23話 神様、初めての喧嘩
葵と恋人になってから、僕の見る世界は何もかもが輝いて見えた。
教室の窓から見える、ありふれた景色も。
退屈だったはずの、授業の音も。
昼休みの、賑やかな喧騒さえも。
僕たちはまだ、クラスの皆の前で堂々と「恋人」として振る舞えるほど、器用ではなかった。
でも、言葉を交わさなくても、視線だけでお互いの気持ちが伝わってくる。
休み時間、僕が、友達と馬鹿な話をして笑っていると、少し離れた席から、葵が、楽しそうに、僕のことを見ている。僕が、その視線に気づいて、彼女の方を見ると、彼女は、はっとしたように、顔を赤らめて、俯いてしまう。
そんな、ささやかな、でも、どうしようもなく甘酸っぱいやり取りが、僕たちの、新しい日常だった。
凛も、そんな僕たちを、一番近くで、温かい目で見守ってくれていた。
僕たちの間に、少しでも、ぎこちない空気が流れそうになると、彼女は、いつだって、太陽みたいな笑顔で、その間に入ってきてくれた。
「ほらほら、二人とも、見つめ合ってないで、先生の話、聞きなさい!」
「葵ちゃん、将希にばっかりいい顔してないで、たまには、私にも構いなさいよー!」
彼女の、そのカラッとした明るさに、僕たちは、何度も、救われていた。
この、穏やかで、幸せな時間が、ずっと、ずっと、続いていく。
僕は、何の疑いもなく、そう信じきっていた。
僕の、たった一言の、愚かな言葉が、この全てを、壊してしまうまでは。
その日の昼休み。
僕が教室で数人の男子生徒と、くだらない話で盛り上がっていた時のことだった。
話題は、自然と僕と葵の関係に移っていった。
「いやー、でもマジですげえよな、山口」
一人がニヤニヤしながら、僕の肩を叩く。
「あの神崎さんだぜ? うちの学校の、三大美少女の一人。高嶺の花中の、高嶺の花。そんな子とお前が付き合ってるとか、マジで奇跡よな!」
「だよなー! 正直、お前には勿体無いって!」
「一発殴らせろ!」
友達たちの、悪意のないからかいの言葉。
僕は照れくささと、ほんの少しの優越感で頭を掻いた。
そして、その場の空気に流されるまま、謙遜のつもりでこう言ってしまったのだ。
「だよなー。俺自身も、俺なんかでいいんだろうって、毎日思ってるよ」
それは僕にとって、ただの自虐的な冗談のつもりだった。
『こんな俺を選んでくれるなんて、葵は本当に見る目があるだろ?』
よもや惚気にも似た感情が、その裏には隠れていた。
でも。
その言葉が彼女の耳にどう響くかなんて、この時の僕はまったく考えていなかったのだ。
僕のその言葉を少し離れた場所で、凛と話をしていた葵が聞いていた。
彼女の顔からさっと表情が消えるのを、僕は見てしまった。
さっきまで凛と楽しそうに笑っていた温かい光は、まるでスイッチが切れたかのように消えていく。
彼女の瞳には、僕がもう二度と見たくないと思っていた、転校初日の冷たい絶望に似た色が浮かんでいた。
「……ごめん。私、ちょっと用事思い出したから」
葵は、凛に、そう言うと、逃げるようにして、その場を立ち去ってしまった。
「え、あ、葵ちゃん!?」
凛の戸惑う声が、教室中に響く。
僕の周りで騒いでいた友達たちも、何事かと顔を見合わせている。
僕だけがその場で動けずにいた。
今のはなんだ…?
俺のせいか…?
でも、なんで? 俺は何も悪いことなんて、言っていないはずだ。
僕の頭の中は、混乱で真っ白になっていた。
その日の放課後、葵は神社に来なかった。
僕は一人、がらんとした境内で途方に暮れていた。
昼休みの後、僕が何度彼女に話しかけても、彼女はもう僕の目を見てはくれなかった。
「どうしたんだよ?」
「……別に」
「何か、怒ってるのか?」
「……怒ってない」
短い単語だけの返事。
それは、僕たちが出会ったばかりの頃の、あの分厚い氷の壁を思い出させた。
何がいけなかったのか、わからない。
わからないから、謝ることもできない。
僕の心は苛立ちと悲しみで、ぐちゃぐちゃになっていた。
なんでだよ。
せっかく、あんなに笑い合えるようになったのに。
なんで、また元に戻っちまうんだよ。
僕は拝殿の床に大の字に寝転がると、大きな、大きなため息をついた。
恋人同士って、こんなにも面倒くさくて、難しいものだったのか。
次の日も、僕たちの間の冷たい空気は変わらなかった。
挨拶をしても、彼女は俯いたまま。
昼休み、凛がいつものように「屋上行こ!」と誘っても、「ごめん、今日は、図書室に行くから」と、断られてしまった。
凛も僕たちの異常な様子に、すぐに気づいた。
昼休み、一人で教室で弁当を食べている僕の元に、彼女はやってきた。
「あんたたち、喧嘩したでしょ」
その声は呆れと、わずかに心配の色を帯びていた。
僕は苛立ちを隠しもせずに、箸を乱暴に置いた。
「知るかよ! 俺は、何も悪いことなんて言ってねえよ!」
僕は凛に昨日からの出来事を、洗いざらいぶちまけた。
友達にこう言われて、俺はこう返しただけだ、と。
「それの何が悪いんだよ! あいつが勝手に聞いて、怒ってるだけだろ!」
僕のそのあまりに自分勝手な言い分を。
凛はただ黙って、最後まで聞いてくれた。
そして僕が全てを話し終えると、彼女は今まで聞いたこともないくらい深くて、大きなため息をついた。
「……馬鹿だね、あんたは」
「はあ!? なんだよ、それ!」
「だから、馬鹿だって言ったの! 正真正銘の、どアホだって」
凛はそう言うと、自分のこめかみを指で押さえた。
「……いい? よく、聞きなさいよ、この朴念仁」
凛はまるで出来の悪い生徒に物事を教える先生のように、話し始めた。
「あんたにとっては、ただの謙遜のつもりだったかもしれない。でも葵ちゃんにとって、あんたのその言葉がどう聞こえたか、考えたことある?」
「どうって……」
「あの子はね、ずっと自分に自信がなかったんだよ。『自分なんて、いない方がいい』って、本気で思ってた。綺麗だからっていじめられて、誰にも助けてもらえなくて……。そんな子がやっと勇気を出して、あんたを好きになったんだよ」
凛の言葉が、一つ一つ僕の胸に突き刺さる。
「あんたは、あの子の光だったはずなの。なのに、その光が『なんで、俺なんかでいいんだろう』なんて言ったら、どうなる? それはね、『お前みたいな、面倒くさい奴と付き合ってる俺って、変だよな』って、言ってるのと同じなんだよ!」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「あんたにそんなつもりがなくても、葵ちゃんにはそう聞こえちゃったの! あの子が、一番言われたくない言葉だったの! やっと信じ始められた人に裏切られたって思っちゃったんだよ、この大馬鹿!」
凛のその言葉に、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。
そうか。
俺は……。
なんて、馬鹿なことを、言ってしまったんだ。
自分の軽率な一言が、どれだけ彼女の柔い心を、深く、深く傷つけてしまったのか。
僕はようやく、そのことに気がついた。
目の前が真っ暗になる。
「……どう、しよう……」
「どうしようじゃないでしょ。謝るんだよ、ちゃんと」
凛はそう言うと、僕の頭を一回優しく叩いた。
「あんたの悪いところは、そういうデリカシーのないところ。でもあんたのいいところは、ちゃんと心から謝れるところなんだから」
彼女はそう言って、にっと笑った。
その笑顔に、僕はまた救われた気がした。
その日の放課後。
僕は、凛に葵が向かったという図書室の場所を聞き出し、走っていた。
葵はきっとまだ怒っている。
口も聞いてくれないかもしれない。
でも僕は、もう逃げないと決めたのだ。
図書室の扉を開けようとすると、なぜか重く感じる。
彼女は一番奥の窓際の席で、一人本を読んでいた。
僕が彼女が座る席の横に立つ。
葵が僕の姿を認めると、驚いたように肩を震わせた。
そして気まずそうに、無言で視線を逸らす。
僕はそんな彼女の前に、何も言わずに、深く、深く頭を下げた。
「葵。……ごめん」
僕のその一言に、彼女の肩がまたぴくりと揺れた。
「俺、全然葵の気持ち、考えられてなかった。馬鹿だった。お前を傷つけるつもりなんて、一切なかったんだ。でも、俺の一言が、お前を深く傷つけた。……本当に、ごめん…」
僕は頭を上げた。
そして、彼女のその潤んだ瞳を、まっすぐに見つめて言った。
僕の、本当の気持ちを。
「俺は葵と付き合えて、世界で一番幸せなんだ。勿体無いなんて思ってない。むしろ、俺なんかには勿体無いくらいだって、本気で思ってる。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
僕の、その必死の言葉に。
彼女の瞳からこらえきれなかった涙が、一筋の線を描いてこぼれ落ちた。
「……私の方こそ、ごめん」
彼女が、震える声でそう言った。
「すぐに、将希くんが裏切ったと思って……。信じようとしなかった。将希くんの気持ちを……」
「ううん。葵は悪くない。俺が全部悪かったんだ」
「ううん……」
僕たちはお互いに、「ごめん」と「悪くない」を、繰り返していた。
やがて、どちらからともなく、ふっと笑みがこぼれた。
その瞬間、僕たちの間にあった冷たくて、重い氷の壁は完全に溶けてなくなった。
「……凛ちゃんに、言われたの」
葵がぽつりと呟いた。
「将希くんの今回の言葉信じないで。葵ちゃんを見る目を信じてあげて、って」
「……そっか。あいつ、そんなことまで……」
凛の優しさが、また胸に染みた。
僕たちは本当に、彼女に頭が上がらない。
「なあ、葵」
僕は、彼女の手をおそるおそる、握った。
彼女は驚いたように、でもそれを振り払うことはしなかった。
「もう、あんな顔、させないから」
僕は彼女にそう誓った。
「だから、これからも僕の隣にいてください」
僕のその言葉に。
彼女は涙で濡れた顔のまま、今までで一番美しい笑顔で頷いた。
「……うん」
僕たちの初めての喧嘩は、こうして終わりを告げた。
雨降って地固まる。
僕たちの絆は、ささいだが大切なすれ違いを乗り越えて、また強く、深くなった。
この温かい手を、もう絶対に離さない。
心の中で固くそう誓った。
私も凛みたいな親友欲しいですね。
なんで凛みたいな幼馴染枠は、いつも負けヒロインになってしまうのでしょうか。
ぽっと出に負ける世界線、私も作ってしまいました。




