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12話 神様を守りたい

世界の音はすべて消えていた。

僕の耳に届くのは、自分の心臓が、ドク、ドク、と不安を煽るように打つ音だけ。目の前には、僕たちが丹精込めて磨き上げた拝殿の床に、まるで悪意そのものが形になったかのような、醜いオレンジ色の染み。

そして、その染みを、ただ、じっと見つめる神崎。

彼女の表情は能面のように、一切の感情を映し出してはいなかった。転校初日に見せた氷の仮面とも違う。

あれは、自らの意思で世界を拒絶する「鎧」だった。でも、今の彼女は、違う。

あまりに強い衝撃で心の回路が焼き切れてしまったかのように、その魂は空っぽの器と化していた。

僕の体は、怒りと、無力感と、そしてどうしようもない罪悪感で重く、動かなかった。


守れなかった。

彼女の、そして僕たちの、唯一の大切な場所を。


僕が彼女をここに誘ったからだ。僕が彼女の心の扉を、無理やりこじ開けようとしたからだ。

だから、あいつらはこの場所に気づき、土足で踏み込んできた。


全部、俺のせいだ…


握りしめた拳の爪が、手のひらに食い込む。血が滲むような痛みも、胸の奥で燃える自分自身への憤怒の前では、些細な感覚でしかなかった。

叫びたかった。何かを、壊したかった。

でも、僕の体は地面に根を張ったかのように動けない。


そんな絶望的な沈黙を破ったのは、僕でも、神崎でもない、第三者の声だった。


「将希! 葵ちゃん!」


その声は、まるで暗闇を切り裂く一筋の光のように、僕たちの間に響き渡った。

ハッとして振り返ると、そこには息を切らした凛が立っていた。

その手には、コンビニの袋が握られている。きっと、また僕たちに差し入れでも持ってきてくれたのだろう。


「どうしたの、二人とも。……って、え?」


凛は、僕たちのただならぬ雰囲気に言葉を詰まらせた。そして彼女の視線が、拝殿の床に広がる醜い染みへと移る。

次の瞬間、凛の顔から、いつもの太陽のような笑顔が、すっと消えた。

彼女は、状況を一瞬で理解したのだ。


「……ひどい」


凛の口から、か細い、震える声が漏れた。その瞳には、信じられないという驚きと、そしてじわじわと燃え広がる、静かな怒りの炎が宿っていた。

彼女は、持っていたコンビニの袋を、そっと地面に置くと、僕の方へ歩み寄ってきた。


「将希、葵ちゃん。何があったの?」


その声は、いつもの快活な彼女からは想像もつかないほど、低く、そして落ち着いていた。

僕は、うまく言葉が出なかった。ただ、乾いた唇で一つの名前を紡ぐのが精一杯だった。


「……江川たちが……」


江川。

その名前を聞いた瞬間、凛の瞳の中の炎が、さらに大きく燃え上がったのがわかった。

彼女は、僕のその一言で、すべてを察したのだ。


「……そう」


凛は短くそう答えると、きつく唇を結んだ。そして、僕と未だに魂が抜けたように立ち尽くす神崎の顔を、一度だけ、じっと見つめた。

その瞳には、「あとは、任せて」と、そう書いてあるように見えた。

そして、彼女はくるりと踵を返すと、僕が止める間もなく、嵐のような勢いで境内から駆け出していった。


僕も我に返り、慌ててその後を追った。

凛が何をしようとしているのか、わかってしまったからだ。

神社の長い石段を駆け下りると、坂道の途中でまだあの不快な笑い声が聞こえてきた。江川とその取り巻き、そして他校の男子生徒たちが、自分たちの武勇伝を得意げに語り合っている。

そこへ、凛が一人立ちはだかった。


「江川さん」


凛の、氷のように冷たい声が辺りに響き渡る。

騒いでいたグループが、一斉に怪訝そうな顔で凛を見た。


「あ? 相沢さんじゃん。何か用?」


江川は、リーダー格の男子の腕に絡みつきながら、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、凛を見下ろしている。

凛は、そんな彼女の態度にも一切怯まなかった。


「あなた、自分が何をしたか、わかってる?」


凛の、まっすぐな視線が、江川を射抜く。


「は? 何のこと? あんたには関係ないでしょ、委員長さん」


「関係なくない。友達が傷つけられてるのを、黙って見てるわけにはいかないから」


凛の、そのきっぱりとした言葉に、江川の眉が、ぴくりと動いた。


「友達? あんた、あの神崎さんの友達とかいうの? ウケる〜、あんな気味悪い女のどこがいいわけ?」


「葵ちゃんは、気味悪くなんかない」


凛の声は、静かだったが、その一言一言に、鋼のような強さが込められていた。


「あなたが、あなたのくだらない行動で、彼女を一方的に傷つけてるだけ。一番みっともなくて、気味が悪いのは、あなたの方だよ、江川さん」


「……なんですって?」


江川の顔から、笑みが消える。

凛は、一歩も引かなかった。


「楽しい? 人が少しずつ、一生懸命綺麗にした場所を土足で踏み躙るのってそんなに楽しい? 人の大事な思い出をめちゃくちゃにするのって、そんなに面白い?」

凛の言葉は、正論だった。あまりに、まっすぐな正論。

だからこそ、それは、歪んだ心を持つ者たちにとって、最も聞きたくない言葉だったのだろう。


「うっせえな、お前!」


江川の隣にいた他校の男子生徒の一人が、江川に伴って苛立ったように凛の方へ一歩足を踏み出した。


「てめえ、女が調子乗ってんじゃねえぞ」


男の、威嚇するような低い声。凛の体が、一瞬だけ、こわばったのがわかった。

まずい。

僕が、二人の間に割って入ろうとした、その時だった。


「……やめなよ」


か細い、でも、凛とした声が僕たちの背後から聞こえた。

振り返ると、そこに神崎が立っていた。

境内で待っててと伝えたのだが、いつの間にか僕たちの後を追ってきていたのだ。

神崎の顔は、まだ青白く瞳は潤んでいた。でも、もうあの空っぽの人形のような姿ではなかった。

彼女は、自分の足で、ここに立っている。

神崎は、ゆっくりと凛の隣まで歩いてきた。そして、威嚇する男とその向こうにいる江川を、まっすぐに見据えた。


「相沢さんは悪くない。私がここにいるのが気に入らないんでしょ」


葵の言葉に、江川が、鼻で笑った。


「あら、わかってんじゃん? そうよ。あんたがムカつくの。山口くんと、相沢さんと馴れ合って、調子に乗ってるあんたが大っ嫌いなのよ」


「……そう」


葵は、静かに頷いた。


「だったら、私にして。この人たちを、巻き込まないで」


「葵ちゃん……!」


凛が、悲痛な声を上げる。


「やめてよ、そんな言い方! 私たちは、巻き込まれてるんじゃない! 自分の意思で、ここにいるんだよ!」


「そうだよ、神崎」


僕もようやく声を出すことができた。僕は、凛と神崎の隣に立ち、三人で江川たちと向き合う。


「俺たちは三人でここにいるんだ。お前は一人じゃない」


僕の言葉に、神崎の瞳が、大きく揺れた。

江川は、そんな僕たちを見て、忌々しそうに、舌打ちをした。


「……ちっ。なによ、三人でヒーローごっこ? 気っ色悪い」


彼女はもう、自分たちが完全に「悪役」になっていることを自覚したのだろう。これ以上、ここにいても分が悪いと判断したのかもしれない。


「覚えてなさいよ。今日のことは絶対に許さないから」


江川は、捨て台詞を吐くと、取り巻きたちを引き連れて、足早に去っていった。

後に残されたのは、僕たち三人だけだった。


戦いが終わり、緊張の糸が切れたのか、凛の膝が、がくりと折れた。


「……こわかったぁ……」


彼女は、その場にへなへなと座り込み、両手で顔を覆った。その指の隙間から、涙がこぼれ落ちているのが見えた。


「凛……!」


僕が、慌てて駆け寄る。


「ごめん、葵ちゃん……。私、偉そうなこと言ったくせに、本当はすっごく怖くて……。足、震えてた……」


凛は、子供のように、しゃくり上げて泣いていた。

僕は、そんな彼女の背中を、ただ、さすってやることしかできない。

すると、神崎が、ゆっくりと、凛の前にしゃがみこんだ。

そして。

彼女は、おそるおそる、というように、自分の手を伸ばした。そして、泣きじゃくる凛の頭を、そっと、優しく、撫でたのだ。


「……ううん」


神崎が、静かに言った。


「怖かったのは私の方。なのに、相沢さんは私のために戦ってくれた」


その声は、震えていなかった。そこには、確かな感謝と友情の色が宿っていた。


「ありがとう、……凛ちゃん」


神崎が初めて、凛を名前で呼んだ。

その言葉に、凛は、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、葵を見つめる。

そして次の瞬間、凛は神崎の体に思いっきり抱きついた。


「うわあああん、葵ちゃあああん!」


「きゃっ……!」


突然のことに、神崎が悲鳴のような声を上げる。

でも、彼女は凛を振り払わなかった。戸惑いながらも、その華奢な腕で、凛の背中を優しくぽんぽんと叩いてあげていた。


夕暮れの坂道で、抱き合って泣きじゃくる二人の少女。

そして、そんな二人を少し離れた場所から、どうしようもない気持ちで見守る一人の少年。

僕たちの秘密基地は確かに汚された。問題は何も解決していない。


でも。

僕たちの間には、今日嵐の中でしか生まれないような、新しくて、そしてとても硬い、特別な絆が確かに生まれたのだ。

僕は汚された神社の床を、そして目の前で支え合う二人を交互に見つめた。

守りたい。

この二人を。そして、僕たち三人のこの場所を。

そのために、僕は何だってしてやる。

僕の心の中には、もう迷いはなかった。静かな燃えるような闘志が、確かに宿っていた。

絆は瞬間で作れるものではない。だからこそ、厳しい逆境の中で創られた絆は強い。

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