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10話 神様の解凍と太陽の氷結

恋は幸せにも、傷にも変わる。残酷なものにも、幸せなものにも。

相沢凛は、最近の幼なじみの変化に、首を傾げていた。

きっかけは、ほんの些細なことだった。


「将希、今日の昼、屋上行こ」


「ん、ああ」


「……なんか、あんた、最近機嫌いいよね」


「そうか?」


「そうだよ。前は、世界の終わりみたいな顔して、いっつも『退屈だ〜』『神様になりたい〜』って言ってたのに。最近、それ、言わなくなったじゃん」


「……気のせいだろ」


そう言って、幼馴染の将希は、ぷいと窓の外に視線をやってしまう。その耳がほんの少しだけ赤いことに、凛は気づいていた。


おかしい。絶対におかしい。


凛と将希は、家が隣同士で物心ついた時から一緒にいる。腐れ縁、という言葉がしっくりくる、よもや空気のような存在。彼の考えていることなんて、手に取るようにわかる、と自負していた。

なのに、今の将希はわからない。

彼の放課後は、決まって「ボランティア活動」という名の、謎の用事で埋まっている。

以前なら、面倒くさがって絶対にやらないようなことだ。

そして教室での彼の視線は、気づけばいつも同じ場所へと吸い寄せられている。


神崎葵。


クラスの誰もが遠巻きにする、氷の『神様』。

凛は、委員長として葵のことを気にかけていた。彼女の持つ、人を寄せ付けない雰囲気。その奥に隠された、深い孤独の影。どうにかして、彼女の力になってあげたい。そう思ってはいたが、凛の太陽のような明るさでさえ、彼女の心の氷を溶かすことはできずにいた。


なのに、将希は。

あのヘタレで、人見知りで、自分の世界に閉じこもりがちだったはずの将希は、一体、彼女と何があったというのだろう。

凛の心の中に、好奇心と、そして、今まで感じたことのない、ほんの少しの寂しさが、小さな渦を巻き始めていた。


「……よし」


ある日の放課後、またそそくさと帰り支度を始める将希の背中を見つめながら、凛は小さく呟いて、決意を固めた。

あんたが何を隠しているのか、この目で確かめてやる。

幼なじみ兼、お目付け役として、それくらいの権利は私にあるはずだ。


凛は、探偵気取りで将希の後をつけた。

学校を出て、商店街を抜け、将希の自転車はどんどん町の中心から離れていく。やがて見慣れない、薄暗い森へと続く、急な坂道を上り始めた。

「な、なによ、この道……」

息を切らしながら、電信柱の影からこっそりと様子を窺う。まさか、こんな場所に毎日通っていたなんて。

やがて、坂道の先に古びた鳥居が見えてきた。打ち捨てられた神社。凛も、小さい頃に肝試しで一度だけ来たことがあるが、不気味で、すぐに逃げ帰った記憶しかない。

将希は、慣れた様子で自転車を停めると、鳥居をくぐって境内の中へと消えていった。

凛は、心臓がドキドキと高鳴るのを感じながら、抜き足差し足、音を立てないように、その後を追った。そして、大きな木の幹から、そっと中の様子を窺う。


その瞬間、凛は息をのんだ。


彼女が、そこにいたからではない。神崎葵が、そこにいることは、もう、なんとなく予想がついていた。

凛が本当に驚いたのは、そこに広がる光景そのものだった。

境内の隅で、二人が、楽しそうに、笑い合っていたのだ。

将希が竹ぼうきをギターみたいに持って、変なポーズを取っている。それを見て、葵が、口に手を当てて、くすくすと、肩を揺らして笑っている。


あの? 神崎さんが?

教室では、一度だって笑顔を見せたことのない、あの氷の神様が?

そして、何よりも凛を驚かせたのは、将希の顔だった。

彼が、あんなに屈託のない幸せそうな顔で笑うのを、凛は、もう何年も見ていなかった。それは、凛にさえ最近は見せてくれなかった表情だった。

凛の頭の中は、一瞬で真っ白になった。


(な、なによ……、あれ……)


謎は、解けた。将希の秘密のボランティア活動の正体は、これだったのだ。

葵と二人で、この神社を掃除していた。だから、彼は、あんなに生き生きとしていたのだ。


そうか。そうだったのか。


あのヘタレの将希が、ついに、やったんだ。誰も溶かせなかった、葵の心の氷を、あいつが……。

そう理解した瞬間、凛の胸に、温かいものがこみ上げてきた。

自分のことのように、嬉しい。幼なじみとして、誇らしい。

よかったね、将希。

よかったね、葵ちゃん。

気づけば、凛の口元には、満面の笑みが浮かんでいた。

こうなったら、もう、隠れている意味なんてない。


「ちょっと、あんたたちーーーっ!!」


凛は木の影から飛び出すと、仁王立ちになって大声で叫んだ。


「こんなとこで、二人っきりで密会とは、いい度胸じゃないの!」


「うわっ!? り、凛!?」


将希が、素っ頓狂な声を上げて、飛び上がった。その狼狽ぶりに、凛は、さらに笑いがこみ上げてくる。


「な、なんでお前がここに……!」


「そりゃ、あんたがあんまりコソコソしてるから、心配で見に来てあげたんでしょ! 幼なじみとして!」


凛は、わざとらしく胸を張った。隣では、葵が、驚きと戸惑いが入り混じった顔で、固まっている。

凛は、そんな葵に、にぱっと笑いかけた。


「やっほー、葵ちゃん! なーんだ、こんなとこでデートしてたんだ。言ってくれればよかったのにー!」


「ち、違う! これは、その……」


「ボランティア活動、でしょ? 知ってるよ」


僕がしどろもどろになっていると、凛は、持ってきたコンビニの袋を掲げて見せた。


「はい、これ、差し入れ! 頑張ってる二人にご褒美です!」


袋の中には、冷えた麦茶と、アイスが数本入っている。


「え、いいのか?」


「いいのいいの! 私も、ちょっと手伝わさせてよ! 委員長として、学校の備品を私的に使ってるの見逃すわけにはいかないからね。ちゃんと監督しとかないと!」


凛は、そう言って、落ちていたほうきを手に取った。

最初は戸惑っていた葵も、凛の裏表のない、太陽のような明るさに、少しずつ警戒を解いていったようだった。

三人の、奇妙で、そして、とても賑やかな掃除が始まった。

凛が、将希の昔の失敗談を大声で暴露し、将希が「やめろ!」と顔を真っ赤にして怒る。そのやり取りを、葵が、おかしそうに、でも、幸せそうに、笑いながら見ている。


なんて、素敵な光景だろう。


凛は、心の底から、そう思った。

将希に、友達ができた。葵ちゃんに、笑顔が戻った。これ以上、嬉しいことはない。

私は、この二人を、全力で応援しよう。一番の、親友として。


その、瞬間までは。



通り掃除が終わり、三人は、綺麗になった縁側に腰を下ろして、凛が持ってきたいアイスを食べていた。


「はー、疲れたけど、気持ちいいね!」


「ああ、お前の手際、いいな。助かったよ」


将希が、素直に礼を言う。


「でしょー? だから言ってるじゃん、私がいないとダメだって」


凛が、得意げに胸を張る。いつもの、くだらない、でも、心地いいやり取り。

その時だった。

将希の頬に、アイスのクリームが、ちょこんと付いているのに、葵が気づいた。


「あ……」


葵は、何かを言おうとして、でも、声にならない。そして、彼女は、おそるおそる、というように、自分の指を伸ばした。

そして、将希の頬についたクリームを、そっと、指先で拭ってあげたのだ。


「え? あ、ああ……、悪い」


将希は顔を真っ赤にして、照れている。

葵もまた自分のしたことに、はっとしたように、顔を赤らめて俯いてしまった。

それは、ほんの些細な、一瞬の出来事。

でも、その瞬間、凛には、はっきりと見えてしまったのだ。

二人の間にだけ流れる、特別で、甘酸っぱくて、そして、誰も入り込むことのできない、優しい空気。

凛の知らない、将希の顔。

凛の知らない、葵の顔。

二人がお互いだけに見せる、特別な表情。


ズキン、と。


突然、凛の胸の奥が、まるで氷の針で突き刺されたかのように鋭く痛んだ。


え……?


息が、詰まる。

今、のは、何? なんで、私の胸が、こんなに痛いの?

楽しいはずなのに。嬉しいはずなのに。

目の前の、幸せな二人を、見ていたくない。

そんな、黒くて、冷たい感情が、自分の心の中に生まれていることに、凛は、気づいてしまった。



なんで?



だって、私は、将希の、一番の……。

一番の、なんだっけ?

幼なじみ? 親友?

違う。

違う。違う。違う。


凛は、その時、初めて、はっきりと、自覚してしまったのだ。

将希の隣。そこは、いつだって、当たり前のように、私の居場所だと思っていた。他の誰にも、渡したくない。渡すなんて、考えたこともなかった。

それは、なぜか。

ああ、そうか。


なんだ、私……。

将希のこと、好きだったんだ。


ただの幼なじみとしてじゃない。一人の男の子として、ずっと、ずっと、好きだったんだ。

そのあまりに単純で、あまりに残酷な真実に、気づいてしまった瞬間。

凛の世界から音が消えた。

目の前で、照れくさそうにしている将希と葵の姿が、やけにゆっくりと、スローモーションのように見える。


心臓が、痛い。痛い。痛い。


涙が、喉の奥から、こみ上げてくる。

ダメだ。泣いちゃ、ダメだ。今、ここで、泣いたら。

この、二人の、幸せな時間を、私が、壊してしまう。

それだけは、絶対に、ダメだ。


「……なーんて! 二人とも、いちゃいちゃしちゃってさー! アオハルかよ!」


気づけば、凛は、いつもより、ワントーン高い声で、叫んでいた。

無理やり、口角を上げて、満面の笑みを作る。大丈夫。笑えてる。いつもの、私だ。


「ほら、アイス溶けちゃうよ! 早く食べないと!」


凛は、そう言って、自分のアイスを、大口を開けてかじった。頭が、キーンと痛む。でも、胸の痛みよりは、ずっとマシだった。


「じゃあ、お邪魔虫は、そろそろ退散するから! 頑張りなさいよ、二人とも!」


凛は、空になったアイスの棒をゴミ袋に突っ込むと、わざとらしく、ひらひらと手を振って、立ち上がった。


「え、もう帰るのか?」


「そうだよ。主婦は、夕飯の支度で忙しいの!」


訳の分からないことを言って、凛は、二人に背を向けた。

お願いだから、引き止めないで。

今、振り返ったら、きっと、泣いてしまうから。


凛は、逃げるようにして、神社の石段を駆け下りた。

自分の自転車に跨り、全力でペダルを漕ぐ。

風が涙で滲む視界を少しだけ乾かしてくれる。

境内から、遠ざかっていく。二人の世界から、遠ざかっていく。

もう、二人の姿が見えなくなった、と確信した、その時。

凛の瞳から、こらえきれなかった涙が、一筋、頬を伝って、地面に落ちた。

彼女は、自転車を止め、ハンドルに顔をうずめた。しゃくり上げる声が、漏れないように、必死で唇を噛みしめる。


「……応援、しなきゃ」


凛は、自分に言い聞かせるように、何度も、何度も、呟いた。


「一番の、幼なじみなんだから……。友達、なんだから……」


太陽のような彼女の笑顔の裏に、この日一つの冷たい影が落ちた。

それは誰にも見せることのない、彼女だけの切ない初恋の痛みだった。

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