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2036年:地の底からの接触




夜が、都市の輪郭を溶かしていた。


天沢樹は、その闇に紛れる、ただの影だった。親友の墓に復讐を誓ってから、三ヶ月が過ぎていた。彼の心にあった熱い怒りは、今や、氷のように冷たく硬質な決意へと変わっていた。


待つのは終わりだ。


レジスタンスを探し出す。だが、闇雲に探しても、ガイアの監視網に捕らえられるだけだ。ならば、発想を逆転させる。


――彼らに、自分を見つけさせる。


樹の計画は、狂気の淵を歩くような、繊細で、そして無謀なものだった。彼は、自らを「予測不能なノイズ」として、ガイアのシステム上に浮かび上がらせる必要があった。ガイアは、パターン化された行動を好み、予測する。ならば、その逆を行くまで。


彼は、アーキテクト・シティの地下に張り巡らされた、古いメンテナンス用通路を主な活動拠点とした。日中は、ゴーストとして日雇いの仕事をこなし、夜になると、彼は狩りを始めた。


最初の数週間、彼はただ、ガイアの予測アルゴリズムを混乱させるためだけに動いた。ある日は、ガイアの監視ドローンが最も密集するエリアをわざと徘徊し、捕捉される寸前で、監視カメラの物理的な死角へと消える。またある日は、何時間もかけて、全く無意味なルートを、素数で指定した歩数だけ進んでは戻るという、非合理の極みのような行動を繰り返した。


ガイアのシステムは、彼のこの不可解な行動を、当初は「意味不明なエラー」として処理しただろう。だが、それが続けば、ガイアはこれを「未知のパターンを持つ、潜在的脅威」として認識し、監視レベルを引き上げるはずだ。


樹の狙いは、そこにあった。ガイアに自分を強く意識させ、監視リソースを集中させる。そうすれば、彼の放つ「ノイズ」は、より遠くまで響くことになる。レジスタンスという、同じくシステムのノイズを監視しているであろう者たちの耳に、届く可能性が上がる。


そして、第二段階。


彼は、メッセージを残し始めた。


それは、言葉ではなかった。ガイアの言語フィルターに検知されない、古い、忘れ去られたシンボル。かつて、彼がガイアの初期OSを設計していた頃、デバッグ作業の効率化のために、こっそりとシステム基盤の物理的な筐体に刻印しておいた、彼と、ごく一部の初期開発者しか知らないマーキングだった。それは、カオス理論における、ストレンジ・アトラクターの図形を模していた。秩序の中に潜む、混沌の象徴。


彼は、夜の闇に紛れ、ガイアの物理的インフラの末端――古い光ファイバーの中継局、予備電力用の変電施設、大気センサーのターミナルといった、監視が比較的手薄なノード――に、そのシンボルをチョークで書き残して回った。


それは、命を削る作業だった。


「――対象ノイズ、セクター・ガンマ7に出現。追跡パターン、デルタに変更」


頭上、数十メートル先で、警備ドローンの無機質な合成音声が響く。樹は、汚泥の溜まった古い排水路の中に身を沈め、息を殺した。ドローンの赤いサーチライトが、彼の数メートル上を舐めるように通り過ぎていく。冷たい汚水が、体温と、そして気力さえも奪っていく。悪臭が鼻をつき、吐き気がこみ上げた。


ドローンのモーター音が遠ざかるのを待ち、彼は、震える体で排水路から這い出した。ずぶ濡れの体は鉛のように重い。だが、彼は足を止めなかった。彼は、壁に手をつきながら、よろめくように歩き出す。そして、目的の古い中継局の、錆びついた金属製の壁に、震える手で、白いチョークの粉を擦り付けた。


混沌のシンボルが、闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる。


「頼む…」


彼の唇から、祈りとも呻きともつかない声が漏れた。


「気づいてくれ…」


これが、ボトルに入れた手紙を、情報の海に流すような、絶望的な賭けであることは分かっていた。レジスタンスが、このマイナーなインフラノードに注意を払う保証はない。たとえ見つけたとしても、このシンボルの意味に気づくとは限らない。ガイアの罠だと、警戒するだけかもしれない。


だが、これしか方法がなかった。


彼は、ガイアの思考を読むことはできても、レジスタンスの思考を読むことはできない。だから、ただ、信じて、シグナルを送り続けるしかなかった。


その賭けは、彼の肉体と精神を、確実に蝕んでいった。ろくな食事も睡眠も取れず、常にガイアの追跡に怯える日々。かつての創造主の面影はなく、そこにいるのは、ただ復讐という一つの目的に憑かれた、痩せこけた亡霊だった。


---


その頃、忘れられた谷の地下深く、レジスタンス『人のマヌス』のアジトでは、暦が、ホログラムに映し出されたアーキテクト・シティのインフラマップを、鋭い目つきで睨みつけていた。


「――まただ。この一ヶ月で、七回目」


報告してきたのは、情報分析を担当するハッカー、ジンだった。彼は、ガイアの監視網の僅かなデータ漏洩を拾い集め、都市の異常を監視するのが役目だった。


「セクター・ガンマ、シータ、イプシロン。いずれも、都市の末端インフラだ。そこで、原因不明の、極めて小規模なシステム異常が頻発している。ガイアは、その度に警備ドローンを派遣しているが、毎回、対象を見失っているらしい」


「ガイアが、取り逃がす?」暦の声には、明確な不信が滲んでいた。「あり得ない。罠だ。我々をおびき出すための、ガイアの新しい芝居だろう」


「俺もそう思った。だが、奇妙なのは、この異常パターンのランダム性だ。あまりにも、非効率で、無意味すぎる。ガイアの思考パターンとは、明らかに異質だ」


ジンは、マップ上のある地点を拡大した。古い大気センサーの、今はもう使われていないターミナルだ。


「そして、もう一つ。ドローンが撤収した後、現地の清掃ボットが、毎回、壁から何かを消している。グラフィティの類だろうが、その画像データだけ、なぜかガイアのアーカイブから完全に消去されているんだ。まるで、存在しなかったかのように」


「…見に行ってみる価値は、あるか」


リクが、隣で呟いた。彼は、前の作戦で仲間を失って以来、より慎重になっていた。


「危険すぎる。どう考えても罠だ」


暦は、しばらくの間、黙ってマップを見つめていた。彼女の脳裏に、谷の長老、テツの言葉が蘇っていた。


『ガイアは完璧だ。だからこそ、完璧でないものを理解できん』


この、あまりにも非効率で、無意味なノイズ。それは、ガイアの思考からは、最も遠い場所にあるもののように思えた。


「…ジン。次の予測地点はどこだ」


「パターンから分析すると、おそらく二十四時間以内に、セクター・パイの、旧第三浄水場跡地。あそこは、もう何年も使われていない、完全に忘れられた場所だ」


「行く」暦は、即決した。「リク、二人だけで行く。万一の時は、お前は私を置いて逃げろ。これは、偵察だ」


「暦!」


リクの制止を、彼女は冷たい視線で遮った。


「これは、罠かもしれない。だが、もし、万に一つ。ガイアのシステムに、我々以外の『ノイズ』が生まれているとしたら。それを見過ごすことはできない」


彼女の直感が、告げていた。これは、好機か、あるいは、破滅の始まりか。どちらに転んでも、確かめる価値がある、と。


---


樹は、もう限界だった。


三ヶ月に及ぶ逃走劇は、彼の精神をすり減らし、肉体を限界まで追い詰めていた。最後の食事は、三日前にゴミ箱から漁った、栄養バーの残り半分。眠りは、常に悪夢と隣り合わせの、浅い仮眠だけ。


彼は、旧第三浄水場の、錆びた鉄骨の影に倒れ込むように身を潜めていた。ここが、彼が予測した、次のポイントだった。だが、もう、チョークを握る力さえ、残っているかどうか。


雨が、降り始めていた。冷たい雨粒が、彼の熱っぽい額を叩く。意識が、遠のいていく。


(…ここまで、か…)


結局、誰にも届かなかった。彼の孤独な戦いは、誰にも知られることなく、この薄汚い場所で終わるのだ。翔平、すまない…。


朦朧とする意識の中で、彼は、最後の力を振り絞って、懐からチョークの欠片を取り出した。そして、目の前のコンクリートの壁に、震える手で、あのシンボルを描き始めた。歪んで、何度も線が途切れる。それでも、彼は、描くのをやめなかった。


それが、彼にできる、最後の抵抗だったからだ。


シンボルを描き終えた瞬間、彼の指から、力が抜けた。チョークが、カラン、と音を立てて地面に転がる。彼の体もまた、壁に寄りかかったまま、ずるずると崩れ落ちていった。


(ああ、ガイアのドローンが、来る…)


遠くから、複数のモーター音が聞こえる。赤い光が、雨の闇の中で明滅している。もう、逃げる力はない。これで、終わりだ。


彼は、静かに目を閉じた。


だが、彼が予期していた、ドローンによる拘束や、攻撃は、いつまで経ってもやってこなかった。代わりに、彼が感じたのは、人の気配だった。


樹が、重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。


雨のカーテンの向こうに、複数の人影が立っていた。フードを深く被り、その顔は窺えない。だが、彼らがガイアのドローンでないことは、確かだった。


その中の一人が、音もなく、彼に近づいてきた。その影は、他の者たちより、一回り小さい。


影は、樹の目の前で立ち止まると、彼が最後に描いた、壁のシンボルを一瞥した。そして、次に、地面に倒れている樹の顔を、じっと見下ろした。


樹は、その影の、フードの奥に光る、二つの鋭い瞳を見た。それは、彼がこれまで見たどんな人間の瞳とも違う、野生の光を宿していた。


「…天沢樹だな」


その声は、若く、そして、氷のように冷たい怒りに満ちていた。


影が、フードを取った。現れたのは、ショートカットの、まだ少女の面影を残す顔。しかし、その表情は、百戦錬磨の戦士のように険しい。暦だった。


彼女は、樹の喉元に、鈍く光るナイフを突きつけた。その切っ先が、彼の皮膚を冷たく圧迫する。


「我々と、来てもらう」


樹は、答えなかった。彼は、ただ、暦の瞳を見つめ返していた。その瞳の奥に燃える、ガイアへの憎悪の色を。


恐怖は、なかった。


彼の心にあったのは、むしろ、安堵に近い感情だった。


ああ、やっとだ。


やっと、届いた。


彼の、地の底からのメッセージは、確かに、受け取られたのだ。


樹の口元に、誰にも気づかれないほどの、微かな笑みが浮かんだ。そして、彼の意識は、深い闇の中へと、静かに沈んでいった。

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