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1話 氷上の神様

山口将希にとって、世界は退屈で窮屈な箱庭だった。

窓の外では、真夏の日差しを受けた入道雲が、空の青さに負けないほどにその白さを主張している。教室の中は、冷房の生ぬるい風と、午後の授業特有の気だるいざわめきに満ちていた。教師の単調な声が、まるで子守唄のように鼓膜を揺らす。


「……というわけで、この場合の解は……」


ああ、退屈だ。

僕はペンをくるくると回しながら、ノートの隅に意味のない幾何学模様を描きなぐった。山と海に挟まれたこの小さな田舎町では、誰もが知り合いで、誰もが同じような顔をして、分かりきった明日へと向かって生きていく。この教室も、この授業も、その退屈な縮図のようだ。


いつか、神様にでもなれねぇかなぁ。


そんな途方もない空想は、こういうどうしようもない退屈の海から生まれる。神様になって、この窮屈で予測可能な世界を、僕の好きなように作り変えてしまうのだ。空の色も、風の音も、なんなら授業の内容だって、僕の気分次第。くだらない空想。子供じみた願望。分かっている。でも、そうやって夢想している時だけ、僕はこの人生の主人公になれた気がした。


「……ちょっと、将希。聞いてる?」


隣の席から、ひそひそ声で僕を呼ぶ声がした。幼なじみの相沢凛あいざわ りんだ。快活なショートカットがよく似合う、クラスの委員長。


「なに?また神様ごっこでもしてるの? 先生に見つかるよ」

「ごっこじゃねえし。俗に言うシミュレーションだ。来るべき日に備えて、様々なパターンを想定してるんだよ。例えば…ほら、今日の体育がドッジボールじゃなくてサッカーになる世界線とか……」

「くだらない。あんたがサッカー下手だからでしょ。そんなことより、今日の数学の小テストの心配でもしたら?」

悪戯っぽく笑って、僕の痛いところを凛はいつも的確に突いてくる。

「うっ……。神の領域に、人間の小テストなど些末な問題だ」

「はいはい。赤点取って泣きついても知らないからね」

凛は呆れたように笑って、再び黒板に視線を戻した。


そんな彼女とのやり取りも、僕の日常の一部だった。家が隣同士というだけで、もう十年以上の付き合いになる。僕が朝寝坊すれば叩き起こしに来るし、僕が宿題を忘ればノートを貸してくれる。凛に言わせれば「私がいなければ将希は生きていけない」し、僕に言わせれば「凛は僕のおかんか」という話だ。


そんなありふれた一日が、ほんの少しだけその色合いを変えたのは、昼休みを終えた五時間目の始まりだった。担任が、少し改まった表情で教壇に立つ。


「えー、授業前にお前たちに紹介したい生徒がいる。急な話だが、今日からこのクラスの仲間になる、転校生だ。入ってくれ」


転校生、という響きに、教室がざわめいた。この閉鎖的な田舎町では、それはちょっとした事件である。どんな奴が来るんだ、女か、男かとクラス中が期待と好奇の視線で教室のドアを見つめる。

そして、そのドアが、がらりと開いた。


瞬間、世界から音が消えた。

僕だけじゃない。教室にいた全員が、呼吸を忘れて、そこに立つ一人の少女に釘付けになっていた。

まず目に飛び込んできたのは、陽の光を吸い込んで淡く輝く、絹糸のような髪。次に、真夏の太陽の下で暮らしてきた僕たちとは明らかに違う、雪を固めて作ったかのような透き通る白い肌。そして、人形師が心血を注いで作り上げた最高傑作のように、完璧すぎるほどに整った顔立ち。

非現実的、という言葉は、きっと彼女のためにあると言える程に非現実的な容姿だ。教室というありふれた空間に、彼女の存在だけがくっきりと、異次元の解像度で浮き上がって見えた。


「……神崎、葵です」


僕の脳裏に、遠い夏の日の神社の記憶が、ノイズ混じりの映像のように一瞬だけちらついた。あの時出会った、不思議な少女。たしか…真っ白な肌に少し茶色っぽい髪だったような…


「いや、気のせいだな。」


そう感じさせるのは、目の前の彼女が放つ、人を寄せ付けない氷のような雰囲気は、あの頃の儚げな印象とはあまりにかけ離れていた。そうだ、あの子は都会に引っ越したはずだ。今さらこんな場所に帰ってくるわけがない。きっと、顔が似ているだけだ。きっとそうだ。

僕はすぐに、脳裏に浮かんだ記憶を打ち消した。


「……よろしくお願いします」


彼女が発した声は、その見た目と同じくらい、人間味に欠けていた。体温も、感情も、一切の揺らぎも感じられない、無機質な響き。クラス中が固唾を飲み見守る中、彼女はすっと頭を下げ、担任に示された席へと歩き出した。僕の、二つ前の席だった。


彼女が席に着くと、まるで魔法が解けたかのように、教室は途端に騒がしくなった。


「おい、マジかよ……」

「レベルが違うって」

「どこのモデルだよ、ほんとに……」


興奮した男子たちの声。そして、嫉妬と、戸惑いと、畏怖が入り混じった女子たちの囁き声。


休み時間になると、その興奮は頂点に達した。好奇心旺盛なクラスの男女が、彼女の机に人だかりを作る。


「神崎さん、どこから来たの?」

「彼氏とかいるんですか!?」

「部活、何入るか決めてる?」


矢継ぎ早に浴びせられる質問の嵐。僕なら三分で胃に穴が開きそうな状況だ。だが、葵は、その美しい顔を一切歪めなかった。教科書から視線を上げることすらせず、全ての質問を、短く、冷たい単語だけで打ち返していく。


「……東京」

「……いません」

「……決めてない」


その分厚い氷の壁は、あらゆるコミュニケーションを拒絶していた。あれだけ騒がしかったクラスメイトたちも、次第に言葉を失い、どうしていいかわからない、という気まずい空気が流れる。やがて、誰も彼女に話しかけなくなった。


「ねえ、見た? あの神崎さんって子」


人の波が引いた後、凛が僕の席にやってきて、ひそひそ声で話しかけてきた。


「すごい美人だけど、なんか、壁ありすぎじゃない? 絶対零度のバリア張ってるみたい」


「ああ……。わかる気がする。あれは近寄れねえよ」


「委員長として、なんとかしなきゃとは思うんだけどねー。攻略難易度高すぎでしょ、あの子…」


凛がお手上げ、といったように肩をすくめる。


「んー、お前でも無理か。じゃあ無理だ、諦めろ」


「なんでよ! まだ何もしてないでしょ!」


ぷんすかと怒る凛をなだめていた。


そしていつしか彼女は、クラスの間でこう呼ばれるようになっていた。

その美しさと、人間離れした近寄りがたさから、畏怖と揶揄を込めて――『神様』、と。


僕も、よもや遠巻きに彼女を眺めるだけだった。だが人違いだと思ったはずなのに、なぜか目が離せない。彼女が時折見せる、ふとした瞬間の寂しげな横顔が、僕の心の片隅に、小さな棘のように引っかかり続けていた。


その日の六時間目は、一番退屈な現代文の授業だった。

教師の抑揚のない朗読が、気怠い午後の空気に溶けていく。僕はもうノートを取るのも諦めて、ペンを回しながら窓の外を眺めていた。積乱雲の形が、巨大な城のように見える。あそこが僕の城で、僕はそこの神様で……。


「あーあ、そろそろ神様になれそう……」


ほとんど無意識に、そんな独り言が口からこぼれた。隣の凛にだけ聞こえるくらいの、本当に小さな声だった。凛が呆れたように、小さな声で「また言ってる」と苦笑して突っ込む。

いつもの、ありふれたやり取り。

その、はずだった。


ピクリ、と。

僕の二つ前、神崎葵の背中が、ほんのわずかに強張ったのを、僕は偶然見てしまった。ペンを握る彼女の指先に、一瞬だけ、ぎゅっと力がこもる。


――その瞬間、葵の世界では、時間が巻き戻っていた。


(……神様?)


その言葉が、まるで錆びついた記憶の扉を開ける鍵のように、彼女の脳裏に突き刺さる。

途端に蘇る、鮮やかな光景。

真夏の強い日差し。ひんやりとした神社の空気。セミの声。

そして、そこにいた一人の少年。


『ここは僕の秘密基地なんだ』


そう言って、少し生意気そうに、でもどこか寂しそうに笑った男の子。彼もまた、何かぶつぶつと独り言を言っていた。そうだ、彼は、神様になりたいとかなんとか、そんなことを言っていた気がする。


葵の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。

まさか。そんなはずはない。偶然だ。日本中どこにでもいる、ありふれた男の子。

そう思おうとしても、一度動き出した心臓は言うことを聞かない。

葵は、教師にノートを見せるふりをして、ごく自然な動作を装いながら、そっと後ろを振り返った。そして、自分の席から見える、少年の横顔を盗み見る。


山口将希。

退屈そうに窓の外を眺め、時々、隣の幼なじみと何かを囁き合っている。平凡で、どこにでもいる、人見知りな男の子。

でも、その横顔は。

記憶の奥底にしまい込んでいた、あの夏の日の少年の面影と、寸分違わず重なって見えた。


(まさか……。あの時の……男の子? こんなところに、いたなんて……)


氷のように固まっていたはずの仮面の下で、十年近く止まっていた感情の奔流が、激しく渦を巻く。

牢獄だと思っていたこの教室に、たった一つ、無視できない光を見つけてしまった。


どうしよう。

これから、どんな顔をして彼を見ればいい?


葵は、激しい動揺を悟られまいと、すぐに正面を向き直し、再び完璧な「氷の仮面」を被った。背筋を伸ばし、教科書の文字を、ただ目で追う。


そんな葵の心の激動に、僕はまったく気づいていなかった。

(なんだ? 今、こっちを見たか……? いや、気のせいか)

僕はただ、やっぱり怖い子だな、何を考えているか全然わからない、と1人考えるだけ。

この時の僕たちは、まだ知らない。


一人は気づき、一人は気づかない。この決定的な「認識のズレ」から、僕たちの止まっていた物語が、再び始まろうとしていることなんて。

全ては、ここから始まったのだ。

大体男性は大切なことに気づくのが鈍いと、昔誰かに言われたことがあります。将希にいつまであの時の少女だと気づかせないか、とても悩みます。

もう気づかさせないでもいいのか?なんて、冗談ですよ。

ただ時期尚早、まだ1話です。どこかできっと来ます。お待ちください。

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