20話 鏡の前での嘘
私の名前は、相沢凛。
私の朝は、鏡の中の自分に、嘘をつくことから始まる。
「よし、今日の私も、明るい相沢凛だ」
洗面台の鏡に映る、少しだけ目の赤い寝不足気味の自分に向かって、にっこりと完璧な笑顔を作ってみせる。
口角を上げて、目元を緩めて。
大丈夫。笑えてる。
いつもの、私だ。
これは私が、私自身に課した毎朝の儀式。
将希に告白して、そして綺麗さっぱり振られた日から、ずっと続けている、大切な、大切な、おまじない。
「将希! いつまで寝てんの! 遅刻するよ!」
隣の家の、二階の窓に向かって、私は、いつものように大声を張り上げる。
しばらくすると、案の定、鳥の巣みたいな頭をした将希が、眠そうな顔で窓から顔を出した。
「……んあ? もう、そんな時間か……」
「とっくにそんな時間ですー! あんたが昨日、夜遅くまで葵ちゃんと電話してたからでしょ!」
「なっ……! なんで、それを……!」
驚きに目を見開く将希。当たり前だ。
昨日の夜、私の部屋まであんたの部屋から漏れてくる、甘ったるくて、締まりのない声が全部聞こえてたんだから。
「顔に書いてありますー」
私はそう言って、からかうように、べーと舌を出した。
将希は顔を真っ赤にして、何かを言い返そうとしていたが、結局バタン! と乱暴に窓を閉めてしまった。
私はそんな彼の姿に、ははっと乾いた笑い声を上げた。
いつもの、朝の光景。
十年以上、毎日繰り返してきた、当たり前のやり取り。
でも今は、その一つ一つが私の胸の奥で、ズキンと鈍い痛みを立てる。
(……ばか)
誰に言うでもなく、そう呟いた。
浮かれちゃってさ。
本当にどうしようもない、朴念仁。
でもそんな馬鹿みたいに幸せそうなあんたの顔を、守ってあげられるのは、きっと私しかいないんだから。
私はもう一度だけ、きゅっと口角を上げて完璧な笑顔を作ると、自分の家の玄関へと向かった。
今日も、私は明るくいなければならないのだ。
学校は、私にとって戦場だった。
休み時間になるたび、私は意識的に、将希と葵ちゃんの輪の中に飛び込んでいった。
「おっはよー! 二人とも、朝からイチャイチャしない!」
「昼休みー! ほら、葵ちゃんぼーっとしてないで、屋上行くよ!」
「将希、あんたまた数学の教科書忘れたでしょ。ほら、見せてあげるから、ちゃんと葵ちゃんにも見せなさいよね!」
私が大声かつ賑やかにそうやって振る舞うことで、クラスの他の生徒たちは僕たち三人の関係を、それ以上詮索しようとはしなくなった。
『なんだ、結局、今まで通り、三人で仲良いだけじゃん』
そう思わせる。それが私の役目だった。
二人が周りの好奇の視線に晒されて、ぎこちなくならないように。
葵ちゃんがまた、心を閉ざしてしまわないように。
私が道化になることで二人を守る、防波堤になるのだ。
昼休み、屋上で三人で弁当を広げる。
それは最近、私たちの新しい日常になっていた。
「あ、将希! その卵焼き、美味しそう!一個ちょーだい!」
「ああ? 嫌だね。自分で作れよ」
「ケチ! いいじゃん、一個くらい!」
私はわざと将希にじゃれつく。
その時だった。
「……将希くん。私のあげる」
隣で静かに弁当を食べていた葵ちゃんが、おそるおそるというように、自分のお弁当箱から綺麗に焼かれた卵焼きを箸でつまんで、将希のお弁当箱に移した。
「え? あ、いいのか? 葵」
将希が、照れくさそうに、彼女の名前を呼ぶ。
「……うん。私、いっぱいあるから」
葵ちゃんはそう言って、はにかむようにふわりと笑った。
そのあまりに自然で、あまりに親密な二人のやり取り。
そこに私の入り込む隙なんて、一ミリもなかった。
ズキン、と。
また胸の奥の、氷の針が痛んだ。
ダメだ。笑え。私。
「なーんて! 葵ちゃん優しー! それに比べて、この朴念仁は心が狭いんだから!」
私は慌てて、道化の仮面を被り直す。
そして、将希の脇腹をこれでもかというくらい、強くつねってやった。
「いってえ! 何すんだよ、凛!」
「うるさーい!」
私は大声で笑った。
その笑顔の裏で、心がぽろぽろと泣いていたことなんて、きっとこの二人には最後まで気づかれないのだろう。
放課後。
神社での作業は、もうほとんど終わっていた。
でも僕たちは、相変わらず毎日あの場所に集まっていた。
それはもう義務や、目的のためじゃない。
ただ三人で過ごすその時間が、何よりも大切だったからだ。
その日、葵ちゃんは拝殿の縁側で、楽しそうに鼻歌を歌っていた。
最近彼女が、時々見せてくれるようになった、新しい一面だ。
「……葵ちゃん、ご機嫌だね」
私が、そう声をかけると、彼女は、はっとしたように、歌うのをやめて、顔を真っ赤にした。
「き、聞こえてた……?」
「うん。何の歌?」
「……別に、なんでもない」
そう言って、彼女は俯いてしまう。
そんな葵ちゃんの隣に掃除を終えた将希が、どかりと腰を下ろした。
「なんだよ、歌ってたのか? 聞かせろよ」
「い、いやだ」
「いいじゃんか、ケチ」
将希はそう言うと、葵ちゃんの頭をわしゃわしゃと優しく撫でた。
あまりに自然な、恋人同士のスキンシップ。
私の心臓が、大きく軋む音がした。
ああもうダメだ。
見て、いられない。
「……あ、私、そろそろ、帰るね! 委員会の仕事、思い出しちゃった!」
私は、わざとらしく、パン! と手を叩くと、勢いよく、立ち上がった。
「え? もう帰るのか?」
将希が、不思議そうな顔で、こちらを見る。
「うん! じゃあね、二人とも! あんまりいちゃいちゃしすぎないように!」
私は精一杯の悪戯っぽい笑顔を作ると、二人に背を向けた。
そして逃げるように、神社の石段を駆け下りる。
もう、限界だった。
完璧な「太陽」を演じ続けるには、私の心はあまりに脆すぎた。
その日の帰り道。
私は一人で、とぼとぼと夕暮れの道を歩いていた。
どうして私は、あんなところに居合わせてしまったのだろう。
いっそ二人の前から消えてしまえたら。
そうすれば、こんな醜い嫉妬心に苦しむこともないのに。
そんな自己嫌悪に沈んでいたその時だった。
「凛!」
背後から、私を呼ぶ声がした。
振り返ると、そこに将希が息を切らしながら立っていた。
「はあ、はあ……、追いついた……。お前、なんであんなに急いで帰るんだよ」
「……将希? どうして……。葵ちゃんは?」
「葵は、先に帰した。……お前と、話がしたかったから」
将希はそう言って、まっすぐに私の目を見た。
真剣な瞳に、私の心臓がまた嫌な音を立てて、跳ねる。
私たちは、近くの公園のベンチに座った。
そこはあの日、私が彼に告白した思い出の場所だった。
気まずい沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、将希だった。
「……凛。お前最近、無理してないか?」
その優しい声、やめて。
そんな優しい声で、私の名前を呼ばないで。
「……何のこと?」
私は、とぼけた。
「とぼけんなよ。わかるんだよ。お前、無理して笑ってるだろ」
将希は、静かに、続けた。
「……あの日、俺がお前を振った日から、ずっと」
彼のその言葉に、私が必死で築き上げていた心のダムが、一気に決壊した。
「……っ」
涙が溢れてくるのを、必死でこらえる。
「俺、馬鹿だから、お前の気持ち全然気づいてやれなかった。十年以上も、一緒にいたくせに……。本当に、ごめん」
将希はそう言って、深く頭を下げた。
違う。
違う。謝らないで。
あんたは、何も悪くない。
私が勝手に好きになって、勝手に失恋しただけなんだから。
そう言いたかったのに、声にならない。
「凛は俺にとって、一番の親友だ。それは、これからも絶対に変わらない。……でもだからこそ、お前にそんな辛い顔させたくないんだよ」
将希は顔を上げた。その瞳は少しだけ潤んでいた。
「葵のことも、大事だ。でも、凛のことも同じくらい大事なんだ。俺は、お前にも笑っていてほしい。無理した笑顔じゃなくて、心の底から笑ってほしいんだよ」
ああ、もうダメだ。
なんてずるいんだろう、この男は。
こんな優しい言葉をかけられたら。
私がどんな気持ちで、あんたのこと諦めようとしてると思ってるのよ。
私の瞳からこらえきれなかった涙が、静かにこぼれ落ちた。
将希は何も言わずに、ただ隣で私を静かに見守っていてくれた。
ひとしきり泣いて、少しだけ落ち着いた頃。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま彼に言った。
「……ばか」
「……ああ」
「ほんと、大馬鹿」
「……うん」
「……でも、ありがと」
私はそう言って、最後に残った涙を手の甲でぐいっと拭った。
そして、彼の方をまっすぐに見据えて言った。
私の、本当の気持ちを。
「私、あんたのことが好きだった。ううん、今もまだ好きだよ。これから先も、すぐには忘れられないと思う」
「……うん」
「でも、あんたと同じくらい、葵ちゃんのことも大好きなんだ。あの子は、私の大事な、大事な、親友だから」
私は一度だけ、大きく息を吸い込んだ。
そして今度こそ、完璧な、本物の笑顔で彼に言った。
「だから、ちゃんと葵ちゃんのこと大事にしなさいよね! この、大ヘタレ!」
あの日、私が自分に言い聞かせた言葉。
でも今はもう、強がりなんかじゃなかった。
私の心からの本心だった。
「もしあんたが、葵ちゃんのこと泣かせたりしたら……。その時は私が、あんたのことぶん殴って、葵ちゃん奪っちゃうんだから! 覚悟しといてよね!」
私の精一杯の言葉に、将希は一瞬だけきょとんとした顔をした。
やがて、彼もまた、昔の私がまだ何も知らなかった頃のような、懐かしくて、優しい笑顔で笑った。
「……ああ。わかってる」
その笑顔を見た瞬間、私は本当に救われたような気がした。
同時に私の恋は、終わった。
でも、私の人生はまだ終わっていない。
この、どうしようもなく優しくて、朴念仁な幼なじみと、そして不器用だけど誰よりも強い、私のたった一人の親友。
この二人の、一番の味方でいること。
それが今の、私の新しい役割なんだ。
夕焼けの空が、やけに綺麗だった。
明日からはもう、鏡の前で嘘をつかなくても大丈夫。
私は胸を張って、三人で笑うことができる。
そんな確かな予感が、私の心を温かく満たしていた。




