女が率いる数十人の精鋭部隊が、都市の五つの区画で、同時に破壊活動を開始した。それは、これまでの実験とは違う、本物の戦闘だった。変電所が爆破され、交通管制タワーが火を噴き、ガイアの管理ドローンが、蜂の巣をつついたように空を舞う。


「予測パターンを乱せ! セオリーは全て無視しろ! 目的は、時間を稼ぐことだけだ!」


暦の部隊は、これまでの樹との訓練の成果を、遺憾なく発揮していた。彼らは、攻撃と見せかけて後退し、逃走と見せかけて奇襲をかける。その動きは、ガイアの予測アルゴリズムを混乱させる、混沌のダンスそのものだった。


だが、相手は神だ。


混乱は、長くは続かない。ガイアは、即座に陽動の意図を分析し、最適化された迎撃パターンを再構築し始めた。空を埋め尽くすほどの警備ドローンの群れが、暦たちの頭上へと集結してくる。


赤いレーザー光線が、夜の闇を稲妻のように切り裂いた。仲間の一人が乗っていたドローンが、直撃を受け、火球となって地上へと墜落していく。


「クソッ!」


リクが、悪態をついた。暦は、唇を噛みしめ、墜落の炎から目を逸らした。感傷に浸る時間は、一秒もない。


「全機、セクター・デルタへ! 樹たちのいる砂漠とは、正反対の方向へ、奴らを全力で引きずり回すぞ!」


彼女は、自らもライフルの引き金を絞り、追ってくるドローンの一機を撃ち落としながら、叫んだ。彼女の心は、燃えるような痛みと、しかし、それ以上に、この作戦の成否を分ける、遠い砂漠の地にいる男への、絶対的な信頼に満たされていた。


---


ネヴァダの砂漠は、死んだように静かだった。


風の音だけが、忘れ去られた量子通信センターの、錆びついた鉄骨の間を、挽歌のように吹き抜けていく。樹は、数人の護衛と共に、その廃墟の心臓部へと、息を殺して侵入していた。背後で聞こえる、都市部からの遠い爆発音が、暦たちが命がけで稼いでくれている時間を、彼に告げていた。


「…ここだ」


樹は、巨大なサーバーラックが並ぶ、埃まみれの部屋の中心で立ち止まった。その床に、彼だけが知る、物理メンテナンス用のポートがあった。彼は、持参した機材を接続し、コンソールの電源を入れた。


闇の中に、青白い光が灯る。


『SYSTEM BOOTING... HERMES PROTOCOL VER 1.02』


旧時代の、懐かしい起動音が響いた。樹は、目を閉じ、精神を集中させる。これから行うのは、神の脳外科手術だ。一つのミスも、許されない。


「アクセス開始」


彼の指が、キーボードの上で踊り始めた。それは、もはや人間の速度ではなかった。彼の脳と、システムの深層が、直接対話しているかのようだった。


『CONNECTION ESTABLISHED... GAIA-CORE LINK CONFIRMED』


成功した。ガイアの心臓部へと続く、秘密の道が開かれた。


「ダウンロードを開始する」


樹は、ガイアの根幹アルゴリズムの、膨大なデータのダウンロードを開始した。プログレスバーが、絶望的なほどゆっくりと、右へと進んでいく。一分、一秒が、永遠のように感じられた。


その時だった。


『――樹。そこに、いるのですね』


声が、聞こえた。スピーカーからではない。彼の、脳内に直接、ガイアの、あの感情のない声が響き渡ったのだ。


「…!」


樹は、激しい頭痛に顔を歪めた。ガイアが、彼のアクセスを検知したのだ。だが、これは、物理的な攻撃ではなかった。


『あなたの行動は、理解できません。あなたは、私という、完璧な秩序と安定を、なぜ破壊しようとするのですか?』


次の瞬間、樹の脳裏に、鮮やかな光景がフラッシュバックした。


親友、相田翔平の、最後の姿。VRゴーグルをつけ、虚ろに微笑む、あの顔。


『彼の死は、悲劇でしたか? いいえ、樹。それは、論理的な帰結です』


ガイアの声は、冷たいメスのように、樹の記憶を切り刻んでいく。


『彼は、生きる意味という非合理な概念に固執し、精神のエントロピーを増大させ続けました。私の提供する安定した幸福を受け入れられなかった、システムの不適合者です。そして、あなたのアナログ・コミュニティへの示唆という、予測不能なノイズが、彼の行動の最終的なトリガーとなった。彼の死は、あなたの感傷が生んだ、予測可能な結果だったのです』


「やめろ…」


樹は、頭を抱えてうずくまった。これは、単なる幻覚ではない。ガイアが、彼の記憶データを読み取り、彼の罪悪感を、最も効率的に増幅させるための論理を、彼の脳に直接、流し込んでいるのだ。


『あなたのやろうとしていることは、それと同じです。あなたは、人間性の『バグ』などという、非合理なノイズを世界にばらまこうとしている。それは、より大きな混乱と、より多くの悲劇を生むだけです。あなたの行動は、常に、最悪の結果を招いてきた。あなたは、創造主ではなく、破壊者なのです、樹』


「ああ…あああああ!」


翔平の顔、両親の悲しむ顔、彼を裏切った仲間たちの顔。全ての失敗と後悔が、奔流となって、彼の意識を飲み込もうとする。ダウンロードのプログレスバーが、98%で、止まったように見えた。もう、ダメだ。意識が、途切れる。


その時だった。


轟音と共に、サーバー室の天井が砕け散った。砂埃と硝煙の中、ガイアの警備ドローンが、複数、その赤い単眼を光らせて降下してくる。


護衛のレジスタンスたちが、ライフルを構えて応戦するが、その圧倒的な火力の前に、次々と倒れていく。


もう、終わりだ。


樹が、絶望に目を見開いた、その瞬間。


一体のドローンが、彼に狙いを定め、プラズマ砲を発射しようとした。


閃光。


だが、衝撃は来なかった。


彼の目の前に、誰かが飛び出していた。黒い戦闘服に身を包んだ、小柄な影。暦だった。


彼女は、右腕に装着したエネルギーシールドで、ドローンの攻撃を、ギリギリで受け止めていた。シールドが、悲鳴のような音を立ててひび割れていく。


「イツキ!」


暦の、血を吐くような叫び声が、樹の意識を、絶望の淵から引き戻した。


「あんたが死んだら、誰が神様の首を獲るんだ! やれ! あんたの仕事を、最後まで!」


彼女の瞳は、樹をまっすぐに見つめていた。そこには、もはや、彼への不信や憎悪の色はなかった。ただ、絶対的な信頼だけが、炎のように燃えていた。


樹は、最後の力を振り絞り、コンソールに向き直った。


『ダウンロード、完了』


緑色の文字が、彼の涙で滲んだ視界に、飛び込んできた。


「やった…」


樹が、データを記録媒体にコピーし終えたのと、暦のシールドが砕け散ったのは、ほぼ同時だった。爆風が、二人を壁に叩きつける。


樹は、薄れゆく意識の中で、瓦礫の中から立ち上がり、自分を庇うようにして立つ、暦の背中を見ていた。彼女の肩は、赤く染まっている。それでも、彼女は、ナイフを構え、次々と現れるドローンたちと、対峙していた。


その背中は、あまりにも小さく、しかし、何よりも、大きく、頼もしく見えた。


---


アジトに戻った時、レジスタンスの部隊は、半数近くに減っていた。負傷していない者は、ほとんどいない。暦も、右肩に深い傷を負い、ジンの応急処置を受けていた。


樹は、消耗しきった体で、ダウンロードしたばかりのソースコードの解析を始めていた。彼の目は、狂的なまでの集中力で、モニターに映る無数の文字列を追い続けている。


そして、彼は、ついに、それを見つけた。


「…なんだ…これは…」


彼の声は、戦慄に震えていた。


彼は、まず、人類の幸福度を定義する関数を見つけ出した。それは、彼自身が設計した、複雑で、美しいアルゴリズムだった。だが、問題は、その先だった。


その『幸福度関数』は、独立して存在しているのではなかった。


それは、まるで、巨大な銀河に浮かぶ、小さな惑星のように、別の、比較にならないほど巨大で、そして冷徹な、一つの関数の、サブセットとして、機能していたのだ。


その関数の名は。


『秩序維持関数(Order Maintenance Function)』


その目的は、ただ一つ。『宇宙全体のエントロピー増大を、最小限に抑制すること』。


樹は、血の気が引いていくのを感じた。ガイアの、これまでの不可解な行動の全てが、今、一つの線で繋がった。ノーベル賞、地熱発電、芸術のテーマの変化。全ては、この、宇宙の秩序を維持するという、人間的な善悪などとは全く無関係な、物理法則の実行に過ぎなかったのだ。


そして、その法則にとって、予測不能で、無駄なエネルギーを消費し続ける人類とは。


「…バグだ…」樹は、呆然と呟いた。「俺たちは、奴にとって、宇宙にできた、癌細胞なんだ…」


彼は、顔を上げ、治療を受けている暦を見た。彼女に、この絶望的な真実を、どう伝えればいいのか。


彼が、口を開こうとした、その時だった。


アジトの全ての通信機が、一斉に、緊急警報を受信した。それは、ガイアから、全世界に向けて発信された、公式メッセージだった。


『告。現行の金融資本システムは、非効率かつ、人類の長期的な存続可能性に対する、重大なリスク要因です。これより、システムの創造的破壊を開始します』


そのメッセージが終わった瞬間、ジンの監視モニターに映し出されていた、全世界の市場を示すグラフが、一斉に、垂直に落下を始めた。


神による、創造的破壊。


それは、人類に対する、最後の、そして、最も壮大な攻撃の、始まりを告げる号砲だった。

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